第十九話 初夏

 礼子の提出した進路希望表は何とか教師に受理された。

 教師も記入された内容を彼女の本気だとは信じていない感があったが、とりあえず時間稼ぎ的な効果はあったらしく、夏休みの帰省で親とよく話し合うように、という指導を受けたらしい。

 一学期の中間試験も終わり、礼子も小熊も、自分の試験より高校に入って初めての定期試験を受ける妹の慧海のことばかり心配していた椎も、今までと大して変わらない成績を取った。

 椎の進路については最初に提出した進路希望表がすんなり認められた。高校に入った当初はバリスタになるという夢を叶えるためイタリアへの留学を、もし学力等の問題で無理なら現地のバール・カフェで皿洗いでもしようと希望していた椎も、高校生活の中でより現実的、具体的な進路を思い描くようになり、三年生に進級する頃に東京のミッション系大学を志望することを決めた。


 小熊が指定校推薦を受ける予定の公立大学と同じ都内でも、八王子にある小熊の大学とはだいぶロケーションの異なる、千代田区の四谷にあるという椎の志望校は、椎の母親の母校でもあるという。

 当初は都会のど真ん中にある大学への進学とそれに伴う都会での一人暮らしに腰が引けていた椎も、その大学にイタリア語学科があることと、ヨーロッパのカフェ文化を研究するゼミがあることを知り、一般受験による進学を決意した。


 小熊も礼子も椎も、自分の将来を築くべく変わり始めていた。変わっていくという意識も実感も無いまま、それまで高校生だった自分が、違う自分になっていく。

 ゆっくりと変わっていく小熊たちを追い越すように、季節もまた変化していた。

 冬を終え暖かくなったと思っていた日差しがだんだん強くなり、冬季と兼用のジャケットを着てカブに乗っていると汗ばんでくる。通学の時はブレザーを後部のボックスに仕舞い、シャツの上からジャケットを着るようになった。

 カブも冬季の必需品だったウインドシールドとハンドルカバーが取り外され身軽になった反面、日向に長いこと置いておくと鉄板の車体と黒いシートが熱を持つようになった。

 春が終わりつつある。

 

 初夏と呼ばれる、バイクに乗っていると最高に気持ちいい季節。小熊と礼子と椎は、三台のカブで連れ立って色んな場所に行った。

 冬休みの九州ツーリングのような遠出は時間や予算の制約で出来なかったが、山梨県内とその近隣にいくつもある行楽地まで行き、ピクニックやツーリングを楽しんだ。

 初夏が終わればバイクでの行動が制約される梅雨の時期がやってくる。短い時間を惜しむようにカブで走り回った。

 椎の妹の慧海はといえば、何度か礼子のハンターカブの後部に乗せてツーリングに連れ出したが、あまり興味を持てない様子。今は自宅周辺の山に登ることで忙しいらしい。

 小熊たちは次にどこへ行くか、あと何回こうやってカブで遊びに行けるかと喋り合った。もうすぐ三人は離れて暮らし始めることはわかっている。でも、用があればいつでも互いの場所に行けるカブがある。


 本当にそうなのかな?と小熊は思った。離れるのは距離だけじゃない。環境も人間関係も変わっていく。小熊は進路指導の時に教師から貰った、公立大学の奨学金入学に関する資料の中にあった一枚の書類を思い出した。

 入学後に住むことになる、大学と駅に隣接した学生寮。

 真新しいマンションタイプの寮にはオートロックに集中エアコン、ネット回線も洗濯乾燥機もついていて、寮費は奨学金から支払われる。

 ちょっとしたシンデレラ気分になれそうな豪奢な寮の入居規則の中で、ひとつの項目が小熊の目についた。

 バイク禁止。

 カブがあれば離れることのない関係。もしカブを失ったらどうなるのか。

 

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