小夜子は一瞬ためらった。

 しかし、焦りのほうが上回った。

 端末にはイヤホンが繋がっている。

 取り出して、耳にはめ込んだ。


 同時に――情報が流れ込んでくる。

 それは瞼の裏側で激しく明滅する閃光のようでもあり。

 また無限に形を変え続ける緑のグリッド線のようでもある。

 その中にメッセージが刻み込まれていて。

 それぞれが拡声器で彼女のすべきことを叫んでいた。

 全身が、その声に従う。


 体内にインプラントされたミッションメモリ。

 一つ分、水疱のように割れて体内に染み渡る。

 その時、全身がしびれたようになって恍惚感をおぼえる。

 一瞬、自分がその場から居なくなる……ぼうっとする……。


 数秒後。

 次に、自分が戻ってくる、水面にうかぶように。

 『また会ったね、もうひとりの私』。


 視界はくっきりと夕闇の音楽室をとらえているが、感じ方は別だった。

 そこに感慨はなく、ただ一つの人が去った空間としか思えない。

 ここに長居する理由はない。早く出よう。


 皇国は叫ぶ。

 頭の中で、何度もリフレインする。

 反復するたびに強くなる。

 服従こそ自由。

 虚偽こそ真理。

 撃滅こそ、愛情。

 皇国のために若い身を使え。

 我々は新世代。

 同時に二種類の任務をこなすことの出来る新人種。

 その指は、時に音楽を奏で。そして今は。


「裏切り者を……処分するため」


 一息に、その言葉を吐くと。

 なんだか胸の中に去来するわだかまりがすっかり消え去って。


 続いて、彼女の第二種職務のターゲット情報が流れ込んでくる。

 蔵前侑李くらまえゆうり

 皇国第二女学校の三年生。

 第一種職務は『慰安』、第二種職務は『図書司書』。

 昨日未明、皇国の重要機密を奪取し宿舎を脱走。

 逃亡を手引した兵士メトセラは既に処分済みだが、現在もなお行方がわかっていない。

 当局の監視映像は、第十五地区付近で彼女らしき影を見かけている。

 至急探し出し、『処分』すべし。


「あの人かな……」


 たぶん、何度か会ったことがあると思う。

 レイから聞いたっけ。

 テロメアを操作され、遺伝子配列を組み換えられたことで、高い戦闘力と引き換えに寿命を失い、代わりに皇国の英雄と讃えられるにふさわしいだけの純真無垢さを手に入れた、赤子のような禿頭たち――兵士メトセラ

 彼らが死の恐怖のかわりに内側に蓄えている欲動をぶつけ、吐き出させてやるための相手。

 一夜だけの恋人。そんな仕事。

 立派な仕事だ。しかしどうしてだろう、あまり好きになれそうにない。


「女だからどうとか……そんなんだったら、なんかやだな」


 とはいえ、なんとか踏ん切りがつきそうだ。

 何を考えていたのか。この国に不満があったのか。

 あるいは、自分の仕事に嫌気が差したのか。

 どちらでもいい。もう迷いはなかった。


 ポケットに端末を入れて、イヤホンだけ自分の耳にはめたままかばんを締める。

 音楽室を出て施錠し、足早に学校を出た。


 空は既に藍色が差し込んでいて、じきに夜がやってくる事を告げていた。

 風は変わらず冷たい。

 学校指定のコートの襟を立てながら進んでいく。


 周辺の公共施設や国営商店、宿舎の集まる地区を抜けると、雑然とした工業地帯に入っていく。

 通学路からそう遠くない場所とはいえ、きちんと区画が整理された学区とはまるで違う、雑然とした混沌が広がるのだ。否が応でも、背筋が伸びてくる。

 鬱蒼と、生い茂るように鉛色と錆色の生産施設が広がっており、その狭間の狭い路地にはみ出すようにしてバラック小屋、トタン小屋が並び立っているのが見えてくる。

 そしてそれらは互いの領域に絡みつくようにして、町並みを迷路のように複雑なものにしていた。

 小夜子は進んでいく。

 イヤホンを通して告げられるガイドに従わねば、間違いなく夜になっても帰宅することができないだろう。


 疲れ切った、汗と泥をかぶった作業服の人々が傍らを通り過ぎていく。

 彼らはそれぞれの設備から吐き出され、また別の者たちがその中に送り込まれていく。

 その繰り返しが、視線の端から端へ、何度も何度も繰り返されていく。

 空気が悪い。煙と埃で色がついているようにさえ見える。

 たまらずかばんからマスクを取り出して装着し、改めて進んでいく。


 廃棄された自転車。

 鉄くずをかごに入れて押していく老人たち。

 路上で、うつろな目をしながら葉巻を吸っている子どもたち。

 彼らの目、目、目。こちらを見て、外して。


 彼らは『生産』に従事している。

 この国で一番人口が多い。

 小夜子たち『国防』を担っている階級とは、基本的に触れ合うことはない。

 互いに何かを思っていても、それが動くことはない以上、こちらに何かをしようということはない……基本的には。

 

 何人かの若者たちが、道を塞いだ。

 何かしきりに、こちらを罵倒するような卑語をぶつけているようだった。

 しかし、頭の中がインターフェイスによって研ぎ澄まされている今の小夜子に、それらは響かない。すかさずポケットから学生証がわりのバッジを取り出す。


「道を開けなさい」


 そう言い放つ。

 彼らはこちらの立場に気付いたらしい。

 捨て台詞を吐きながら、去っていく。


 迷路はまだまだ続いている。

 行き止まりも袋小路も、いくらでもあった。

 こんなところに逃げ込んでも無駄なのに。

 蔵前侑李のやっていることは、本当に馬鹿だと思った。


 小夜子はかばんから、黒光りする鉄の塊を取り出すと……スライドを引いた。

 命を奪う火器を準備して、いつでも放てるようにしてから、更に進み始める。


 迷路は何度も彼女に迂回を選ばせる。

 道端のゴミが、宿無しの者たちが、ひどい悪臭が、彼女の道をさまたげた。

 しかし臆することなく進んでいく。

 自分じゃないもう一つの自分がそうさせる。


 私達の未来は規定されている。

 ここに居る者たちと我々が、一生をかけても互いの人生に交わることがないのと同じように、何も変わらない。


 ――そうだ……悩んでも、あがいても変わりないのなら。与えられたことをやるだけだ。


 迷いはない。頭の中に浮かんだレイの顔を振り払って、路地を進んだ。



 かばんを両腕で胸の前に抱きしめ、しきりに後ろを振り向きながら走っている少女を見つけた。

 それが蔵前であることは間違いなかった。

 小夜子はナビゲート通りに彼女を誘導した。

 影に怯える蔵前はあっさりと引っかかり、やがて……鉄くずの累積する袋小路に、たどり着いた。


「そこまでです……蔵前先輩」


 直接話したこともないのに、つとめて穏やかな口調で臨もうとしたのは、小夜子の本質の部分だったのだろうか。

 とにかく彼女は、銃口をうずくまる人影に向けながら、ゆっくり近づいた。

 相手の背中にはトタンの壁。逃げ場はない。後のやることは、決まっていた。


「……あんた。二年よね……」


 震える声。

 そこで立ち止まり、ようやく鮮明に、相手の姿をとらえる。

 桃色の差し込む肌の色に、少しふっくらとした四肢。

 ふわふわと揺蕩うような長い黒髪。

 くりくりとかわいらしい双眸。

 すすで汚れ、こちらを見て睨んでいたとしても、小夜子から見ても彼女は『魅力的』だった。

 相手が、純真な『兵士』たちであれば、なおさらそうだろう。


「はい。私が、貴女の処分を担当します。蔵前先輩……第一種職務は『慰安』」


 音楽や条件付けでハイになってもかき消せない、生物としての本能から湧き出てくるエラー……『恐怖』。『不安』。

 それらを解消するため、彼女はその豊満な肉体で彼らを包み込み、そのエラーを欲動として吐き出させてやる。たった一夜だけ。

 その髪が微妙な瑠璃色の光沢を帯びているのは、きっと相手の潜在的な好みに応じてスタイルや色を変える事ができるからだろう。

 なるほど、腕は確からしい。では、第二種はどうか。


「情報はどうやって得たんですか。それからどうやって持ち出したんです。ちゃんと管理できないなら、第二種職務は失格じゃないですか」


 わかっているのに、わざとそういう言い方をする。

 すると彼女は言った。


「たまに……『調整』がうまくいかない子が出てくるの。いつもならなだめて終わりだけど。その子は、一緒に逃げようって言ってきた。あの子達にしか知り得ない情報を、偶然手に入れたんですって……それで」

「それで、そうすることにしたんですか」

「でも、駄目だった。その子は私をかばって死んだ」


 彼女は笑った。自嘲するような表情だった。

 しばらくの時間があった。

 そのまま引き金をひけば終わる話だったが、その前に相手が続きを言った。

 自分たちの間に横たわる影が、長く、濃くなっていく。

 冷え込みが、増していく。


「あんたは、かなしいと思わないの。この国の、あの子達の立場が」


 なんとなく、予想できる言葉だった。

 だって、なんにも思うことがないなら、当局からの追及をおそれて、『その子』に全部を押し付けて、学校に戻るはずだから。

 それをしなかったということは、そういうことだ。

 分かりやすい、処分対象としてのテンプレート。

 過去にも同じことを言って、後悔しながら処分されてきた人たちが沢山居た。

 そして、戸籍上永遠に『いなかったこと』にされたのだ。

 そういう前例を知らないはずはないのに、どうして繰り返すのか。

 ……呆れと、あわれみと一緒に、言葉をかえす。


「そりゃ、思いますよ。だけど、どうしようもないじゃないですか」

「何かを変えようって。変えたいって思わないの」

「思わないですよ。出来ることなんて限られてます。なんにも変わりません」

「そうとは……限らない」


 ――いらつく。

 自分の中にあるその感情を感知した時、彼女はいよいよ、銃口を更に彼女に近づけた。


「かわいそうに、夢を見たんですね」


 相手は、恐怖で頭の中がいっぱいなはずなのに、懸命にこちらを睨んでくる。

 『その子』のかわりとでも言うのか、かばんをしっかり抱きしめながら。


「そんなの、無駄ですよ。馬鹿じゃないの」


 どうしてだろう。

 自分はなぜ、こんなに苛立っているんだろう。

 早く処分しろ、終わらせろ。


「なんですって……」

「貴女がどれだけ何かを思ったって。貴女はもう皇国に身体を売ってるんだもの。そんな身体で何を言ったって、『その子』の気持ちを踏みにじってるだけ」


 イライラが止まらない。

 不快な感覚。言葉が矢継ぎ早に出てくる。

 発することで、自分の口が歪んでくるのが分かる……下卑た快感に。

 焦る。早くしろ。当局に疑問を持たれるぞ。


「他のどれだけの、『その子』に抱かれたんですか、先輩……」

「じゃあ……あんたは、なんだっての……」


 その続きを言おうとした時、彼女は何かに気付いた。

 それが表情にあらわれた。困惑と驚愕が……不愉快な半笑いに、嘲笑にかわった。


「そうか……あんた、そうか。あんた、あの下級生か……あの出来損ないの白髪野郎の子守をしてるって噂の……はは、やっぱ、間違いないわ……」

「……!」


 急に、自分の内側に触れられたような感覚。

 相手は苦し紛れに、自分の弱みを握ろうとしているに過ぎない。

 しかし、もう小夜子の動揺はおさえられそうにない。

 インターフェイスでさえ制御できないほどの感情の動きが、表情に出てしまっているらしい。

 相手はそんなこちらに気付いて、さらに醜い歪んだ笑顔を作る……。


「あんたがどうして、そんなこと平気で言えるのか分かったわ……」


 彼女は、演説をぶつように、一気にまくしたてる。


 ――あんたは、あいつに自分を押し付けてるんじゃないの。

 ――ねぇそうでしょう、いつも諦めきった顔をして鍵盤を叩く下級生。

 ――何も変わらない、変えられないことを思ううちに、それだけが自分の希望になるって。

 ――知ってるのよ、みんな知ってる。

 ――あの白髪は違う。夢を見るし、悩んだり苦しんでる……いつか何かが変わるんじゃないかって希望を持ってる。

 ――それはあんたの望むものと真逆。知ってるわよ。


「あんた、あの子と別居するチャンスが何度もあったのに、何度も断ってるんですって……」


「黙れ……」

「やっぱり、そうじゃない」


 自棄にも、勝ち誇ったようにも見える笑み。


。だから、自分だけ陽のあたる道を歩もうとしてるあの子を許せない。そうして自分に縛り付けてまで、あの子を自分の求めるあの子にしようとしてる。そうでしょうそうでしょう」


 黙れ。黙れ黙れ……レイは違う。違う。私は、違う。そんなんじゃない。


「でも本当はわかってる。自分が演奏をするたび、あの子が傷ついていくんだって。だけどそれを否定したいから、いつまでもそうしてるのよ……せいぜいこれからも、あの子が自分のところにまで落ちてくることを期待して、譜面通りに鍵盤を叩くがいいわ……」


「――黙れッ」


 銃声。


 二発続いた。

 それだけでもう、彼女は居なくなった。

 そこから、永久に。



 時間がかかったことを疑問に思ったのか、銃をかばんにしまい込んだタイミングで、端末に着信があった。

 小夜子はつとめて冷静に、その対応を行った。 


「十五地区周辺は生産施設の密集地帯です。移動に時間がかかるのは当然かと思います。それとも、私がミスをするとでもお思いですか」


 冷たく平板な声は、自然に発することが出来た。

 相手はそれ以上何も言わず、通話を切った。

 小夜子はしばらく、そこに居た。

 長い影法師を見つめていた。


 引き返す時、自分の指を見つめた。

 先程引き金をひいた指。  


 かつて、第二種職務が決まった時、どこかの偉い人が言ってたっけ。

 演奏より、こちらのほうが重要だ、と。

 その時自分は何を思ったのだったか。どうも記憶がさだかではなかった。


 ――そして、それと真逆のことを言ってきた人が、昔居たのではなかったのか。

 その人は、自分の銃で撃ち殺された。

 その人は老人で、この国では禁止されている本を持っていたから、だから死んだ。


 だけど、銃口が火を噴いて倒れるその瞬間まで、自分に悪罵の一つも零さなかった。

 むしろその人は、哀れみの目でこちらを見たことを覚えている。


 ああそうだ、その人は言ったのだ。

 何かを創り出すことの出来る指先が、こうして命を奪うことに使われるなんて。

 そう言ってきたのだ。

 あの時自分は何やら焦りのようなものを感じたから、彼を手早く撃ったのだ。

 そうして、あばら家に禁書を隠していた老人はこの世から『いなくなった』。


 ――あれ、結局、どっちの言い分が正しいのだろう。


 小夜子は頭を振って、速やかにその懊悩を追い払った。

 なんだか、疲れてしまった。

 足早にその場を去って、イヤホンを切って、前回の自分に戻る。


 空に溶けた橙がいまやほとんど薄くなって、空気が、いっそう冷え込んでくる。


 もう、先程まで頭の中に煮えたぎっていたものがなんなのか、思い出せなかった。

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