やわらかな日~another eye~


 職場の飲み会で、アルバイトの女の子に告白された。

 帰り道、同じ方向だから駅まで一緒に、と赤い顔をして俺の袖をつかんだその子は、バイトに入って2か月の女子大生で、俺が勤務を終える夕方にほんの1時間だけシフトが重なるだけの子だった。

 あまり話もしたことがないその子が、居酒屋で俺の隣に座ったのを、厨房スタッフが横目で見ていた。途中、誰にも気付かれないように、こっそりと、そのスタッフが口パクで「気を付けろ」と俺に注意してくれた。意味が分からなかったが、うなずいておいた。

 お開きになって店の前で解散したら、その子が俺の方に近付いてきた。さっき、忠告してくれた厨房スタッフが、大丈夫かー、と棒読みで俺に問う。明らかに彼女ではなく俺に向かっての言葉だった。

 そこでようやく、彼女の意図に気付いて、俺はそのスタッフに右手を軽く上げて平気だと意思表示した。彼はうなずいて、また明日、と帰って行った。

 嫌な言い方だが、こういうことは慣れていた。だから、付き合いの長い厨房スタッフの彼は、時々俺を心配して注意を促す。友人と呼ぶにはまだ少し躊躇してしまう、けれど付き合いだけはもう5年近い彼を、俺は結構信頼している。

 彼女は俺の腕に絡みつくようにして、酔ったことをアピールしていたが、それが半分は演技だと知っていた。そして、人波が途切れたとき、彼女は足を止めた。

 好きです。

 今までの人生の中で、何度も、聞き飽きるくらい聞いた言葉だった。いつも俺は、その言葉をどこか白けた気持ちで聞いている。

 短いスカートから伸びたすらりとした足元、ヒールのサンダルの爪先を、所在なさげに揺らしていた。店を出る前に席を外し、化粧を直してきたことは一目瞭然。大きな目で俺を見上げて、俺の返事を待っている。

 俺は、女性に欲情しない。

 恋愛の対象は同性で、しかも、本気で好きになれる相手なんて一生見つからないだろうと半ばあきらめていたくらい、恋愛には縁遠い人生を送ってきた。

 けれど、出会ってしまった。

 多分、最初で最後、たった一人の運命の相手に。

 恥じることなくそう言い切れるくらい、愛しい相手に。

 俺は、何度も口にしてきた断りの言葉を、彼女に告げた。彼女は急激に表情を凍り付かせ、まるでにらむようにして俺に短く罵声を浴びせ、そのまま俺を放置し、足早にその場を去って行った。

 人としての常識を疑うような態度だった。

 よほど自信があったのだろう、と思う。確かに、とてもかわいい子だった。きっと、これまでずっとちやほやされる人生だったのだろう。

 俺は自分の顔が好きではない。かっこいいやきれいはもう、聞き飽きた。

 話したことなんて、ほんの数度。俺は彼女に優しくしたつもりもないし、特別扱いしたつもりもない。彼女が勝手に俺に惚れ、期待しただけだ。

 俺はあまり酒に強くない。

 今日の飲み会も、飲むより食べる方に回っていた。付き合いの長いスタッフは相変わらずだなという目を向けていたが、初めて話をするようなアルバイトの子たちは、みんな驚いていた。

 ギャップありすぎです、とその中の1人が笑っていた。

 俺は無表情のまま料理を食べ続け、それにうなずいた。

 食べるのは好きだ。

 飲み会にもたまに参加する。

 彼女が去って行ったあと、俺はその場に立ち尽くし、ぼんやりと空を見上げた。

 ──彼の作ったご飯が食べたいな。

 そんな風に考えていた。

 マンションのリビングで、2人で選んだ白木のテーブルで、向き合って、彼の作るおいしい料理が食べたい。

 俺が食べる姿を見て、とても嬉しそうに笑う彼に、今すぐ会いたい。

 俺は歩き出し、その歩調をどんどん早める。駅に向かって、俺は走りだしていた。

 終電に間に合ってマンションにたどり着くと、部屋の電気は消えていた。カウンターにメモが1枚乗っていた。

『待っててやれなくてごめん。明日の朝は早出。見送らなくていいからゆっくり休め』

 彼の、少し角ばった文字を、俺はなぞる。メモの隣にはアルミの小鍋とラップされた皿が置かれていた。鍋のふたを開けるとみそ汁だった。お皿には、大葉の巻かれたみそ味の焼きおにぎり。

 飲んで帰った俺が、彼に甘えて抱きつくのはいつものこと。何か食べたい、とねだって、いつも彼が簡単なご飯を作ってくれる。

 散々飲み食いしてきたんだろ、なんて、用意してくれたお茶漬けや、うどんや、おにぎりを食べる俺を、呆れたように笑いながら見ている。

 優しいその表情に、胸がじんわり熱くなる。

 俺はラップを外して、もう冷めてしまったおにぎりをかじった。

 なんだか寂しくて、泣きたくなった。


 次の日、仕事に行くと、昨日俺に忠告してくれた厨房スタッフが声をかけてきた。昨日俺に告白してきた子が、バイトを辞めると電話してきたらしい、

「最初から危なっかしいと思ってたんだよ」

 彼はそう言って溜め息をついた。

「どうせお前目当てだろうと思ってたしな。──まさか辞めるとは思わなかったけど」

「ごめん」

「お前のせいじゃないだろ。──次から、店長には注意して面接してもらわないとな」

 今までも何度かこういうことはあった。俺目当てでバイトの面接にやってくる女の子は後を絶たず、明らかにそれが目的な場合はさすがに不採用だ。けれどそれをすり抜けて来る子もたまにいる。

 だから、うちの店員は圧倒的に男性が多い。数少ない女性アルバイトたちは、とっても真面目でいい子ばかりだ。

「しかしさあ」

 俺が着替え終わると、一緒に店に出た。俺は店を開ける準備を始めた。厨房には行かず、カウンターで俺を見ながら彼が続けた。

「やっかいだな、そんだけモテるのも」

「────」

 俺は何と答えていいか分からず、曖昧に顔を歪める。

「その不愛想でもあれだけ釣れるって、本当にすごいぜ」

「好きで釣ってるわけじゃない」

「分かってるけど」

「──好きになってほしいいなんて、頼んでない」

 思わずきつい口調になってしまった。はっとして顔を上げると、コックコート姿の彼が、眉をひそめていた。

「──失言だった」

 俺がぽつりとつぶやくと、その表情が緩んだ。

「うん、今のは、俺も悪かった」

「悪くないよ」

「でも、まあ、今までもそれで嫌な思いしてきたんだろうなってのは、分かるよ」

 そんなことを言われるのは初めてだ。大抵の場合、俺はいつも、反感を買うことの方が多い。だからなるべく目立たずに生きてきた。できるだけ人に不快な思いをさせないように、人と深く関わらずに。

 それでも、俺の顔は女性を引き付ける。そのたびにいわれのない言葉を吐かれるのは慣れていた。

 結局、顔だろ。

 だから口を閉ざす。何か言えば、ますます火種が多くなるだけだ。

「今日のまかないは、俺特製千切りキャベツたっぷり特大メンチカツ。お前のは2個。いつものように丼盛りのお前仕様」

 にっと笑って、厨房へ戻って行った。

 気を使われているわけではない。どこか心地いいその態度に、俺はなんだかほっとした。

 いつも通りに仕事をしながら、昼時を過ぎた頃、俺は休憩に入った。昨日の夜から会えないままの大好きな彼は、今日はランチを食べに来てくれなかった。きっと忙しいのだろう。

 厨房でまかないを頼むと、ちょうど厨房スタッフがメンチカツを油から引き上げていた。確かに特大というのにふさわしい大きさのそれが、ご飯とキャベツの千切りが詰まった大きな丼に乗せられた。他の人の分は普通に千切りキャベツとともに皿盛りでご飯が添えられたワンプレートだ。丼飯のそれは、まさしく俺仕様。

 俺はそれを受け取り、厨房の隅っこでそれを食べた。揚げたてのメンチカツはじゅわりと油が染み、中に入ったキャベツが甘くおいしい。

 いつものようにばくばくと食べていると、他の厨房スタッフに声をかけて、彼が正面に座った。

「うまい?」

 俺はこくこくとうなずいて、口いっぱいのメンチカツと白飯を飲み込む。

「俺はさ」

 頭に巻いていたおしゃれな手ぬぐいを外し、言った。少し長い髪が落ちないように、彼はいつもバンダナとか、タオルとか、色々なものでカバーするように頭を覆っている。

「お前のそういうとこ、好きだよ。そのきれいな顔しか知らないままだったら、もったいないと思う」

 俺は首を傾げた。

「結構真面目だし、気遣いしてくれるし、なにより昨日も言われてたけど、そのギャップ」

 俺が抱え込んでいる丼を指さす。

「澄ました顔してどんだけ食うんだよって、めちゃくちゃ面白いしな」

「……面白い」

「悪い意味じゃなくてさ。──あんま喋らないけど、不愛想な中でも表情読めるときあるし」

 俺は少し、驚いた。

「飯食ってるとき、実はすごく嬉しそう、とか」

 どきりとした。俺はうつむいてメンチカツをかじる。

「それに──ある客が来ると、少し口元緩むとことか」

 俺は思わず顔を上げた。かじっていたメンチカツが、ぽろりと丼に落ちる。

 息が止まる。

 けれど、俺を見るその目は、少しいたずらっぽく、楽しそうに笑っていた。

「あ、図星?」

「何──で」

「5年だぜ。友達の変化くらい、読み取れる」

「……友達」

「え、違うの? 俺はそうだと思ってたのに?」

 顔をしかめて、口をとがらせる。俺はぽかんとして、右手に箸、左手に丼を持ったまましばらく言葉が出なかった。

「──そう、なんだ」

「うーわ、俺だけそう思ってたってことかよ。何かショック」

「あ、うん、いや……えっと」

 俺には、友人と呼べる人がいない。ずっとそう思っていた。

 俺自身が、拒否していた。

 深く付き合うことを避けていた。

「あのさ」

 溜め息交じりで、呆れたような顔をする。

「ガキじゃないんだから、俺たち友達になりましょう、って言って始まるわけじゃないんだぜ」

「──うん」

「気付いたらなってんの。もちろん、誰とでもってわけじゃなくて」

「うん」

「少なくとも、俺はそのつもりだったってことだから」

「うん」

「うん、だけかよ」

 ぶはっと、もう5年の付き合いになる厨房スタッフの彼が──「友人」が、笑った。

「俺──」

「とりあえずさ」

 友人はにっと笑って言った。

「あの精悍な感じのサラリーマンが誰なのか、近いうちにじっくり聞き出してやるからな」

 俺は赤くなる。その反応に、友人が一瞬目を丸くし、すごく楽しそうに笑顔になった。俺の頭をぐりぐりとかき回して、外していた手拭いを巻き直した友人が、機嫌よさげに仕事に戻って行った。

 俺は乱れた頭をそのままに、丼に残っていたメンチカツを食べた。

 彼に会いたい。

 俺の初めての友人の話を、まずは、彼に聞いてもらいたい。そう思った。


「キャベツ入りメンチカツか」

 彼が食いついたのは、そこだった。

 夕食後、片付けを終えていつものコーヒータイム。並んで座ったソファで、彼がつぶやく。

「そうか、千切りキャベツを混ぜることでかさも増してジューシー、かつ甘みも増すというわけだな」

「えーっと……」

「肉汁がしみ込んだキャベツはうまそうだな」

「あのー……」

「成形するときに注意が必要そうだが──チーズを混ぜ込んでもうまそうだな」

「ちょっと」

 俺は彼の腕をつかんで、無理矢理自分に注意を引いた。

「────」

 俺を見下ろした彼が、少しすねたような顔をした。

「分かってるよ。友達だろ」

「うん。友達だったんだって。──俺、気付かなかったけど」

「──そうか」

 歯切れの悪い彼に、俺は少し不安になる。腕をつかんだままその顔を覗き込んだ。

「喜んでくれない……?」

 彼は黙ったまましばらく俺を見下ろしていたが──次の瞬間、片手で顔を覆って大きな溜め息をついた。

「悪い。今のは完全に俺が悪い。ごめん」

「…………?」

 俺は訳が分からず彼を見つめる。

「お前に友人ができたのは喜ばしい。とっても。これは本当」

「うん」

「いいやつなんだろ?」

「うん、すごく」

「料理もうまい」

「厨房スタッフだしね。調理師免許持ってるし」

「年は?」

「一緒」

「いい男か?」

「そうだね、結構かっこいいかな」

「──惚れるなよ」

 俺は呆気にとられた。思わずぽかんと口を開けて彼を見ていたら、彼が再び顔を覆ってうなだれた。指の隙間から俺を見る。

「もしかして……」

「あー、言うな。分かってる。心が狭くて悪かったな」

 もう片方の手で俺の顔を押さえ付けるようにしてぐいぐい押しやられる。

「ああ、畜生。余裕ねーな」

 彼の手をようやく避けて顔を覗き込むと、彼は頬を赤くしてふてくされていた。

「──やきもち?」

「悪かったな」

 俺は何だか急に嬉しくなって、彼に抱きついた。

「俺、あんた以外の人、好きにならないよ」

「──ああ」

「だから心配いらないよ」

「分かってる。──でも、同じ職場で、いい男で、年も同じで──料理までできて……しかもプロなんだろ? 勝ち目ねーじゃん」

「あんたの料理が一番好き」

「ただの素人に毛が生えた程度だぞ」

「それでも好き」

 今日の夕飯は、鶏肉の照り焼きとジャガイモの煮っ転がし、水菜と油揚げの煮びたし、ホタテの缶詰ときゅうりのサラダ、お麩と豆腐のみそ汁だった。

 カウンターで彼が料理するのを、いつものように見ていた。

 鶏肉は皮目をざくざくと包丁の先で刺し、フライパンで焼き付ける。蓋をしてかりんと焼いたら、砂糖、酒、しょうゆで甘辛く味付けし、くつくつと煮詰めていく。茹でた小松菜とともに皿に盛って、とろりとたれを回しかける。

 小ぶりなジャガイモは丸のまま油をひいた鍋で転がしながら表面を炒め、酒、水、砂糖、しょうゆで煮込んでいく。水分を飛ばすようにして、味が染み込んだら煮っ転がし完成。

 だし汁とめんつゆに、水菜と油揚げを加えてひたひたでゆっくり火を入れていく。くたんとしたら煮びたしの出来上がり。

 ホタテの缶詰はほぐして、マヨネーズと缶汁、少量の牛乳を加えてこしょうを挽き、クリーミーなドレッシングを作り、千切りのきゅうりにかける。

 ごくごく普通の家庭料理だけど、彼が作り出すそれは、俺にとってはどんな高級レストランのメニューよりもおいしい。

 甘めの味付けのほくほくのジャガイモも、てりてりな鶏肉も、ご飯とともに全部食べつくした。

「世界で一番好き」

 俺の言葉に、俺がようやくこっちを向いてくれた。

「凝った料理なんて作れないのに?」

「充分」

「まともなレシピもないような料理なのに?」

「それでも

 俺は、まだ少しふてくされたような顔をしている彼にキスをする。

「俺には、世界で一番おいしい」

 彼がかすかに笑ってくれた。

「だって」

 俺はその目を見つめながら、続けた。

「俺のために作ってくれた料理でしょ? いっぱい愛情こもってるでしょ?」

 彼の目が優しく俺を見つめ返す。

「ああ、もちろん」

「俺のために作ってくれた料理を──一緒に食べてくれる。それが一番、幸せ」

 笑って抱きつくと、彼が両手を回して抱き締めてくれた。

 部屋の中は、まだ、照り焼きの甘じょっぱい香りが残っていた。彼の胸に顔を押し付けたら、彼の香りに包まれた。

 今日もお腹いっぱい、彼の作ったご飯を食べた。

 明日も、きっと、そうする。

 このままずっと、いつまでも。

 明日、仕事に行ったら──

 俺は、顔を上げて彼を見つめる。ゆっくりと彼の顔が近づいて、優しくキスしてくれた。

 彼のことを、できたばかりの友人にどうやって説明するか、もう決めていた。

「世界一かっこいい、俺の大好きな人、だよ」

 俺がそう呟くと、彼が少し照れたように、笑った。


 了



 キャベメンチは、肉汁を吸って火が通ったキャベツが甘くておいしいです。

 ただ、成形するとき、キャベツがべろん、って出ます。べろん、って。もしかして、もっと細く切ってしんなりさせるのかな。私、結構太めの千切りです。だからべろん、って出るのかな。無理矢理丸めますけど。

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