第十一話 100,000,000

 椎の妹、慧海の高校入学を祝うサンドウイッチ・パーティーは終わり、小熊は椎の不可解な行動に対する疑問が晴れた気分だった。

 慧海という奇妙な後輩のことは、わかったようなわからないかったような感じだが、少なくともBEURRE自慢のサンドウィッチとパイで、ここ最近粗食続きだった腹は満たされた。

 翌朝、小熊と礼子は反対方向の自宅からカブで来ているのに、なぜか同時に校門をくぐることになり、あまり嬉しくないシンクロニシティを味わった。

 駐輪場に小熊のスーパーカブと礼子のハンターカブは少し離れて停まった。真ん中は椎のリトルカブを停めるスペース。椎は春休みに水色のリトルカブを買って以来、一度もカブで学校に来ていない。


 椎が原付で公道を走るのにまだ少し恐怖を抱いているという理由もあるが、椎は一年生として小熊や椎の高校に入学した慧海に付き添い、歩くには微妙に遠い通学路を徒歩で、たまに母の車に乗せて貰って登校している。

 サバイバルという特異な趣味を持ち、中学の三年間は都内の中学に通っていたという慧海は、まだ学校に行くという義務行動に馴染めないらしく、慧海が学校より学ぶものが多いと信じる南アルプスの山野へと駆け出してしまわないように、小さな姉がお目付け役をしている。 

 この分なら今日も椎の駐輪スペースは不要だと思い、小熊が自分のカブを礼子のカブに寄せて駐めなおそうとした時、耳に手を当てた礼子がもう片方の手で小熊を制す。


 一瞬遅れて小熊の耳にも馴染んだ音が聞こえてきた。小熊が校門の方角を見ると、椎が少しよたよたしながら水色のリトルカブでやってきた。

 小熊が椎を手招きしながら、自分と礼子のカブの間のスペースを指差す。椎は頷いて駐輪場の手前で一度カブを停めてエンジンを切り、押して歩いてきたカブを二台のカブの間に停めた。

 椎はリトルカブの後部荷台に付けたボックスから、自転車通学時代から使っているメッセンジャーバッグを取り出し、礼子から借りたままになっているパイロットヘルメットを脱いでボックスに入れた。

 リトルカブの車体に合わせて小熊が選んだ水色のボックスは、傍目には資源ゴミの回収箱にしか見えないため、椎はあまり嬉しそうではなかったが、結局のところ便利さに負けて使っている様子。


 リトルカブをワイヤーロックで柱と繋ぎ、蓋も鍵も無いボックスに入れたヘルメットに自転車用らしき細いチェーンロックをかけた椎に、礼子が言った。

「慧海ちゃんはもう大丈夫なの?」

 数日前まではキーさえ差しっぱなしで置いていたカブに防犯対策を施し、褒めてほしそうな目で小熊を見ていた椎が、振り返って礼子に言う。

「慧海にはわたしから、ちゃんと学校に行くように言い付けたから」

 それから小熊のほうに向き直り、胸を張って言う。

「もし学校さぼって山登りに行ったら、甲斐駒の頂上だろうと小熊さんがカブで追いかけてきて、襟首掴んで教室に連れてくって言ったら、慧海ちゃんが『ならば学校に行く』って」

 礼子が肩を震わせて笑っている。小熊はどう答えていいのか迷った。椎と慧海に自分はどう見えているんだろうか。結果として慧海は一人で学校に来られるようになり、椎は妹への過保護が落ち着き、カブで学校に来た。それでいいんだろうかと考えている間に予鈴の時間が近くなったので、三人で昇降口へと向かった。


 教室に落ち着き、午前中の授業を終えた後、小熊の席までやってきた礼子は机に座ってスマホを見ている。

 小熊も学校や公共機関で借りたPCや礼子のスマホでネットくらいするが、必要な情報や開くべきサイトを先に決めてから見る。一方礼子は特に理由も無くスマホを開き、見る物やネット通販で買う物があっても、そのサイトに行くまでに無駄な寄り道をする。

 礼子はスタートページに設定されているニュースサイトで気になる記事を見つけたらしい。タップして小熊に見せる。

 スーパーカブの生産台数が、間もなく一億台に達するという内容。

 自分のカブのメンテナンスやパーツ入手に有益な情報が無さそうなので、さほど興味を持っていない小熊に、礼子は一方的に語りかける。

「一億よ一億!機械製品でこれより多く作られたのは軍用小銃のカラシニコフくらいよ!まぁ人の生活に深く関わってるのはカブだけどね」

 相手をする気になれない小熊の横に椎がやってきた。昨日まで昼食時間も妹の面倒を見ていた椎は、今日からまた小熊や礼子と昼食を共にするようになったらしい。無駄なネット遊びで時間を潰していた礼子が、それを待っていたように見えたのは、小熊の気のせい。

 時間有限の昼休みを大切にしなくちゃといった感じで、椎はブレザーの左手首をまくっている。小熊は椎が見ていた真新しい腕時計を指差した。

「それ、買ったの?」

 

 小熊と同じクラスの高校生たちは、腕時計を付けている生徒より付けていない生徒のほうが多かった。女子だけに限れば四~五人に一人くらい。腕時計は手首に痕がついたり面倒事が多いし、時間はスマホで見ればいい。

 その中でも数少ない腕時計を着けている女子のうちの一人が小熊で、もう一人は礼子。共通点はバイクに乗っているということ。

 バイクで走りながら時間を見なくてはいけなくなった時、ポケットやバッグからスマホを取り出すようなことをすれば、時間はわかるが命の危険についても身をもって理解することになる。

 小熊はそれまで腕時計を着けていなかった椎にも、彼女がリトルカブに乗るようになって以来、腕時計があると便利といった感じでやんわりと薦めたことはある。

 椎が腕時計を買ったのは、小熊の真似という理由だけでなく、小物や持ち物を水色で統一している彼女が、見て気に入って欲しくなってしまったんだろう。バイクの乗るときの腕時計の必然性は、たぶん衝動買いの後押しというか言い訳。


 椎は自分の着けているカシオGショックの女性用モデル、ベビーGをネット通販で買って、昨日届いたという。リトルカブを買ってすっからかんになった身で翌月に届くであろう請求書については、深く考えている様子は無い。

「前から欲しかったんですけど安くなってたんですよ。Gショックの製造一億個記念ってことで」

 礼子の表情が変わる、それまでスーパーカブの一億台達成のニュースに自尊心をくすぐられていた様子の礼子は、なんともくやしそうな顔をしている。小熊は気にせず自分の昼食を取り出した。

 今朝は昼に食べるご飯を炊く時間が無かったため、買い置きの昼食を持ってきた。カップヌードルのしょうゆ味。

「途中で職員室に寄って、お湯を貰う」

 それから礼子に向かって言い足す。

「これは四百億個だって」


 小熊からの追い討ちを食らって死んだ目をしている礼子を小熊と椎の二人で連行するように教室を出て、昼食の定位置になっている駐輪場に向かった。途中で寄り道をする。小熊は職員室、椎は一階にある一年生の教室。

 例のポケットがたくさん付いたベストを着ていない制服姿の慧海は、昨日会った時よりほっそりして見えた。昼休みの教室で孤立していると思いきや、何人かの同級生に話しかけられている。風体や言動は奇妙でも、上背はあって顔も整っているので、黙っていれば女子高でもてるタイプに見えなくもない。

 小熊と礼子を教室の外で待たせた椎は、自分よりだいぶ背の高い一年生の中に割って入り、慧海の腕を取りながら言った。

「お昼はお姉ちゃんと食べるの」


 そのまま椎は慧海を連れてくる。教室の女子たちは「かわいいー」「甘えんぼさんね」と言っているのが聞こえた。見た目だけで判断するなら、妹のほうが保護者に見える。

 小熊と礼子は、椎と慧海を連れて校舎を出た。駐輪場に落ち着き、やっと昼食の時間が始まる。礼子は椎の店でツケ買いしたライ麦パンにコンビーフ、チーズ、ザワークラウトを挟んだルーベン・サンドイッチ。椎はキャンベルの缶詰野菜スープに漬け、鴨肉を添えたパスタ。小熊のカップヌードルもちょうどいい食べごろ。慧海は何やら茶色い団子というか粘土のようなもの。

 小熊がそれは何かと聞くと、慧海は自慢するでもなく隠すでもなく答えてくれた。

「ツァンパです。麦こがし粉をバターとお茶で練り、塩と唐辛子を付けたもの」   

 慧海がそう言いながら、小熊にツァンパなるものを差し出したので、さすがに遠慮し、文明人の食べ物を啜った。

 

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