戦闘が終わったという情報が、耳に届いたその時。

 小夜子はちょうど、遅れに遅れたメインテーマをようやく譜面上に引き戻し、強引な盛り上がりを終結部に作り出していたところだった。

 引き伸ばされたオーケストラがわざとらしい盛大な和音を響かせる……付け焼き刃でしかない。


 彼女は息を喘がせて、鍵盤にしなだれかかるように脱力し、そこで……我に返った。

 はっとして、客席を見る。困惑があった。

 拍手はまばらで、賓客達は互いの顔を見合わせながら首を傾げていた。


「どうしたのかしら。あの曲、あんなふうじゃなかったはずよ……」

「こんなのを聴きに来たつもりはなかったんだが」


 背中が冷たい。

 救いを求めるように、舞台袖を向いた。

 先生がそこに居た。

 こちらを向いて、怯えたように顔を震わせた。

 何も言えず、ただ深い悲しみの表情を浮かべているだけだった。


 ――『失敗した』。血の気が引いて、自分のとんでもない過ちを悟った。



 その時翼竜たちは、不意に戦闘をやめた。

 牙で噛み付くことも炎を吐き出すこともやめにして、廃墟の街の上で、くるりと翼と尾を翻した。

 呆然とする兵士たちの前で、怪物たちははばたき、背を向けて向こう側に消え始めた。


 誰も、追撃をしなかった。

 先程まで激しい生死の音が響いていたその場所が、不気味な風の音だけになる。

 音楽が、やんでいた。


「帰ろう。俺たちも。終わったんだ」


 みんなが、それに従うことにした。

 彼らは、眼下に広がるものをみた。


 黒く塗りつぶされて、書き割りのようになっていた街の成れの果てに、いくつもの死があった。

 翼をもぎ取られた翔機がビルに突っ込んで、その隙間から死んだ兵士の黒焦げの四肢が見えていた。

 地面にぶちまけられた翼竜は四肢をだらんと投げ出してアスファルトの上にのびていて、奇妙な色の体液を広げている。

 その傍らに寄り添うように、もみ合っていたのだろう、別の翔機が転がっていた。

 その他、もろもろ――……彼らのうち、六人が死んだ。


「今日の演奏、妙じゃなかったか」


 誰か一人が言った。


「俺にはわからなかった」


 別の誰かが返事をする。


「そうか。なら気のせいだ」


 それで終わりだった。あとはなにも、疑うものはいなかった。


「とにかくあの人がやったんだ。レイが」

「そうだ、おれたちの英雄が。あの人が戻ってきたら、盛大に祝おう」

「ああ」

「俺たちの死んだ細胞も、あの人の為に死んだんだ。だからきっと、素晴らしいことなんだ」「ああ、よく死んだ!」

「よく死んだ!」

「さあ、戻るぞ!」


 彼らは翼を広げて、戦場を後にする。



 身体がひどくあつい。

 レイは胎内でもがき、ようやく意識をはっきりさせる。


 満ちていた浸潤液は極めて不快な粘度だった。

 薄暗がりの中で、コンソールをまさぐる。


 それでコマンドを探し当てて、なんとかエンターを押す。

 ……ガコン、という大掛かりな音。

 途端に、目がくらむ。

 現実の光が、胎内に差し込んできた。

 液体が外に流れ出し、呼吸器をむしり取る。


 つい数分前、機体は墜落した。

 その時モニターの光景はすべて遮断。

 それから少しだけ彼は気絶していた。

 顔を触っても、負傷はなかった。

 そして何より、妙な冷静さと、頭痛。

 長い昼寝の後のようで、一瞬、前後の出来事を忘れかけた。


 彼が目をもう少し開けると、眼下に、斜めになった岩場が見えた。

 数秒経過して、それが岩場でなく、ひび割れた大地であることを悟る。

 彼は後頭部に腕を持ってきて、それから、刺さったままのケーブルを強引に抜く。

 不快感。吐き気を催すが、すぐにおさまる。


 うずくまった姿勢から完全に起き上がって、胎内の壁に足をかけて、光のなかに踏み出す。


 何もない荒野。

 空は変わらない灰色をしていて。

 雲が幾層にも重なっており、雪がちらちらと降っている。

 ただ違うのは、あの廃墟の群れは随分と遠くになっていて、まるで山の連なりのように見えていて、更に反対側からは、ごうごうという海鳴りのような音が聞こえてくることだった。


 ……あの後。自分はずいぶん遠くに不時着してしまったらしい。

 機体から完全に出て、足を荒野へ。

 どすんという現実感。

 途端になまあたたかさは消えて、もとの重力が戻ってくる。

 そして、果てのない疲労が……襲ってくる……。


 後ろを振り返る。

 ぬるぬるした胎内を腹から露出させながら、ぐったりと横倒しになっている翔機。

 羽根は展開されたまま奇妙にねじまがり、機体側面にはおびただしい火傷が刻まれていた。

 再び飛ぶことは出来るのだろうか。

 もし出来ないのなら、自分はこのままなのか。だとしたら……。


「……!」


 そこで彼は――頭の急激な冷却と冴えと同時に、思い至る。

 そうだ。おれは奴と、あの敵と戦った。

 それからここに来た。奴はどうなった。倒したのか。


 不意に焦りが出てきて、彼は周囲を落ち着かなく見渡す。

 それから、見つける。


 ――あの魔道士。

 鈍重な姿をした怪物が、自分の翔機の下敷きになって倒れている。


 四肢を地面に投げ出して、完全に脱力していた。動く気配は、まるで見られない。


 ――おれは。勝ったのか。

 その実感が、ようやく湧いてくる。

 だが、そこに達成感はなかった。

 あるのは、ひどく疲れ切ったという思いと……去来する、いくつもの映像。


 死が。

 あまりにも多くの死が、短時間で、自分の目の前を通り過ぎていくようだった。

 その顔のひとつひとつ。

 はっきり覚えていないのに、なぜだか判別できるような気がした。


 胎内を見ると、まだあの栞はぶら下がっていた。

 その主はもう居ない。死んだ。


 死んだ、死んだ――たくさん死んだ。

 自分に憧れた者たちが。自分をかばった者たちが。


「俺……こっから、どうすりゃ…………小夜子」


 寒かった。気温のせいではなかった。

 ただ途方もなく、彼は孤独だった。


「小夜子、小夜子……」


 だから彼は、自分がそうでないと証明するためのものに、すがるしかなかった。

 ――小夜子。

 自分に、画一的でない何かを向けてくる唯一の存在。

 この空を、あまりにも多くのものが消えていく空を飛ぶ、ただひとつの理由になり得る存在。

 彼女の名を呼び、彼女の肌の感覚を思い出し、彼女のうろたえた顔、泣きそうな笑顔、そのすべてを、その音楽を抱きしめることでしか、自分を保てそうになかった。


 だが、小夜子は動揺していた。

 自分がヘマをやったから。演奏が乱れた。

 その真意を聞くことが怖い。何もかもが、怖い。


「小夜子、頼む……お前だけは、お前だけは、俺から……」


 ただ――それだけを願った。

 それだけがあれば、自分は生きていけると、そう思った。

 生きて、あの化け物どもと戦い続けられると。

 そう思った。

 そう思って彼はただ歩いて……翔機の上をのぼって歩いて。

 ぼんやりと、魔道士の亡骸の上に立って。

 たまたま、視線が、下を向いて。


 そこで彼は、見た。

 魔道士の胴体はずたずたに裂けていた。

 鋼鉄の身体の内側から漏れ出しているのは血液かオイルか。

 詰まっているのは機械か、臓物か。

 いずれでもいい。いずれでもよかった。


 どちらでもなかった。

 胴体のなかは、翔機と同じようにコクピットになっていた。


 その中に、血まみれになって息絶えている――『人間』が居た。


「……――」


 彼が、『パイロット』だった男を見ながら、膝から崩れ落ちた時。

 上空に轟音が響き渡った。


 巨大な影。でっぷりと太った巨大な飛行船。

 ジャイロ音を響かせながら降下する最中だった。

 側面には皇国のマークが刻まれており、レイと、レイの乗っていた機体と……『敵』のサンプルを回収するため、その地に降り立とうとしている。


 ――基地から遥か離れた場所だった。

 灰色の霞を越えるとその向こう側に大きな防波堤があり、更にその奥には、前回の指定戦闘区域であった海が広がっているのだった。



 ドクターのもとに『報告』が届き、その少し後に、霧崎がやってきた。


「あなたの子飼いが、『真実』を知ったようです」

「……そうか」


 それ以上何も返す言葉はない。

 ドクターはその時一人にしてほしかったが、相手にそのつもりはなさそうだ。


「遅かれ早かれ、こうなるはずだったのです、ドクター」


 早足で近づいてきて、ドクターの横で腕を組んで立つ。

 目は合わせない。だが苛立っている。


「分かっている……」


 そこで霧崎は、語気を荒げる。


「いい加減にしなさい……もはやあの男は戦えないでしょう。あなたはかえって、彼を弄んでいたのだ」

「落ち着け、霧崎くん」

「私は彼に情けをかけるつもりはない……だが、あなたの安っぽいセンチメンタリズムには、永劫賛同する気はない。あなたは、兵士というシステムを歪めた大罪人だ……!」


 そう言い残して、霧崎は荒々しくその場をあとにした。

 ドクターは去っていくその背中を見る。

 それは二回目だった。

 一度目は数年前、彼がまだ、自分と同じように白衣を着ている時だった。

 その時からずっと、ドクターは叶わぬ夢を見続けている。

 霧崎はその夢から覚めただけだ。


「それでも私は……彼を、この国を」


 言葉は続かない。

 自分にも確証はなかった。

 不安と孤独がどっと背中から覆いかぶさってきて、レイのことを思った。


 祈りを、捧げるように。

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