レイは、早朝から検査の予定があった。

 だから二人して、まだ空が白まないうちから起床し、身支度を済ませて外に出た。


 基地のエントランス付近に着く。

 遠くに見える摩天楼の最上部ではまだ航空障害灯が点滅しており、周囲に赤い光を振りまいていた。


「よっと」


 レイが自転車の後ろから飛び降りて、基地に向かおうとする。

 が、そこで振り返る。

 小夜子は顔を俯けたまま、何も言わない。

 彼は髪を掻いた。その場で、どうすべきか少し思案したらしかった。


「あのさ」


 向き直る。


「…………あのさ!」


 少し声を張り上げる。

 小夜子は眉をひそめて顔を上げる。


「聞いてるよ」

「なら、返事しろよ」


 そう言って、砂利を蹴飛ばす。レイはまた髪を掻いた。小夜子は待っている。


「早く言いなよ」

「お前ってさ。俺のこと、好きか?」

「はぁっ!?」


 小夜子は叫んで前のめりになって、転倒しそうになった。目を見開いて、レイを見る。


「急に何言ってんの……状況を、」

「あぁ、いや。良い。その反応で十分だ」


 彼は、ふっと花咲くように笑った。赤い光が彼の顔を染めた。

 小夜子は不安そうに眉根を寄せた。レイは翻って、基地に向かおうとした。


「レイ……?」


 今日に限って、そんなことを言ってくるのはイレギュラーだ。

 良くない。想定外のアドリブはタブーのはずだ。


 一歩、二歩前へ。追おうとして、手を伸ばす。

 彼の長い影が後を引いた。


「夜、冷えんぞ。早く戻れよ」


 小夜子の吐く息は白いが――レイの息は、白くない。

 黙ったまま、動かない。


「あのさ」

「……何」

「ありがとな。好きで居てくれて」

「……馬鹿」

「――はは」


 レイから笑みが漏れた。


「俺にもっと……自由があればなぁ」


 そう言った。小夜子は弾かれたようにレイを注視した。


「いまさら、そんなこと言ったって、私達は、」


 暗闇から誰かが歩いてくる。


「何をしてるんです、『零』。ドクターが待っていますよ」


 ポニーテイルの男。

 レイは肩をすくめて、彼に着いていこうとする。


「じゃあ。俺行くわ」

「レイ……私――」


 私、もうとっくに諦めてるのに。何もかもを。

 私は道連れが居たことを喜んでる最低なやつで。

 だからこそあなたと一緒に居られるのに。

 もし、今以上の何かを求めるようになったら、私は一人になる。

 一人になれば、きっと私も、その先に行きたくなる。あなたと一緒に。

 だから、そんなこと言わないで。


 そう言おうとした。

 既にレイは背を向けていて、フェンスの向こう側に向かおうとしていた。

 小夜子はよろよろと歩いた。

 既に、追いつく気はないらしかった。


 次がいつになるかは分からないけど、次が来れば。

 またレイは黒檀の流星になって。

 雲の裂け目の向こう側へと消えていく。

 その時私は、彼が命を削る手伝いをする。

 迎え入れるのはいつも、戦いを終えた彼で。

 私はその後押しをしたことを忘れて、また傷の心配をするのだ。


「レイ」


 呼び止めた。レイが振り返る。

 唇を噛んで、息を歯の隙間から漏らす。

 それから、ようやくその言葉をひねり出した。


「待ってるから、私。帰ってきてね」


 レイは答えなかった。

 ただ微笑して、手をひらりと上に振っただけだった。

 それからまたポケットに手を突っ込んで、身を翻した。

 男がレイに頷きかけると、二人で闇の中に消えていく。


 小夜子はそこに立ったままだった。

 ……二人の姿が完全に消えてなくなっても、砂利道の真ん中に留まっていた。

 息が白く、天に上っていく。かじかんだ拳を、強く握る。


 暫くの間、そこに立っていた。

 何をするでもなく、じっと何かに耐えるように。

 間もなく、雪が降りはじめた。



 放課後のチャイムが鳴った。

 既に空は、橙と藍色の中間に染められている。

 じきに、寒空一色に成り果てる。


 カーテンがさざめく音楽室には、まだ暖かさが残っていて。

 机や壁が乳白色に染められて光っている。

 廊下を走っていく生徒達のざわめき。

 扉と壁を隔てただけなのに随分と遠くに聞こえる。

 まるで波のように消えていく。


 そんな中で、一人西陽を浴びながら立っている。

 その指は、目の前にある簡易版の鍵盤機オートコフィンに何度も触れて、離れる。

 指の跡が黒檀については、ぼやりと消えていく。

 その動作を繰り返す度に、身体を震わせる。

 風が吹いた。顔の産毛が眩しく輝いて、髪がそよいだ。冬のにおいがする。

 ずっと冬ならいいのに。春なんて、来なければいい。


「ほんとなら、あんなソロやめなさい、って言うべきなんでしょうけどね」


 声の方を振り返ると、一人の女性が立っていた。


「先生……」


 返事をする。

 『先生』は眼鏡の下で小さな笑みを浮かべる。光の加減か、その表情には影がさした。


「あなたのアドリブ、好きなのよ……一生懸命で」


 小夜子は俯いて、またオートコフィンのほうを向いた。

 先生は後ろから歩み寄って、そっと後ろに立った。

 寄り添って、腕が後ろから伸びた。蓋が開いて、その瞬間に光の帯が閃いた。

 白い鍵盤である――まるで、墓石のように。

 小夜子はそのままの姿勢だ。

 先生の指が鍵盤を押そうとしたが、結局もとに戻した。

 押したところで、いまの先生には反応しない。

 オートコフィンは。

 決められた奏者が。

 決められた、インストールされた『楽譜』を。

 決められた通りに動かすことでしか、音を出さない。


「ごめんなさいね。色々と、諦めきれなくって……」


 先生は後ろで言った。

 肌の暖かさがあったが、小夜子は先生と触れ合おうとはしなかった。


 小夜子は答えない。先生は続ける。


「音楽っていうものが確かにあったのよ。目の前にあるこの棺も、昔はピアノと……」

「先生……そこまでです」


 小夜子は、思い切ってぴしゃりと言った。

 後ろで、先生がびくりと身を震わせた。


「音楽なんてないですよ。第一種職務として、『演奏』があるだけです。私はたまたま、決められた鍵盤を決められたタイミングで叩くのが他より上手だっただけ」

「そうよね。ごめんなさい。こんなこと、あなたに言うべきじゃなかったわね……」

「そうですよ。私はいいかもしれないけど。他の子たちが、きっと恨みます」


 先生は何も言えなかった。

 でも、知っているはずだった。

 小夜子が掴み取って、担当することになった第一種職務。

 『彼ら』の戦闘を一つの楽曲としてコーディネートする。

 戦意を高揚させる。人々を熱狂させ、さらなる貢献を促進する。


 とても、とても重要な仕事。

 だから、学校のなかで、いろんな子達が、小夜子を恨んでいる。


 教室で、廊下で、何度となく、嫌がらせを受けてきた。

 その時の感情は羨望を超えて、嫉妬、いらだち。

 どうしてあの子が。わたしのほうがずっとうまく弾けるのに。


 ――私も、そう思うよ。でも、こうなってしまったの。私にはどうすることもできないの。

 

 先生はやがて、小夜子の背中から離れていった。

 それから、床に足音がいくつか続く。

 もう、廊下には誰も居ない。硬質の音は、過剰なほどよく響いていた。


 もう一度風が吹いて、その時にはもう先生は音楽室を去っていた。

 後には小夜子だけが居る。

 夕陽は未だに室内を眩く照らしているが、それはふと気がついた瞬間に消えてなくなってしまうことだろう。


「それでも、私」


 今度は、両手をぴったりオートコフィンの重い蓋に付けた。

 俯くと、髪がかかって、前が半分ほどしか見えなくなった。

 ――『それでも』。

 それでも、なんだというのだろうか。何かを続けようとした。


 その時。

 後ろにおいたバッグの中から、無機質なアラートが鳴った。

 駆け寄って、生徒全員に配られる簡素な携帯端末を取り出す。



 指令――第二種職務。 

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