Mission3 選択した権利。受け入れた義務。負う『責任』

 お役所は本当に判子が好きだ。


 アンリはちょっぴりうんざりしながら、機械にでもなりきったつもりで書類に印を押し付けていた。


 高層ビルディングの中に構えられた物々しいお役所で、彼女はこれも、それも、あれも、どれもといった感じで次々に持ってこられる書類の束をドロシーと確認し合っては、ひたすら判する作業でヘトヘトになっていた。


 情報の電子化が記録の主流となっている時代に、未だ紙の媒体へ朱肉をポンポン押しつけるのは後世に伝えるべき伝統文化みたいなものだ。


 セキュリティが施された生体認証よりも、薄い紙の書類に押された証明印の方が絶対的な決定力があるというのは不思議な感じがする。神様を信じないという人でも、これだけは唯一無二の神様として全幅の信頼を寄せてたりするもんだからその効力には驚きだ。


 きっとこれはDNAレベルで刻み込まれた本能に近いんじゃないかとすら思う。きっと紙は神なんだろう。お上がやるだけに。


「大変お疲れ様でした、イスルギ様。以上を持ちまして、御社の月へと向かう宇宙艦の打ち上げ申請を当政府は受理すると共にこれを許可するものとします」


「……はぁい、ありがとうございますぅ……お世話様になりました……」


 強張ってプルプルと痙攣する指を撫でながら、アンリは対面する七三分けの神経質そうな役人へ頭を下げた。もう当分は判子アレルギー確定だ。赤丸の中に押し込められた〝岩動〟の文字がゲシュタルト崩壊しかかっていて、家名と言えどしばらくは見たくない。


 それにしても、業務上必須だからやったとはいえ、月へ出発する際の装備や人員まで記した書類群の届け出を政府は本当に必要としてるんだろうか。


 ぶっちゃけアンリはそう思わなかった。当日に役人の面々が立ち会って、申請と相違ないだろうかというチェックはしないし、外部から見受けられた備品の不足や費用を補ってくれたりする訳でもない。


 じゃあ、なんでこんな事をさせられたのかと考えてみると、冷戦状態にある火星との緊張関係に一石を投じてしまうかどうかという査定だ。


 イスルギ重工が今回打ち上げる宇宙艦はヴェクターに対する自衛手段を持っていても、地球圏とは別種の技術力を持つ火星圏とはまともに戦えたものじゃない。


 つまり、万が一にも攻撃された場合は、相手方に嫌な思いをさせる事なくやられてくれという政府の態度が透けて見えていた。


 勿論、地球と友好関係にあるU.N.Sが最前線で守ってくれるだろうけど、想定を逸脱する事態があったとしてもおかしくない。


 それぐらい地球と火星には技術力の差があり、政府を緊張状態とは聞こえが良いばかりの臆病な姿勢にさせていた。


 それでもアンリが月に向かわなくてはいけないのは両親の夢に触れる――ためだけではなく、自社の社員が危険な状態にある月に閉じ込められているからだ。


 U.N.Sと協力関係にある統合政府は、それぞれの担当区域に属する有力企業の社員を出向という形で送り出すことを義務付けしている。


 イスルギ重工もその例外ではなく、年に一度だけ数ヶ月の出張を選出したグループに命じていた。


 政治的な問題を考慮したとしても、イスルギ重工は民間であって、自社の従業員を救出する行動が危機感を煽るというのなら、政府はそれに対して助力や尽力するべきだ。なのに、そういった面倒事には知らんぷりされている。


 宇宙艦の打ち上げ許可も、せいぜい成層圏の衛星兵器に撃墜されないための予防線みたいなものだけど、既に識別シグナルを届け出ているし、そんな兵器の製造開発もイスルギ重工は一枚噛んでいた。なのに、書類一つ届けなかったからで攻撃されたんじゃ堪ったもんじゃない。


 だからこっちとしても渋々、向こうが必要としたから届け出をしたのであって、活動する上での必要性はさっぱりだった。


 予期しないアクシデントに対して、政府が関与してくれるんだろうなという希望的観測はあっても、あくまでそれは都合の良い見方でしかない。民間の問題は民間で処理してくれというのが政府の本音だと、企業は知っている。


 これはきっと、企業と政府のひねくれた付き合いにおける礼儀的な部分が大きいのかもしれない。


 企業が政府の助力を必要とせずに人工衛星やら宇宙艦やらを自力で飛ばすようになったものだから、政府は『何かするなら教えてね。無視する会社とはもう仲良くしてあげない』と意思表示しているんだろう。


 お互いに苦手意識はあっても、役に立つのを知っているんだから無視はできない。企業は政府の外交能力と発言力を必要としているし、政府は企業が支払う莫大な税金で組織を運営している。


 決して仲良くはないけれど、書類の申請が最低限の礼儀として機能するなら、知らんぷりするのも大人気ない。社会人が子供じゃ困ったもんだ。


 それに、もしかしたら政府のお硬い仕事をこなす人というのは、一定の体裁を保っておかないと不安に駆られておかしくなってしまうのかもしれない。


 職業が違ければ、職責の重圧だってまるで違うんだから、それをせめて緩和してキャリアに影響しないようにするのが契約書類の本質なのかもと思う。書いてある事とまるで違うことをやられたって、それは相手方の違反であり、自分が認めた訳ではないとばっさり言い切れるから。


 そんな訳で予想だにしていなかった事実と直面した際に、身を守ってくれるのはやっぱり書類という訳だ。裏を返せば、予想外の大事に出会した際に無関係でいられる効力だって有る。


 不測の事態から身を守ってくれるという点において、やっぱり書類は神様なんだろう。判子はその信仰心の表れだ。誰だって都合よく神様を信じたい。


 理不尽に打ちのめされそうになった時には特に。誰にだって何となく身に覚えのある話の筈だ。


「お帰りの際にはお気をつけ下さい。警備の者が外で騒がしくしていたので、恐らくは報道陣かと思います。では、私はこれで失礼します」


 書類を纏め終えたついでに、天気の塩梅でも口にする調子で警告した役人に、アンリは思わず『うげっ』と口にしながら歪めた顔を向けてしまった。


 大企業のトップが急死し、十代の娘が引き継いで事業に当たっているというのは報道関係者にとって美味しいネタだ。何処かで張り込んでいて、嗅ぎ付けたに違いない。一難去って、また一難やってきた。


 正直、もう勘弁して欲しい。こっちが報道して欲しい情報なんて無いのに、何でか向こうからは連日求めてくる。


 今、個人的に一番ホットな話題として『判子の押しすぎで指が重症になりました』と言ったところで『は?』と返されるのがオチだ。報道関係者は無情でドライで、少しも心配なんかしてくれない。


 社長に成り立ての頃は、真剣に質疑応答をこなしていたけれど、その内容は脚色と偏向にまみれていて、とても読めた物にはならなかった。しっかり応対出来たと鼻息荒く、自信満々にデジタルニュースペーパーをめくって、がっくりしたのは忘れられない苦い経験だ。


 大衆向けの週刊誌なんて賑やかしと盗撮ばかりで、〈大企業の世代交代、その陰謀政策! 血塗られた壮絶な内ゲバ!〉だなんて滅茶苦茶を書いて当事者の不快感を煽るものがあれば、〈十代社長、美人秘書と秘密の夜会! 二人きりの深夜残業!〉だなんて噴き出してしまう記事が載せられていたりした。


 ドロシーは前半に『けしかりませんね』と低いトーンで怒り、後半には『けしかりませんね』と鼻をフンフン鳴らしながら、記事を隅から隅まで吟味していた。


 ともかく、イスルギ重工の現状は、お茶の間の興味を惹かせる格好の対象であり、そっと放っておいてくれる気遣いなんて皆無だった。両親を喪った大事故の全貌と、イスルギ重工の現状を知りたくて仕方ないといった調子で。


 こっちだって知りたい事は沢山あるのに、それに応えてくれる存在なんていない。世の中は不公平だ。とってもズルい。


「ふぅ~……よし! 帰ろっかドロシー。会社に帰ってやることやらなくちゃね!」


 伸びをしながらアンリは微笑んで、立ち上がる。連日の疲れやこれからの気疲れに構っている暇なんてない。月に行くにはやらなくちゃいけないことが未だ未だ沢山ある。夢を叶える下拵えは時間がかかる事ばかりだ。


「そうですね。報道関係者は適当にあしらって下さい。こちらに応える義務はありませんので」


 冷笑を浮かべてサングラスを掛けるドロシーは、何だか頼もしいSPの様だった。本人としてもその気でいるのかもしれない。


 昔は行き過ぎた報道関係者がテロリストと誤認されて撃ち殺されたという話をドロシーはしてくれた事がある。『前例があるのは良いことですね』と少し嬉しそうにしていたのをアンリはよく覚えていた。


「……ねぇ、ドロシー」


「はい、何でしょう」


「撃っちゃ駄目だからね?」


「申し訳ありませんが、必要だと判断した際に私は躊躇しません」


 酷い冗談だなぁと、困った笑顔を浮かべたアンリに対して、ドロシーもニッコリと微笑み返してくれた。ただし、サングラスに隠れた眼は全く笑ってない。


 ドロシーは『やります』と言ったら必ずやると思う。それは仕事の面でとてもよく解っている。


 ブラックなジョークを言っただけという気もするけれど、本心な部分も感じ取れるのが少し怖い。


 でも、企業の成長率が著しいのに比例して、露骨な対立姿勢が目立つ日々に漫然となんかしていられなかった。


 他所が重宝している技術者が引き抜かれたり、役員個人が他企業と懇意になる背景には、日の当たらない水面下での策謀が必ずある。


 当然、明確な証拠なんて無いし、関係性を考慮した予想に過ぎない。


 けれど、もしかしてという疑念程度でも、その後には決まって対立している企業が一悶着起こすのだから楽観的にはなれなかった。


 前例は無いけれど、政府が体裁を保つ程度の機能しかないのを良いことに、行きすぎた企業体制は事故死を装った殺人だって起こし得るかもしれない。


 きっとそんな場合でも、何処かの企業が異様な伸びを見せるんだろうなと思うとゾッとする。


 特にA.U.Gの技術力を先進するイスルギ重工は、その製造に携わる全世界の他企業からすればちょっと目障りだったりするだろう。


 限りなく有り得ない最悪のケースを想定すれば、マスコミに扮した殺し屋の一人や二人混じっていてもおかしくない。


 両親の不幸が工作だと疑ってしまう余地があるのは、正直ちょっと怖い。けれど、それを疑いすぎて怯えていては何にもならないと解っている。怖がるあまりに身動きが取れなくなってしまうなんて本末転倒だ。


 命を賭けてでも叶えたい夢がある。その言葉は、アンリに限ってかなり現実的な問題だった。ましてや年若い少女など、やり手の怪物逹からすれば好餌に違いなかった。


「……必ず御守りしますよ、アンリ」


 だからこそ、ドロシーはアンリを守ることに傾倒している。小さな決意を示したその声は、まるで自分に言い聞かせている様ですらあった。アンリはドロシーが抱える何かがそうさせるんだと察してながら、それを訊けるほど無神経になれない。どれだけ信頼を寄せた関係でいても、さらけ出せない事情は有る。


 でも、きっと何時か。ドロシーがそれを話してくれる日をアンリは待ち望んでいた。もしも、彼女が抱えているそれが傷だとしたら、痛みを知ってあげる事ぐらいは出来る。


 自室で閉じ籠っていたあの時――彼女がしてくれた様に。


「ありがとう、ドロシー。頼りにしてるからね」


 寄せてくれる想いをしっかり受け止めて、微笑むことが喜んで貰える応えだと知っている。それしか今は出来ないのが何だか歯痒いのだけれど、きっと何時かは素晴らしい形で報いてあげたい。大切な人には嬉しい気持ちで一杯になって欲しいから。


「勿論です。武装した大型艦にでも乗ったつもりでいてください」


「ふふっ、なにそれー? 攻撃する気満々じゃない?」


 暴力的な冗談にツッコミを入れて満足したところで、アンリはドロシーの肩をポンポンと叩いて促す。頷き返した彼女は先導して歩き出し、自然とアンリを陰に隠すように計らった。こうしないとドロシーは落ち着かなくて仕方ないらしい。


 アンリの目の前にはいつもドロシーの綺麗な背中があった。スマートで細く、それでいて凭れかからせてくれる大人の背中が。


 秘書として支えてくれる日々の中で、ドロシーはアンリの憧れになっていた。少女がアイドルに自分を重ねて夢見るのと同じく、アンリにとっては、ドロシーが夢見る未来の姿だった。


 エレベーターに乗り込んだところで、なんとなく彼女の背中にくっついてみる。理想のイメージに近づきたいというよりも、甘えたい気持ちの方がずっと強かった。心のどこかでは秘書というよりも姉のような身近さでアンリは彼女を慕っている。


 ドロシーの髪や香水は蕩けそうなくらい良い香りがして、スーツ越しでもふわふわした心地良い感触があった。冷静な性格をした人は気質に通じて、何かと堅そうに見えるのだけれど、実際は凄く柔らかいんだなと思った。


「どうしたんですか、アンリ?」


「んー? 何だかこうしたくなって。ダメ?」


「もう、困ります。……それじゃあ、降りるまでですよ」


「うん、ドロシーは優しいねー」


「いえ、そんな……そんなことは……」


 普段は見られない彼女のしおらしさが新鮮で、口許がつい緩んでしまった。ちょっとした悪戯心がふつふつと沸き上がり、背中に触れるだけで充分だった気持ちが腰やらお腹へやら回り始めた。


「アンリ……?」


「ぐふふ! よいではないか。よいではないか」


「あの、くすぐったいのですが? 流石に、これは駄目です……いけませんったら」


 身体をまさぐられて、くの字になりながら困った笑顔を浮かべるドロシーがいじらしい。大人の女性を手込めている気持ちになって何だか興奮してきた。


 愛する女の人を思うがままにしたいという男の人の気持ちが分かる気もする。けど、過度な接触を許せるぐらい親身な関係でなければ、これは社会的にはセクハラだ。それでも構わないくらいにガチのベストフレンド・フォーエバーでなければ許されないだろうな、と鼻息を荒げつつドロシーの身体を堪能してアンリはそう思った。


「もう……解りました、ボディタッチのスキンシップという事ですね。それではお返ししても良いですか?」


 そっと手を握られたのは『私の番ですよ』というささやかな意思表示だ。その慎ましさを色っぽいと感じたのは、憧れの延長なのか、それとも生活環境が男系の育ちという事が災いして自分の中にオッサンがいるのかは判然としない。ただ、後者は勘弁して欲しいと思う。同性の身体に触ってテンションが上がるのはきっと別問題だ。その筈だ。


「うん、良いよ。存分にまさぐりたまえ!」


 成長期にある小振りな胸を反らしてセクハラ紛いのスキンシップを受け入れる気満々のアンリは、不敵というより完璧にふざけている。


「それでは失礼しますね。ふふっ……」


 恭しく一言告げるや否や、何の躊躇いもなしにドロシーの細指はアンリの太腿に絡み付いてきた。予想だにしていなかった箇所への接触に、流石のアンリも目を丸くする。


「え!? そこ!? そこにくるの!?」


 ストッキング越しに這って昇る指先に、得たいの知れない痺れを覚えてくぐもった声が上がる。想像していなかったスキンシップのようなものに、アンリは『ストップ』とばかりに手を振るう。


「ちょ、ちょっと待って、待ってよドロシー! なんか違う! なんか考えてたのと違うよー!」


「何がです? 触れる場所が違うだけでやってることは同じですよ? ふふっ、それにしてもアンリの足は本当に綺麗ですね……」


 知らず知らずの内に足を持ち上げられ、その裏へするりと指が入り込む。そのこそばゆさのあまりに身悶えするのを、ドロシーは押し付けるようにぴったりと身体を重ねてきた。


 これはちょっと想定外かもしれない。おちょくったつもりが本気になられている気がする。何事にも度が肝心だが、それを越えてしまったという失敗を当事者はそうと気付かないものだ。


 溢れてしまいそうな声を抑えるために、小指を噛んだりするが、それは浅く舌舐めずりするドロシーの嗜虐心に一層火をつけてしまったようだった。二人はすっかり、エレベーターのベルにも、扉が開いているという状況にも気が付かなかった。


 ハッとしたのは、わざとらしい咳払いを耳にし、そこに先の役人が立っているのを目にした時だった。気まずそうに他所を向いて、どうしたものかと思案するように眉根を寄せている。


 他者からすればあられもない姿で絡み合っている現状だと察したアンリは、気恥ずかしさと気まずさの混じりあった混乱から、頭の中は真っ白、顔は真っ赤に染め上げるばかりでどうしようもなかった。ただ、悲鳴だけはあげてしまわないようにと、渦巻いた瞳のなかで懸命に理性を保っていた。


「……何か?」


 するりとアンリから離れたドロシーが悪びれた様子も無く、役人に言葉を掛ける。寧ろ、睨み付ける様な不機嫌さだった。よくも邪魔をしてくれたなとばかりに、怒りの気配すら滲ませている。


「ああ、いえ……ゴシップ紙も存外侮れないものだなと……」


 不敵な笑みを浮かべた役人の脳裏には、好き勝手書かれた記事が鮮明に浮かんでいる様だった。その内容が間違いないのだと確信しているのを、否定する説得力がこの状況には全くない。個人が目の当たりにした事態など、他人に話して信憑性を得るのは難しいと分かっていても今後というものがある。そういった点で役所というのは非常に不味い気がする。やばい、どうしよう。


「貴方がどんな低俗な雑誌で他人の見聞を歪んだ形で解釈していようとそれは勝手ですが、それを真実だと鵜呑みにして疑いもしないのなら程度が知れますね」


 ――うわ、凄い強引。ドロシーがばっさりと相手の確信を切り捨てた。嘲笑すら浮かべ、あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず口許が緩んでしまったと示すように、わざとらしく細顎に指すらを添えて。


 なんというふてぶてしさだろう。いや、大胆と言うべきなのだろうか。相手に誤解だと説きほぐすよりも、勝手な勘違いで知ったつもりになって恥ずかしくないのかと責め立てている。見たままに感じた事を受け止めるのを許さないスタイルは、感受性の否定という罵倒も同然だ。


 小馬鹿にしたつもりでいたとはいえ、突然の暴言をぶつけられては流石の役人も唖然とする。その隙にドロシーは笑顔を向けながらエレベーターを閉じた。話題性を与えるよりも怒りを買わせて立ち去り、ゴシップの興奮を打ち消すという乱暴な手腕だった。


「セーフですね」


「……セーフかな?」


「セーフですよ」


「そうだね、セーフだね」


 二人は何事も無かったかのように静静と身嗜みを整えながら、状況を確認し合った。正直、アンリは思考停止しているも同然だったが、過ぎてしまったことを思い改めても仕方ない。後ろ向きでは前には進めないのだから、前進だけを考えるとしよう。私は止まらない。


「……惜しかった。余計な邪魔さえ……」


「え? なに?」


「いえ、ビックリしましたね」


「あ、うん。そうだね、えへへ」


 何か意味深な事を言われた気がしたけれど、勘繰るのは止めておくことにしよう。全て丸く収まった気がしているからそれで良いじゃないかと、脳が考えるのを嫌がった。


 けれど、スキンシップの取り方はじっくりと改めた方が良いかもしれない。何だか身の危険を感じてしまった気がする。知らない世界を垣間見てしまったかもしれない。……知らないことを知るのは啓蒙として尊ばれるが、これは何だか大丈夫な気がする。


「着きましたね。さあ、行きましょうアンリ」


 ドロシーに先導して貰いながら『うん』と頷きつつも、アンリの太腿には筆舌しにくい痺れが残っていた。まだくすぐられている感じがして、小さなお尻を軽く撫でながら、目指すべき憧れの大人は、それも込みで大人なのかもしれないと思った。


 目指すべき憧れが、全てを理解して模倣する事なら、まだまだ私は子供だろうなとアンリは自分を都合良く卑下にした。



 役所を出て目が眩んだ理由は、夏の終わりを引き摺って頑張る太陽のせいではなく、マスコミに囲まれて浴びせられたフラッシュのせいだった。


 うわ、本当にいた。と驚く間もなく質問攻めの波が襲い掛かってきて、内容が耳をどんどんすり抜けていく。群がってくるフラッシュをドロシーが防いでくれても声ばかりはどうしようもない。


「イスルギ社長! ご両親の事故について何か続報はありませんか?」


「企業内部の争いの他に、火星側のテロリズムだとも噂されていますが、どのようにお考えですか!」


「ヴェクターの対処に当たっている衛星管理機構との接触は考えられているのでしょうか!? 合流までに交戦が想定されますが、その際に御社の新型A.U.Gの実戦テストは行われますか!?」


「彼氏は!?」


 押し寄せる報道陣は、防波堤となっている警備員の怒声や注意を聞きもせず、我先にとマイクやカメラをぐいぐいと差し向けてくる。人間よりも機材の存在ばかりが目立つのだから、これではどっちが本体だか分かりもしない。何に向かって話せば良いのだろうとアンリはいつも思っていた。


「良いお天気ですね! さようなら!」


 混線する情報を吟味し、纏め上げた結論としてアンリは過ごしやすい気温になってきたね、と述べた。勿論、報道陣は『は?』と顔を歪ませ、煙に巻かれたのだと躍起になり始める。挑発されたと考えてムキになる者もいるだろう。


 矢継ぎ早に再び好き勝手な質問を口にする報道陣から、盾となるようにドロシーがアンリを隠して歩く。肩を抱いて身を寄せるようにしながら、彼女は片手にスマートデバイスを握り、自動運転による車の迎えを呼んでいた。


 しかし、デバイスは到着地点を模索して考え込み、応答が遅い。それをドロシーは舌打ちし、報道陣を睨み付けた。これだけの人間が集まっている場所に、車は容易に走っては来れない。報道陣の人垣はその場から離れるのにも厄介な存在だった。


「イスルギ社長! 何かお答え下さい!」


「お答えも何も……今は何とも言えません」


「どのような些細なことでも構いませんので!」


「あのー、何かお話しすることがあればこちらから、ご連絡しますので……」


「現状だけでもお話しください! 何か変化はあるんじゃないですか!?」


「ええっと、ですから……特段何もありませんってば……」


「特段という事は、何らかの変化はあると! 内容の詳細を是非お聞かせください!」


「あの……ちょっと……」


「彼氏は!?」


「ああ、もう! もぉもぉもぉもぉー! 分かりました! 分かりましたよ、もう! お話しできる範囲でお相手しますから! そこに並んでください!」


 アンリは腕をブンブン振るいながら叫んだ。溜めるに溜め込んだ感情のダムが決壊して溢れ出す。流石にもう我慢の限界だ。この人達、マシンオイルの汚れよりしつこい。


 一方的な防御は自衛手段にはならない。時としてこちらから食らわせてやる反撃も必要だ。アンリは逃げるのではなく、真っ向から対処してやると決めた。


 ヒールの音を乱暴に立てながら、折角歩いた道を引き返し、報道陣の真ん中でご立腹の表情を浮かべる。してやったりとばかりにフラッシュを焚かれてカチンとくるものが沸いたので、突発的に『がお!』と爪を立てて威嚇してみると存外にも報道陣は怯んだ。


 良い気味だと鼻を鳴らしてちょっぴり機嫌良く微笑む彼女だが、その後ろで静かな怒りを露にしたドロシーが懐に手を入れている事に気付いていない。実態として報道陣が怯み上がったのは、アンリにではなく殺意に近い警戒心を隠しもしないドロシーにだった。


「……ええっと今回の宇宙艦打ち上げは、社員の救出を目的としての事だと窺っています。衛星管理機構との共同研究をするために、多くの企業が社員を出向させていますが、ヴェクターの脅威が増したために衛星管理機構が保護しているそうですね。定期連絡も容易ではないとされる理由として、やはり状況は激化傾向にあるのでしょうか?」


 大人しくなったマスコミに威嚇の効果抜群だとほくそ笑んで、次もやってやろうと決心しながらマイクに応えた。今度はこっちが強気に出る番だ。


「ご承知の通り、今回イスルギ重工が打ち上げる宇宙艦は社員の救出を目的としています。衛星管理機構が社員の保護に尽力してくれていますが、状況を鑑みて頼り続ける訳にはいかないと下したのが当社の判断です。人命がかかっている状況で半年という期間は決して短くありません。最速で最善の装備を整えたとはいえ、社員からすれば長い半年でしょう。我々はヴェクターとの交戦を想定して一刻も早い救出に向かう必要があります」


 だからこんなことしてる暇がないんです。と、喉まで引っ掛かった言葉を飲み下し、次々と差し向けられるマイクへ対峙していく。


「戦闘は避けられないという決断をされた以上、それに対処する人材が必須だと考えられますが、その人員について詳細をお話し頂けますか?」


「ヴェクターが全人類にとって非常に危険な存在だというのは周知の事実です。当社はそれに関して対応可能な人員を〝三名〟募りました。個人の情報ですのでお話しはできませんが、いずれもヴェクターとの戦闘行為に通じているため、交戦の際には突破可能だと御安心下さい」


「ヴェクターとの接触は十分に有り得る訳ですね。では、A.U.Gを起用するとはいえ、三名というのは些か少ない気がしますが、それは何を考慮しての決定ですか?」


 その質問にアンリは突っ掛かられていると自覚した。『三人という少数になってしまったのはお前達のせいだぞ、コンチクショー』と心中で呻く。正直、騒ぎ立てたくてムカムカすらしていた。


 本当は四名のオーグナイザーを準備し、ツーマンセル二組という最低限にして最適な戦闘力を想定していたのだけれど、それをマスコミが武装だと捉えて湾曲させるのは分かりきっていた。


 その四機がU.N.Sとの接触による救出ではなく、火星と交戦するための実戦テストによる先行リリースだとこじ付けられては溜まったものじゃない。包み隠さず話した事実を賑わかしに捩じ曲げられ、社会に不安や不穏を無責任に撒き散らされるのは大変困る。


 情報の発信者は何を言ってしまったら人々は苦しむのかと、熟考するべきだ。寧ろ、理解しているからこそ恰好の餌食とするネタを求めているのかもしれない。


「我々は戦闘ではなく、救出を目的に行動しているのです。四名という最低限の戦力を調えては、武装という不安を掻き立てる恐れを考慮した限界だとご理解下さい。もう一度繰り返しますが、当社はヴェクターとの交戦を想定しただけで、火星との交戦は一切考えていません。社員を救出するためだけに尽力しているのです」


 根も葉もないひねた報道をされるせいで、ちょっと神経質になっているかもしれない。念に念を押すというよりも、既に打ち込んだ釘を執拗にピストン機で叩き付けている気分だ。それでも時折勝手に抜け出てくるのだから、やりすぎたって足りない。糠に釘どころか、高反発のゲルにビスを打ち込んでいるのと等しかった。


「救出を目的にしているとはいえ、火星は地球企業と衛星管理機構が接触するのを快く思わないと考えられますが、もし仮に妨害行動があったとして火星の勢力と戦闘は行われますか? あくまでも自衛を貫く姿勢でいるのでしょうか?」


 だから戦わへんって言っとるやろ。もう口が酸っぱなってしもたわ――アンリはそんなツッコミをゴクリと飲み込む。


 地球と不和にある火星の勢力が救出を建前だと判断し、U.N.Sとの接触を勘繰って妨害してくるだろうというのは想定範囲の内も内だ。そこで先に攻撃したりなんかすれば緊張状態にある現状が苛烈化するのなんて、一点の曇りもなく目に見えている。


 向こうだって同じ立場だ。邪魔はしても撃破してやるとは考える筈がない。それでも万が一があると怯えて何も出来ないというのは愚策だ。救出に躍起になるあまりに交戦して、戦火の火種を撒くだなんて、皮肉なブラックジョークどころかとんでもない論外だ。


 そんな息をするのと同じくらいに当たり前の事を、わざわざ言い方を変えてまでしつこく訊いてくる意味がアンリには解らなかった。


 ボケの繰り返しはお笑いの鉄板なのだから、やっぱりツッコミ待ちかと思うものの、『そんな訳ないやろ』と理性がセルフでツッコんでくるのでどうにか失言せずに済んでいる。


「その状況を危惧されるのは至極当然ですが、先も述べた通り、我々は火星との交戦を目的としていません。妨害行為の可能性は有り得ますが、それを回避する装備の準備も済ませています。製造した救出艦は、火星との関係を煽り立てるような代物ではないとハッキリお伝えします」


 アンリは報道関係者が脚色したがる事柄を詳細には決して語らずに、ただ表層状の応対だけはしっかりとこなした。応えるという体裁は為したのだから、これ以上の内容は機会を得てこちらから話すと断ってしまえば良い。


「他にはありませんか?」


 ほんのりと汗をかいて、疲労を感じながら報道関係者を見回す。まだまだ向けられるマイクは、応対するに値しない応えばかりを求めてくる。それらを事細かに吟味する余裕をアンリは少しずつ失っていた。そろそろ限界だと察したドロシーが静かに歩み寄る。


「彼氏は!?」


「いません!」


 その答えに『おぉ!』と感激するような声が何処かから聴こえた。ていうか、さっきから何処の新聞社だ。そんなどうでも良いことを聞いて何になるんだ。こればかりは情報としての価値がまるで解らないと困惑するアンリの後ろで、ドロシーが小さくガッツポーズをしていた。


「では、その救出艦の責任者を担うのは誰ですか? やはり政府管理下に置かれた軍属の人材ですか?」


「艦長は私です!」


 静寂。アンリがうっかり叫んだ応答に、驚愕の静けさが響く。悪足掻きに鳴き続けるセミの声が、いやにはっきりと耳に聴こえていた。


 そして――破裂したような怒涛の声が押し寄せる。しまったとミスを自覚した時にはマイクの群れが鼻の先まで伸び、フラッシュの閃光を全身に浴びていた。その勢いは警備員を薙ぎ倒しそうなぐらいに荒々しく、新たなネタに飛び付いていた。


 すっかり目を回してしまったアンリをドロシーが報道陣から引き離そうと支える。離脱しなければとぼんやり考えたその瞬間――けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。


 この場に居る全員が竦み上がって思わず視線を向ける。その先に、勢い良く走ってくる黒塗りのセダン車があった。それはイスルギ重工の社用車であり、アンリとドロシーが乗ってきたものだった。


「ドロシー?」


「……私ではありません」


 車がようやく呼び出しに応じたのかと思ったけれど、それはドロシーの戸惑いと、未だ呼び出しを続けているデバイスの存在によって否定された。そもそも、クラクションをあんなに乱暴に掻き鳴らして突っ込んで来ようとするプログラムが組み込まれている筈がない。


 なら、その答えは明白だ――あの社用車には誰かが乗っている。


「退け退け! 轢いちまうぞ!」


 開かれたウィンドウに肘をつきながら身を乗り出し、耳をつんざくクラクションと張り合う大声を二人は聞き慣れていた。


 荒っぽく逆撫でにした短めの黒髪と、粗雑な人格を浮き彫りにする無精髭が目立つ中年男性――トキオミ・ナザレという一緒に月を目指す傭兵のA.U.Gパイロットをよく知っていた。


 アンリを逃がさないとばかりに囲んでいた報道陣が聴覚的にも視覚的にも危険を感じ、転がるように散っていく。


 その隙間へ、捩じ込む形で車が入り込む。荒々しくも緻密な運転技術はA.U.Gのパイロットとして遜色ない手腕の一端だ。


 開かれた後部座席へ、アンリとドロシーが滑り込む。怯んで出遅れた報道陣は、それでも車のスモーク越しにフラッシュを焚き続けたけれど、それは味気のないフィルムを大量に生産するばかりで記事として何の意味も持たさなかった。


「お疲れ、お二人さん。さて、名残惜しくもスキャンダラスなセレブ気分からオサラバだ。しっかり掴まってな」


 ロクな後方確認をした様子もなく、トキオミはタイヤが悲鳴を上げるほど乱暴なバックで車を出す。アンリとドロシーは押し付けられるような圧力を感じたが、その甲斐もあって山盛りにいた報道陣は間もなく小さな点となって視界からすっかり消えてしまった。


「ありがとうございます。本当に助かりました、トキオミさん」


 ぺこんと頭を下げた後、最前線からの離脱にすっかり脱力しきったアンリはシートに沈み込む形で凭れ掛かった。


『はぁ~』とたっぷり疲労の吐息を溢し、気抜けしてだらけきったその姿は、まるで破裂した餅だ。部外者にはとても見せられたものじゃない。


「お安い御用だぜ、お嬢。雇用主を守るってのも仕事の内さ」


 そう言ってトキオミは、仕事をやりきった感満載なプロフェッショナルの雰囲気をわざとらしく漂わせ、手製の紙巻き煙草を咥える。今時に無煙電子タバコを好まないのは、奔放な彼の人間性を如実に表すキーアイテムだった。


「トキオミ、社用車は禁煙ですよ」


 その気取った態度をドロシーがあっさりと叩き潰す。折角、助け船を出してくれた人だというのに容赦無いにも程がある。酷い。


「……一本くらい大目に見てくれよ」


「駄目ですね」


 ドロシーは譲らない。寛容を求めた健気な声を鼻で笑いさえする。女性の前で格好を付けたがるのは男の性分だというのに、規則を突き出してそれを許さなかった。いくら二人が旧知の仲で少しばかり折り合いが悪いとしても、わざわざ迎えに来てくれたトキオミの報酬が叱られた気恥ずかしさというのは、あまりにも惨い。


「そ、それにしても今日は何だか蒸して疲れるね! 何処かで休憩しましょう! 煙草が吸える所が良いですよね! ね、トキオミさん?」


 がっくりと肩を落としているトキオミを気遣って、名案とばかりにアンリが手を叩く。調子の良い振りをしていながら、内心ではちょっぴり焦っていた。これぐらいはせめて二人とも衝突せずに、受け入れて欲しいと願う。


「そうですね。社長はとてもお疲れでしょうから、休憩を取りましょう」


「流石のお嬢も疲労困憊かぁー。まぁ、無理すんなよ。冷たいモンでも食うか?」


「んん~?」


 何か変だ。何かがズレている。二人を気遣った筈が逆に気遣われているような……。


 そこでアンリはハッと思い至った。この二人は衝突なんかしていない。喧嘩っぽい口調も古い繋がりがあっての平常運転であり、互いに理解と信頼があったんじゃないかと。


「……んふふ!」


 ニンマリと邪な笑みを浮かべ、チラチラと二人に目線を送っては、いじらしさに自然と口角が持ち上がってニヤついた。


 そうかそうか。成る程成る程。二人はそういうことなのか。んふふ。


「うわ、何だよお嬢……き、気持ち悪いぞ……」


「これは……いけませんね。あまりの疲労で精神的に不調を来しているかもしれません……」


 ソワソワとした不安な視線を二人から送られながらもアンリの笑みが消えることはなかった。心配したつもりが心配され、安心したつもりが不安がられるという滅茶苦茶な空間がたった三人しかいない車内で見事に形成されていた。


 基本的にこの人達は全員ズレている。イスルギ重工はトップを始めとして、だいたいおかしな人材の集まりだった。


 それは今も昔も変わらない古き良き伝統というものであったりする。



 冷たい物を口にして、気持ちがすっかり落ち着いた頃。アンリは報道関係者に出すには尚早だった情報を思い返し、ちょっぴりブルーになった。自分が艦長であるという情報はやっぱり控えておくべきだった。


「ごめんね、ドロシー。私、余計なこと言っちゃった……」


 アンリは横に伏せながら鉛のように重々しい溜め息を吐き出し、軽く自己嫌悪に陥っていた。ちゃんとやろうと焦るばかりで、まだまだ未熟もいいところだ。適当に流す塩梅というものを自分は未だ取得していない。


「問題ありません。いずれは伝えなければならなかった事です。時期が早まっただけだと解釈するべきでしょう」


 助手席に移ったドロシーはアンリの失敗を大したことではないと処理する。報道に携わる者が新しいネタとして流し、それに食い付いてくるだろうけれど、公開するつもりは最初からあったのだから予定に大きな変化は無い。


 イスルギ重工は社長の代替わりをし、心機一転の最中にある。その状況で出向社員達が月から帰ってこれないという問題が発生し、これを逆手に取って、新社長の存在を広めてはどうかと株主達はアンリの打ち立てた計画を後押した。


 代表取締役である叔父イスルギ・アガタは肉親の立場として、危険ではないかと消極的な姿勢だったのだけれど、アンリの自発的な計画準備や先代からの秘書であるドロシーの同意も重なって、不安感を潜めつつも最後には飲み込んでいた。


 兄を喪い、ほとんど自分一人で経営を任される立場になっても、不安の欠片を少しも見せなかった強い叔父が『君達を信頼して私は待つよ』と緊張した面持ちで激励してくれたのをよく覚えている。


 自分の事には頓着せずに、人を気遣ってばかりいる優しい叔父らしい姿勢だった。そんな人の期待を裏切って、ガッカリさせたくない。


「まー、気を落とすなよ、お嬢。生きてりゃ、やっちまったと思うことなんてキリが無いくらいあるぜ」


 煙草の一服に『生き返る』と感涙し、すっかり気分を良くしたトキオミはヘラヘラと笑いながらアンリを慰める。彼はアンリの失敗がどういう事態に繋がるかなんてまるで考えていない様だ。無頓着とも楽観的とも取れるその態度は、人によって受け取り方が異なるだろうけれど、その余裕っぷりがアンリには羨ましかった。


「妙に説得力のあるフォローですね」


「だろう? 俺は体験談が豊富なんだ」


「ええ、だからなんでしょうね」


「……まぁな」


 ドロシーに容赦なく叩かれているトキオミに吹き出しそうになりながら、アンリは伏せたまま肩を震わせた。本当に仲が良いんだなと思って、うっかり『うふっ!』と声を漏らしてしまったものだから、本当に大丈夫だろうかと心配気な視線を二人から送られてしまった。大分恥ずかしい。


「ところで、車の電子キーはどうしたんですか?」


「おいおい、キーがなけりゃ動かせないなんてのは古くさい固定観念だぜ、フランちゃん」


 ナメり腐った愛称と得意気に片頬を吊り上げる鬱陶しい顔のトキオミをよそに、ドロシーはサイドスペースに置かれたケーブルまみれのデバイスを見つけて目を細めた。勿論、それはハンドルの下に延びて内蔵機器に取り付けられている。無理やりに電子ロックを抉じ開けたのは明らかだった。


「……クラックした機器は請求させて頂きます」


「マジ!? 俺はお嬢さん方を想ってやったんだぜ!?」


「会社の所有物を壊されてまでは望んでいません。そこまでされては不要な世話も同然です。呼び出した車が来るのを待てば済んだ話しだったのですから」


「でもよ、お嬢が可哀想だったろ!?」


「マスコミの追求は何処までも続きます。飽きるまで耐えるのが常套手段ですよ。社長があの場で質疑応答したのは、それを早めるのに良い判断でした」


 アンリの気持ちを汲んでくれるトキオミと、結果を評価してくれるドロシーは、互いに思いを平行線にして、険悪な空気を生み出しつつあった。仲が良いとしてもこれは本当に大丈夫だろうかと不安に駆られたアンリが、座席の間から首を突っ込んでわざとらしく喚く。


「わ、私はトキオミさんが来てくれて助かったけどなー! 故障だってウチで修理しちゃえば大丈夫だよ、ドロシー! 二人とも色々ありがとうね!」


 あからさまな気の遣い方に無理してるなと自覚しつつ、困り気味の笑顔を浮かべて場を和ませようとする。二人は本当に仲が良いんだよね、大丈夫だよね、と少し焦っていた。


「ほらな! お嬢は喜んでるだろ! ざまーみろ! ハッハッハッ!」


 年甲斐もなく味方を得たトキオミは、機嫌良くドロシーを茶化して喚く。三十歳を越している男性としては落ち着きの欠片もないが、それを不思議と不快に思えないのが彼の魅力だ。実際にアンリはそんな部分を面白おかしく気に入っていたし、ドロシーだって本心で冷たくしている訳ではない。……訳ではない筈だとアンリは思っている。


「社長が気遣って下さったのをよくもまぁ、そこまで調子良く……まったく、子供じみた不毛な絡みはもう結構です。本題は何ですか?」


「あー……やっぱ鋭いな。実は契約の件なんだけどよ……」


 トキオミは大きな身体に似つかわしくなく、モジモジとした様子で口ごもっている。まるで母親に叱られるのを覚悟して、自分がやった事を自白する子供みたいだった。


 アンリはきょとんと目を丸くして成り行きを見守る。本題とは何の事だろう。迎えに来てくれたのには、他に理由があったという事なんだろうか。


「月に行く話、俺降りるわ。悪りーな」


 ドロシーが凍りつくような暗い眼差しを向け、それを正視できずにトキオミは真っ直ぐ正面を向いた。運転に集中している風を装っているのだけれど、心底ビビっているのは傍目にも明らかだった。


「ええーー!? トキオミさん、ついてきてくれないんですか!?」


 素っ頓狂な声を上げて驚きを隠さないアンリに、トキオミは約束を破ったのを謝る友人の様な気安さで片手おじぎをする。それが通じてしまう雇用関係は第三者からすれば目眩がするぐらいに異質だ。


「スマン! 本当に悪い、お嬢。俺にも事情ってもんができちまって――」


 仕事に引っ張りだこなやり手を気取って、キザな笑みを浮かべるトキオミ。そんな彼にドロシーは自前のデバイスを突き付ける。そこに記された膨大な数字は金銭問題だと一目瞭然だった。


「貴方の違約金です。御自分で確認した後に振り込みを御願いしますね」


 無情。ドロシーはあまりにも無情だった。彼の飄々とした言葉に呆れ、すっかり雇用関係にある意識というものを削ぎ落としてしまったようだった。


 あんぐりと口を開けるトキオミを知らん顔で『振り込みの期限についてですが』と淡々と話し続けるドロシーに、彼は顔をひきつらせている。アンリもつられて脅え、目を開いて硬直したままプルプルと震えた。自分がもしもトキオミさんの立場だったら耐えられないなぁとぼんやり思いながら。


「お、おぅ……本当に悪いな、ドロシー。でも俺にも事情ってもんが――」


「ビタ一文まけませんよ」


「はい、すんません……」


 大きな身体を小さく丸めてハンドルにしがみつく姿は、何だか可哀想なぐらい惨めだった。野生に還される保護動物だってここまで冷たくあしらわれたりしない。ドロシーにとってトキオミは正しく動物以下だった。ヒエラルキーの低さは、もしかしたら虫ぐらいかもしれない。


「……一応訊いておきますが、傭兵にとって信頼は最重要項目なのでは? それをこんな形で御破算にしてしまって悔いが残りませんか?」


 溜め息混じりの言葉は思い改める酌量を滲ませていた。それを理解するのは難しい事じゃない。これがドロシーなりのいじらしい優しさなのだろうと、アンリは微笑ましく思った。正直、冷たくて怖い感じがするのだけれど、アクセントという事にすれば何でも丸く治まるものだ。底無しに無思慮なプラス思考がもたらす都合の良い曲解という気もするけれど。


「へぇ、気ぃ遣ってくれてんのか? 随分と不器用な引き留めをするんだな。フランちゃんの可愛い一面を久しぶりに見たぜ」


 なんて事を。アンリは思わずギョッとしたが、そんな気持ちは露知らず、調子に乗って口笛を吹き始めたトキオミにドロシーはそっぽを向いてしまった。


 窓に映る味気ない景色を眺めながら、会社に帰ってやるべき事を彼女は整理しているに違いない。トキオミはすっかりそんな景色の一部になってしまった。彼が虫以下になってしまったのを焦るアンリは、人間性を挽回して欲しいと頭の片隅で祈ってみたりもする。


「悪い、おちょくり過ぎたか。でもよ、違約金払ってでも優先しなくちゃならねぇ事なんだ。期待を裏切る形になって本当に済まないと思ってる」


 祈りが通じた――と馬鹿げた安堵にほっとしながら、バックミラーに映るトキオミの神妙な面持ちに彼が何かを抱えているとはっきり理解した。


 夢に賛同してくれた一人の大人が離れてしまうのは悲しいけれど、契約書類を押し付けて無理に引き留めるのは間違っているとも思う。他の企業からすれば当然なやり方でも、それに倣うという気持ちがアンリにはさらさら無かった。


 誰にでも期待に応えられなくなる時がある――何度も約束を守れずに、悲しい顔をしていたイザヤのように。


「……分かりました、トキオミさん。契約の内容を再度改めて、お互いに今回の件をわだかまりのない形で終着させましょう。現状で示された違約金を少しでも緩和できる筈です。とても残念ですが……今までお世話になりました」


 姿勢を正して誠実な対応を口にするアンリに、ドロシーが向き直る。『こんな奴に情けは要りませんよ』とでも言いたげだけれど、その目元は柔らかなものだった。


「あぁ、いや、違約金ならきっちり払うさ。俺の勝手に気遣う必要なんて無いし、書類引っ張り出す手間をかけさせたくないからな」


「……すでに欠員の補充という手間をかけさせているのですが?」


「いやー、それにしてもお嬢は優しーな! お兄さん感激しちゃったよ! 何か欲しいものがあったら買ってやろーかな!」


 ドロシーの切れ味抜群な言葉のナイフに刺されたトキオミは、ざっくり切られた傷みを誤魔化すために、アンリの機嫌を計らって上擦った声を上げた。きっと彼の脳内では、ドロシーに刺された痛みでアドレナリンが噴き出しているに違いない。


「え、やった――ってもう! 私が子供だからっておちょくってませんか!?」


 からかわれたアンリは再び身を乗り出してトキオミに唸る。喉を鳴らして笑っている彼にちょっぴりムカッとした。正直、一瞬だけでも期待してしまったのが悔しい。


「私が今、欲しいと思っているのはトキオミさんです。それがダメって言うなら……もう、不貞寝してやります」


 反撃とばかりに痛いところを突いてトキオミを呻かせ、後部座席に倒れ込む形でアンリは顔を伏せた。それはまるで昼下がりのドラマで、ぞんざいな扱いを受けた人妻のように仰々しい。彼女は存外にもこんな俗っぽいのが好きだったりする。


「ハハッ、ばれたか。……しかし、痛いところを突いてくるな……これでも反省してるんだぜ? 何か最近、ドロシーに似てきて――ってあれ? おい、お嬢? 寝た!? 本当に寝たのか!? え、もう!?」


 驚いた様子でバックミラーを見るトキオミは、アンリの小さな肩が小さく上下して、静かな寝息を立てているのを認めた。思わず困惑した声を溢し、ドロシーに『アレ、大丈夫か?』と指差して口走る。


「疲れきっているんです。貴方と違って社長は激務ですから。……ところでアレとは何です、アレとは」


 トキオミの耳を捻りながら、お前はちゃらんぽらんだと暗にドロシーがチクチク刺してくる。土壇場で契約を守れずに反故するような奴は、そう言われても仕方ないだろう。弁明するにはあまりにも分が悪く、二つの意味で耳が痛い。


「イテテ! 悪かったって! ……しかし、まぁ、なんか電池の切れたオモチャみてーだな……。いや、寧ろ今は都合が良いか……ドロシー、少し話がある」


 似つかわしくない真面目な面持ちでドロシーに話し掛ける彼の声音は、静かでいながら鋭い。茶化した物言いを止めているのは、彼なりに真剣な話しをするとした姿勢の改めだ。


「懐の銃が必要な事でしょうか? それとも女らしく悲鳴を上げるべき?」


 ドロシーの細めた視線は男女関係を匂わせるものなら、はっきり断るという拒絶の意志がありありと浮かんでいた。変なことを口走れば撃つかもしれないと暗に表し、冗談だとはっきり解らないところが脅しにしては現実味を帯びていて恐ろしい。


「物騒だな、おい……冗談でも止めてくれよ。話ってのは俺の穴埋めだよ。候補にして欲しい奴がいる」


 青ざめた顔でトキオミはケーブルだらけのデバイスを、目もくれず片手間に操作する。周囲からの盗み見を防ぐために、正面から見なければ暗号化されて意味不明な羅列となる情報表示を容易にすり抜けていく手腕は、やはり契約を解くには惜しい人材だと思わせた。


「貴方にしては手回しが良いですね。では、既に事情を通してあると」


「いや、なんもしてない」


「……本当に貴方という人は……」


「まぁ見てくれ。お嬢が寝てて助かるって意味が解るぜ」


 呆れ返りながら向けられたデバイスを見詰めたとき、ドロシーの眼の色が明らかに変わった。その輝きは、驚きと興味が混ぜられ、沸き立つ感情に揺れる複雑なものだった。


「成る程……理解しました。これが貴方の言う個人的な都合ですか……」


 月に向かう救出クルーを募っていた中で、トキオミが妙に乗り気だった理由をドロシーは察した。行動を開始した初期の段階から彼はそのつもりで、少ない枠を確実に埋めた――アンリのために。


「どうやって〝彼〟の存在に辿り着いたんですか?」


「偶然だよ」


「それを信じろと?」


「こんな仕事をしていると、勝手に見つかる情報なんざ山ほどある」


「ですが、これはあまりにも想定外です。万全を期すために、その不確定要素を埋めなくてはいけません」


「悪いな、商売上のトップシークレットだ。それに、何を勘繰ろうとこの事実以上の事なんて無いぜ?」


 追求を飄々とかわすトキオミは、付け入れられる状況に場慣れしていた。裏を返せばそれは不都合があるという証左になるのだけれど、そこを突つかれて認めるトキオミではない。


 どうやってこの人物に辿り着いたのか。それを決して彼は明かさないだろう。土壇場で契約を反故にした意味は、この人物を連れていかせなければならない状況を作り上げるためだ。何もかも思惑通りだという不快感よりも、という疑問の方が遥かに大きい。


 細縁の眼鏡を外し、無意識にそのツルを軽く噛むのは、ドロシーが深く考え込む際の癖だった。彼女の頭の中では目にした情報と、アンリが傷ついた過去が混ざりあって、現実的には信じがたい不和となっている。


 けれど、事実として――どうやって潜り込んだものか――U.N.Sのネットワークを開いたデバイス画面のそこに、彼は生きていた。


 月で産まれ、月で戦い、そして死亡した筈の少年――オイガミ・イザヤ。


 そのステータスはアライヴを示すグリーンに輝いていた。

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