第二十話 相模湖

 晴天に恵まれた日曜の空を見ながら、網膜の奥に感じる微かな痛みで、小熊は紫外線がかなり強いことに気づく。

 冬季に寒さ対策のため、ヘルメットの顔を覆う半透明のシールドを買ったことに感謝しながら、国道二十号線を走った。

 バックミラーに目を走らせると、水色のカブと赤いカブが写っている。

 ちゃんとミラー越しに把握出来る範囲に纏まっているのはいいことだと思いながら、前方に見えてきた道路標識を視界の隅で捉えた。

 さっき甲府を過ぎて今は左右にブドウ畑の広がる勝沼。ここから目的地までの距離は、看板に教えて貰わずとも何度かの往復で体が知っている。

 後ろを走る椎の目にはあの距離標識がどう見えているのだろうかと少し思った。


 春に水色のリトルカブを買った椎は、ちょうど一年前の小熊がそうであったように少しずつカブで行ける範囲を広げ、つい数日前は一人で甲府に行ったという。

 今の小熊と礼子にとって甲府は、学校帰りの買い物で卵やキャベツが近所のスーパーより数十円安かったら買いに行くくらいの距離で、遠出した時に勝沼から甲府のあたりに来ると、もう家の近所に帰ってきたという感覚になってしまったが、椎にとってはちょっとした冒険なんだろう。

 これから走る笹子峠に備え、小熊は片手を挙げた。


 三台の車列で最後尾を走っていた礼子のハンターカブが飛び出してくる。バックミラーで確かめるまでもなく、無駄なシフトダウンと消音装置の無いチタンマフラーの馬鹿でかい音でわかる。

 小熊は車体を傾けてブレーキをかける。縦一列だった三台のカブが一瞬、椎の位置で横一列になった直後、礼子が椎のカブの前方に滑りこみ、小熊が後尾を走る体勢にスイッチした。

 初心者だということを考慮して、常に小熊と礼子に前後を挟まれている椎が、ちょっとした芸当のようにも見える前後の入れ替えに驚嘆するように、椎のヘルメットが少し動いたが、以前小熊から受けた警告を守っているらしく、余所見をすることなく前方に顔を向けている。

 ここから先はおそらく椎が経験したことの無い長い上り坂になる。日曜の昼前で車の流れはそんなに速くないが、上り勾配ではカブのエンジンパワーを最大限に使わなくてはいけない。


 椎のリトルカブより5%の排気量拡大をしただけの小熊のスーパーカブも似たようなもの。急な斜度の坂だと途中で失速するような感じになる。三速のギアを一段落とすほどでもない中世半端な坂で、早く頂上に着かないかと思わされたことは何度もあった。

 坂のずっと手前から助走をつけて勢いで登っている途中で、よりにもよって信号や前車の急な減速で強制的に失速させられた時などは、それまで必要十分だと思っていたカブのエンジンに文句の一つも言いたくなる。

 様々な改造パーツを見境無く取り付け、それが原因の故障や散財をしょっちゅう起こしている礼子のカブのように、エンジンの大幅な部品交換をする気にはなれなかったが、高回転でもう少しすっきり回るようにはしたいと思った。

 

 考え事をしているうちに、小熊はオレンジの光に包まれた。国道二十号線の笹子トンネルに入ったことを知る。手前には道の駅があったが、休憩をするほどの距離じゃない。

 初心者は圧迫を感じて速度を落としがちなトンネルの中でも、椎のカブは安定している。礼子も一人で走っている時は、今まで免許証が綺麗なままで居るのが不思議なくらい飛ばしまくるが、椎が一緒の時など、小熊が睨みを利かせている時は不必要にスピードを上げたりしない様子。

 長いトンネルを抜け、道が広くなったところでもう一度前後の位置をスイッチした。ここからの下り坂ではエンジンパワーよりブレーキング能力のほうが重要になる。礼子のハンターカブは小熊や椎のカブより一回り大きいドラムブレーキを付けているが、最近ブレーキシューを交換したばかりで慣らし中らしい。


 トンネルを越えたことで気候が変わる。バイクに乗っているとよく、そういう気温や湿度の境目を通過することに気づかされる。今まで走ってきたのは南アルプスと八ヶ岳の山系だけど、この辺はもう丹沢山系に近い。

 目的地まではもうすぐ。甲州街道はここから曲がりくねったワインディングロードになる。初心者の椎には少し敷居が高いかとも思ったが、その恐怖もまたバイク乗りだけが味わうことの出来る妙味だということを、知って貰うのも悪くない。

 森の中を通りぬけるような道で、初夏の木々が発する濃厚なフィトンチッドを浴びながら走っていると、目的地の看板が見えてきたので、後方を走る椎にハンドサインを送った後、ウインカーを点けてカブを減速させる。


 相模湖プレジャーフォレスト。

 神奈川県相模原市の緑区にある相模湖畔のレクリエーション施設。

 甲州街道を左折した先にあるゲートを通過した小熊たちは、敷地内に幾つかある広大な駐車場のうちの一つに案内される。

 キャンプグッズを積んだファミリーカーで一杯の駐車場を通り過ぎた先にあるもう一つの駐車場には、アウトドアリゾートを楽しむ家族連れとは毛色の違う人間が集まっていた。

 駐車場を埋め尽くしていたのは、見渡す限りのバイク。


 大型バイクから原付まで、種類を問わぬバイクの群れの中で、空いているスペースを見つけた小熊は自分のカブを駐車させる。椎と礼子も横に駐めた。

 カブを降りた小熊は、ここまでの走行で少しふらつく足をふんばりながらヘルメットを脱いだ。椎は周囲に広がる異様ともいえる風景を見回している。礼子は今にも飛び出したそうな様子。

 小熊たちは日曜の昼間にここまで、キャンプやバーベキューをしにきたわけじゃない。目的はここで年に一回催されるイベント。

 相模湖スワップミート。

 日本最大のバイク部品交換即売会。

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