⑦
顔を上げる。
髪が、汗が舞った。
小夜子は予行演習を終えて、小型オートコフィンから離れた。
生徒たちは呆然としながら、去っていく自分を見ていた。
当然、先生には、何も出来なかった。
◇
◇
もがくのをやめると、操縦の権限が自分に戻ったのを感じた。
しかしすぐ、後方から警告音。
後ろのモニター壁に表示されているのは、複数の、『味方』を示す青いシミ。
だが、もはや味方ではない事に気づいている。
自分を追跡してくる、複数の翔機が見えた。
何をやろうとしているのかは明白だった。
何も言えなかった。
彼らに対して何かができるだろうかと考えたが、何も出来ないという結論に落ち着いた。
袋小路、とどのつまり。
脳内につながるケーブルに、聞き覚えのある、不定形の無機質な低声。
『お前を始末するために飛んでいる兵士たちは皆、認識改変処置がほどこされている。お前を撃つことも、お前を撃ったことも、彼らは知らないままだ。安心しろ』
次の瞬間には、頭の中に、音楽が聞こえてくる。
息が、詰まった。
◇
きょう、ホールには誰も居ない。
それでも小夜子はドレスを着て、オートコフィンに向かう。
憑かれたような早足で椅子に座ると、孤独な壇上で、鍵盤に指を叩きつける。
孤独な音楽がはじまった。
◇
レイに向けての攻撃が幕を開けた。
翔機の群れは一糸乱れぬ動きで追いかけてくる。
音楽は彼らについていた。
いま、自分には何の効果もないようだ。
彼は全くのひとりで、空の上を逃げ惑っていた。
ミサイルが、レーザーが、音楽に乗りながら迫った。
レイは歯を食いしばりながら、回避する。回避する。回避する。
何度か、空から降り注ぐ藍色と橙色の光に視界がくらんだ。
そのたび機体が大きく揺れた。
――こんなにも。こんなにもひとりなのか。
――音楽の、小夜子のついていない空は。
答える声はどこにもない。
『彼ら』の動きは機械のように正確だった。
着実に自身の後部に接近し、確実に自分を撃墜しようとしてくる。
いま、彼らの顔を、想像することはできなかった。
人々が、その戦いを見ている。
熱狂しているのだろうか。
それとも、裏切り者である自分が滑稽なまでに必至に振る舞うのを見て、ほくそ笑んでいるのだろうか。
どちらにせよ、今の自分の側につくものは、誰も居ないのだ。
……どうしてだ、小夜子、小夜子。
◇
髪を振り乱しながら、小夜子は音楽を奏で続ける。
オートコフィンの十何番目かのプログラム通りにやっている。
それでも、鍵盤そのものをねじ伏せるような、征服するような気迫が満ちていた。
足元に汗の水溜りができていることにもかまわず、弾き続ける。
彼女は、戦っていた。残像と。
今もなお、棘のように食い込んでくる光景。
思い出と戦っていた。
レイのことが、頭から離れない。
どれだけ孤独に身を浸しても、どれだけ血に塗れても。
まだ彼のことが、忘れられない。
そのか細い、泣きそうな笑顔や、傷だらけの身体が。何もかもが。
駄目だ駄目だ、演奏に集中しないと。
指先に力を込めろ。
だけど、共に過ごした時間が、その後ろ姿が、どこまでも追いかけてくる。
最初に出会ったときはいつだっけ。
そうだ、あれも第二種職務の帰りだ。
ひどい仕事だった。
身体が泥のように重くって、すぐにでも眠ってしまいたかったのだ。
そんな時、アパートに向かう帰りの道。
雪が降っていた。
その空に手をかざし、掌のうえに、白い冷気を乗せている青年が居た。
それが、レイだった。
自分は自転車を停めた。向こうが、こちらを見た。
彼と目があう。近づいてくる。
自分はとっさに、両腕を後ろにしまい込んで立ち去ろうとした。
だけど……彼は。
No.ゼロは。
血まみれの私の手を、ためらうことなく両手で包み込んで、言った。
「おまえ。さむそうだな」
◇
レイは撃墜される寸前だった。
翼の殆どがもぎ取られ、身体中に火傷が刻まれている。
そのとき、音楽が……不意に、やんだ。
◇
小夜子の手が止まった。
それ以上、演奏は出来なかった。
◇
翔機たちの攻撃が乱れた。自分に殺到する攻撃がほんの一瞬、ゆるむ。
そのスキを利用しないわけにはいかなかった。
レイは自身の機体のエンジンをカットし、雲の中へと降下していった。
追跡者たちは一瞬遅れて追いかけてきた。
雲の中で、既に傷だらけになっていた羽根を切り離し、ミサイルを当てる。
爆発が起きて、黒煙が舞った。
その策が、功を奏した。
レイの後を追いかけるものは、居なくなった。墜落の偽装に成功したのだ。
孤独な黒い影が、雲間から地上に消えていく。
◇
小夜子はスポットライトの消えた真っ暗な壇上で、オートコフィンに寄りかかるようにしながら、指先で鍵盤のたったひとつを抑え込んで、最後の一音を無限に引き伸ばしていた。
我に返り、彼女は自分のやったことを悟る。
じきに、上級市民たちはこの演奏の是否について語り始めるだろう。
……何もかもが、終わった。
そのことばが、身体全体を侵略するように、じわり、じわりと広がる。
◇
小夜子に、レイを殺す音楽は奏でられなかった。
しばらくして、彼女のもとに、第一種職務を解任する旨が届いた。
それ以降、No.ゼロの姿を見た者はいない。
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