分からなかった。

 自分がどうして生きているのか。

 自分の同胞たちは悩んでいなさそうだった。

 ただあるがままを受け入れればいいと。

 だが果たして本当に、生きるとはそれだけのことなのか。

 その疑問を、つい、目の前の少女に対してぶつけていたのだ。


「頼むよ。音楽ってなんなんだ」


 すると少女――小夜子は顔を背けて、ばつが悪そうに言った。


「ここじゃ言えない。どのみち、仕事が始まれば、知ることになるでしょ」

「それからじゃ遅いんだ。だって死ぬかもしれないだろ。それまでに、俺は知りたい」

「……」


 少女は少し待って、ため息をついて。


「……ちょっとだけ。こんなの、本当は許されないんだから」


 そう言って、壁に向けて、手をついた。

 その指先が僅かに揺れて……壁を、叩き始める。



 響く、響く。

 ぎこちない『音楽』が、外側から聞こえてくる。

 それは何十倍にも増幅されながら、小夜子の頭の中で膨れ上がる。


 音を、ふたつ鳴らした。

 次はどれだろう。

 いつもならこういう時、どんな展開をするのか。

 頭の中の記憶を揺さぶる。

 これまで奏でてきたお仕着せの音楽、今日ここで奏でた、楽譜付きの音楽。

 それらを綜合して、最初の三音にふさわしい音色を選ぶ……選ぶ。

 ――何かを、思い出す。



「何をしてるんだ」

「音楽はね。音を出すの……ええっと。これとは違うけど。こうやって、叩いたり、吹いたり」


 指で、壁を叩く。トントン、トントン。

 それは一定の区間で歯切れよく並ぶ音。

 レイはそれに耳を傾けた。

 すると、定期的に聞こえてくる音、というだけなのに、なにかの『意味』が感じられるような気がした。


「……駄目。こんなの、音楽じゃない」


 だから、彼女が叩くことをやめて、うなだれようとした時、彼は続きを促した。


「続き、やってくれよ」

「いまのを」

「そう、今のを」


 少女はため息を付いて、再開した。

 一体のリズムで鳴らされる壁の音。

 レイは、そこに、別の音を付け加えた。

 床を、とんとんと叩き始める。


「何を……」

「俺にも、出来るぞ。それが音楽なのか。続けてくれ」


 こちらを見て、呆れているような表情をする彼女。


「さぁ、早く」


 促されるまま、彼女は……続けた。

 トントン、トントン。

 レイがそこに、別の音を付け加える。

 異なった音色の、異なったパターンの音が空間に並んで、微妙にずれながら、流れていく。


「……」


 レイは、その音が、不思議だった。

 音に、『流れ』があるような。

 『意味』があるような。

 ひょっとして、それが『音楽』なのか。

 意味のないものに色を付ける。

 ちょうど、灰色の冬の空に、虹がかかるみたいに。

 それが、俺に必要なものなのか。


「ははは」

「……何が、おかしいの」

「俺、俺たち、今、やってるんだな。『音楽』を――」



 そして小夜子は思い出す。

 そうだ、あの時自分は、楽譜もなしに、『音楽』を奏でた。

 それが音楽だと思えたのは、レイの言葉があったからだ。

 レイが、自分が壁を叩く音に、別の音を重ねたから。

 その微妙なズレが和音になって、結果、『音楽』になったのだ。


 ――三音目。

 鳴らす。脳内で過去が再び弾ける。

 それからも、しばらく、自分は壁を叩いた。

 合わせるように、レイが床を叩いた。

 彼は笑っていた。幼子のような、無垢の笑顔。

 つられて、自分も、気付けば、ほんの少しだけ笑っている。

 ――あのときの、続きをするのなら。

 自分が次に奏でるのは。


 また、鍵盤を鳴らす。

 鳴らす。鳴らす。

 そのたび、レイのまぶたが震えて、その身体に電気信号を送る。

 ゆっくりと、海の底から、海面に浮上していく。

 光が見えている。

 

 あの時、あんなことをしたのは。

 その日たまたま、『処置』を受け忘れたから。

 そして、その後……階下の住人、つまりは、監視の役人に音を聞かれていて、通報を受けて。

 自分たちは、その日の記憶を消されたのだ。


 だけど今、思い出した。身体が覚えている。

 外から聞こえてくるでたらめな音に合わせて、鍵盤を叩いていく。

 譜面もアシストもない。

 ただ、あの日の感覚を、あの日、レイとかわしたほんの僅かな笑顔を、その些細な時間を思い出していくことで、自分の中から何かが生まれて、それが白と黒の並びの上で展開できるのだった。


 ――ああ。そうだ。自分は、あの時既に。


「あの時。自分は、音楽を……作っていたんだ」



 人々は互いに手をつなぎながら、喉の奥から音階の真似事をそらんじる。

 歌などというものは知らないので、うめき声が、何重にも重なっているだけだった。

 そのうちに、疑問が湧いて出る。


「なあ、こんなのが音楽と言えるのか」

「分からないよ。でも、こうな気がするんだ。俺たち、聞いてたのって。こういうのじゃなかったか」


 そのうち、集団の中で、その行動から抜け出そうとする者たちがいた。

 冷静になって、馬鹿らしいと思ったのか。

 すると皆が彼らの方を向いて、それから互いを見た。

 中止の波が広がろうとする。


「やめないでくれっ」


 その時声がした。

 皆がそちらを向くと、ぼろぼろの人影が近づいてくるのが分かった。

 シルエットが明確になったことで、それが兵士であることがはっきりする。

 血まみれで、足を引きずっている。

 胎内から強引に這い出たらしく、全身がどろどろになっている。

 その後ろから、制止するように蔵前の部隊数人が来ていた。

 その禿頭の、年齢からすれば三十にも満たないであろう青年は、やがて人々の輪の中に入り込んで……ドサリと倒れた。

 仰向けになって、ゴボゴボと苦しげな呼吸をする。

 何人かが傍に寄って、か細い声を聞く。


「続けてくれ……って」


 人々は戸惑ったように互いを見合っていたが、しばらくして……ぎこちなく、その『音楽』を再開した。

 今度ははっきりと、聞かせる相手ができた。


 声の重なりが、輪の真ん中に居る、死にゆく兵士に捧げられる。

 地面を伝って、びりびりと彼の耳朶をくすぐり、全身に満ちていく。

 彼は苦悶に満ちた表情を和らげて、いつしか、安らぎと共に微笑んでいた。


「ああ…………とても近い」


 それからしばらくして彼は死んだ。

 音楽は、続く。



 翼竜たちは煙に満ちた空を旋回し、地上で展開される、その奇妙な儀式を見ていた。


『……』

『―――――――・・・・―――……………―――・・・・・・・・・…………(上は音声データを欲しがっている。そして音楽による再起動という逆説的な奇跡を見たがっている。それが終われば、あの怪物は生け捕りだ。いいな)』


 通信は戦乙女に向けられたものだった。


『・・・……(分かってる)』


 しかし、そう答えながらも、彼は決して腑に落ちていない。

 それどころか、何もしないその時間が長引くに従って、自身の怒りが拡大されていくのを感じる。


 ――そんな綺麗事のために、俺の仲間は大量に殺され、俺は泥を塗られた。従えるものか、従える、ものかよ……。



 一音、一音。小夜子は重ねていく。

 そのたび、頭の中で、レイとの日々がプレイバックされる。

 出会ってからここまで。

 彼女は今、何も考えていなかった。

 ただ、これからやってくる早朝のために相応しい音階は、音色はどこにあるのかを探り当てて、そのとおりに鍵盤を動かす。

 それだけだった。

 いま自分が、どんな音楽を奏でているのか知らなかったし、それはきっと、全てが終わってからでなければ全体を把握できないようなものだろう。



 ドクターは部屋にこもって画面を見つめ、操作を続けている。

 表示される同調率を安定させるには、必要なことが山ほどあった。


「最後は、人の手か……皮肉なものだな……」



 レイはまぶたを震わせる。

 覚醒に向けて、ゆっくりと無意識の領域が狭まっていく。

 人々は歌う。

 暗闇と炎の中を駆け回る者たちを、蔵前と霧崎は見守る、先生は祈っている。


 ――はじめは、レイ、あなたを憎んだ。


 小夜子は問いかける。

 己の中に居るもうひとりに。境界線は崩れ、ひとつになる。


 ――でも今は違う。あなたのおかげで、わたしは、私の音楽を取り戻せた。だから今度は、私があなたを取り戻す。


 ――さぁ、目覚めて。



 最後の一音が鳴った時、レイの瞳が開かれた。

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