顔を上げる。

 髪が、汗が舞った。

 小夜子は予行演習を終えて、小型オートコフィンから離れた。

 生徒たちは呆然としながら、去っていく自分を見ていた。

 当然、先生には、何も出来なかった。



 もがくのをやめると、操縦の権限が自分に戻ったのを感じた。

 しかしすぐ、後方から警告音。


 後ろのモニター壁に表示されているのは、複数の、『味方』を示す青いシミ。

 だが、もはや味方ではない事に気づいている。


 自分を追跡してくる、複数の翔機が見えた。

 何をやろうとしているのかは明白だった。

 何も言えなかった。

 彼らに対して何かができるだろうかと考えたが、何も出来ないという結論に落ち着いた。

 袋小路、とどのつまり。


 脳内につながるケーブルに、聞き覚えのある、不定形の無機質な低声。


『お前を始末するために飛んでいる兵士たちは皆、認識改変処置がほどこされている。お前を撃つことも、お前を撃ったことも、彼らは知らないままだ。安心しろ』


 次の瞬間には、頭の中に、音楽が聞こえてくる。

 息が、詰まった。



 きょう、ホールには誰も居ない。

 それでも小夜子はドレスを着て、オートコフィンに向かう。

 憑かれたような早足で椅子に座ると、孤独な壇上で、鍵盤に指を叩きつける。

 孤独な音楽がはじまった。 



 レイに向けての攻撃が幕を開けた。

 翔機の群れは一糸乱れぬ動きで追いかけてくる。

 音楽は彼らについていた。

 いま、自分には何の効果もないようだ。

 彼は全くのひとりで、空の上を逃げ惑っていた。


 ミサイルが、レーザーが、音楽に乗りながら迫った。

 レイは歯を食いしばりながら、回避する。回避する。回避する。


 何度か、空から降り注ぐ藍色と橙色の光に視界がくらんだ。

 そのたび機体が大きく揺れた。


 ――こんなにも。こんなにもひとりなのか。

 ――音楽の、小夜子のついていない空は。


 答える声はどこにもない。

 『彼ら』の動きは機械のように正確だった。

 着実に自身の後部に接近し、確実に自分を撃墜しようとしてくる。

 いま、彼らの顔を、想像することはできなかった。


 人々が、その戦いを見ている。

 熱狂しているのだろうか。

 それとも、裏切り者である自分が滑稽なまでに必至に振る舞うのを見て、ほくそ笑んでいるのだろうか。

 どちらにせよ、今の自分の側につくものは、誰も居ないのだ。

 ……どうしてだ、小夜子、小夜子。



 髪を振り乱しながら、小夜子は音楽を奏で続ける。

 オートコフィンの十何番目かのプログラム通りにやっている。

 それでも、鍵盤そのものをねじ伏せるような、征服するような気迫が満ちていた。

 足元に汗の水溜りができていることにもかまわず、弾き続ける。


 彼女は、戦っていた。残像と。

 今もなお、棘のように食い込んでくる光景。

 思い出と戦っていた。


 レイのことが、頭から離れない。

 どれだけ孤独に身を浸しても、どれだけ血に塗れても。

 まだ彼のことが、忘れられない。

 そのか細い、泣きそうな笑顔や、傷だらけの身体が。何もかもが。

 駄目だ駄目だ、演奏に集中しないと。

 指先に力を込めろ。

 だけど、共に過ごした時間が、その後ろ姿が、どこまでも追いかけてくる。

 最初に出会ったときはいつだっけ。


 そうだ、あれも第二種職務の帰りだ。

 ひどい仕事だった。

 身体が泥のように重くって、すぐにでも眠ってしまいたかったのだ。

 そんな時、アパートに向かう帰りの道。


 雪が降っていた。

 その空に手をかざし、掌のうえに、白い冷気を乗せている青年が居た。

 それが、レイだった。

 自分は自転車を停めた。向こうが、こちらを見た。

 彼と目があう。近づいてくる。

 自分はとっさに、両腕を後ろにしまい込んで立ち去ろうとした。

 だけど……彼は。


 No.ゼロは。

 血まみれの私の手を、ためらうことなく両手で包み込んで、言った。


「おまえ。さむそうだな」



 レイは撃墜される寸前だった。

 翼の殆どがもぎ取られ、身体中に火傷が刻まれている。

 そのとき、音楽が……不意に、やんだ。



 小夜子の手が止まった。

 それ以上、演奏は出来なかった。



 翔機たちの攻撃が乱れた。自分に殺到する攻撃がほんの一瞬、ゆるむ。

 そのスキを利用しないわけにはいかなかった。

 レイは自身の機体のエンジンをカットし、雲の中へと降下していった。

 追跡者たちは一瞬遅れて追いかけてきた。

 

 雲の中で、既に傷だらけになっていた羽根を切り離し、ミサイルを当てる。


 爆発が起きて、黒煙が舞った。

 その策が、功を奏した。


 レイの後を追いかけるものは、居なくなった。墜落の偽装に成功したのだ。

 孤独な黒い影が、雲間から地上に消えていく。



 小夜子はスポットライトの消えた真っ暗な壇上で、オートコフィンに寄りかかるようにしながら、指先で鍵盤のたったひとつを抑え込んで、最後の一音を無限に引き伸ばしていた。

 我に返り、彼女は自分のやったことを悟る。


 じきに、上級市民たちはこの演奏の是否について語り始めるだろう。


 ……何もかもが、終わった。

 そのことばが、身体全体を侵略するように、じわり、じわりと広がる。



 小夜子に、レイを殺す音楽は奏でられなかった。

 しばらくして、彼女のもとに、第一種職務を解任する旨が届いた。



 それ以降、No.ゼロの姿を見た者はいない。

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