好きと言えない

先週、隣の部署の同期に告白された。結婚を前提にお付き合いして欲しいという内容だった。突然で驚いたが、その同期とは入社時から仲が良く、確かにこういうタイプの人となら幸せな家庭が築けるんだろうな思った。

波瑠はそれを断った。好きな人がいるから、と。

「じゃあ波瑠は、ちゃんとその人と幸せになってね」

断られることは想定していたのだろう。あらかじめ用意をしていたような言葉だった。

「うん、ありがとう。頑張るね」


でも、このざまだ。

ここ何ヶ月か、波瑠は自分の精神状態が極めて悪いことに気づいていた。仕事中でも友人との飲み会中でも、智のことを思い出すと涙が溢れるのだ。

同期の告白を当然のように断って、でも断った後、揺り戻しがきていた。なんでこんなに自分は、未来のない恋愛にしがみついているのだろう。


大好きで大好きで、どうしようもなかった。だけど苦しい恋を続けるのは限界だった。恋に溺れて身を滅ぼすほど若くないし、人前で泣いて許されるほど美しくもない。


目が覚めると、よく晴れた冬の日特有の静謐に部屋が包まれていた。遮光カーテンの隙間から、細い光が床に模様を作っていた。

智を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、歯を磨きに行く。この習慣は、起きがけにキスをされなくなっても抜けなかった。

朝目覚めるたびにキスをしてくれていた頃はまだ、こんなに好きじゃなかった。


遅くまで飲んだからか、普段は眠りの浅い智は、波瑠がもう一度毛布に潜り込んでも目覚める様子がなかった。

寝顔をじっと見つめる。相変わらず整った顔だった。肌も、自分より年上とは思えないほどつやがある。

どうしようもなく好きだった。いつまでもこの時間が続けばいいのにと思いながらも、波瑠が泣いていることにいつも気付かないその興味のなさが憎かった。


Tinderで出会った遊びの相手と、たまたま長く続いてしまった。彼は思わせぶりな態度は取らなかったし、好きだとか付き合うだとか言わなかった。

波瑠が一方的に、彼への愛を深めただけだ。


昨晩の、三軒目のバーから智の家に向かう途中だった。組んでいた腕をほどき、振り向いた智の目を見て言った。

「好き」

智は驚かなかった。少し困った笑みを浮かべただけだった。いつかそれを告げることを想定していたようだった。

「そっか」

目の前にいるのに、どこにも触れていないとその体温が欠片も感じられなかった。二人の間には透明なフィルムがあるようだった。

「…波瑠は俺と付き合いたい?」

「…ううん、大丈夫。ただ言いたかっただけ」

そして、俺も好きだよ、と言って欲しかっただけだ。

あなたは私のことを好きですか、とは怖くて聞けなかった。

「知ってて欲しかっただけだから。ほら、帰ろ」

腕を組んで歩き出す。

家に着くと、波瑠は智をベッドに押し倒してキスをした。雪崩れ込むようにセックスに持ち込んだが、終わった後のシャワーで涙が止まらなかった。


同期に告白された勢いで、自分も伝えたくなってしまった。もうずっとずっと、心に閉まっていた言葉だった。好きだと告げれば何かが白黒付くと思っていたのに、何も変わらなかった。変えられなかった。


もうこの恋は、前に進まないことがわかった。


付き合いたいかという問いにYesと言わなかったのは、プライドではない。二人の間の認識差が明確になったから、頷けなかったのだ。

智は波瑠を「それなりに」好きだろう。好きだと言えば、付き合うという選択肢を定時するくらいには。恋人というある種関係性の束縛を対価として払っても、一緒にいたいと思うくらいには。でも、それは決定的な差だった。

彼に必要なのは、今だけだ。不安定な職種、長続きしない恋愛。彼は今さえあればそれでいい。でも、波瑠は智との将来が欲しかった。だから付き合いたかったし、いずれは結婚もしたかった。家族になりたかった。


単に二人は、愛の位置付けが異なるのだ。ゆえに、愛の総量も異なる。

恋愛は、智にとっては単なる娯楽の一種であり、波瑠にとっては人生だ。これから先、恐らくそれぞれの思考が変化することはない。娯楽と人生では扱い方があまりに異なり、一緒にいればいるほどその違和感は強くなるだろう。

波瑠が智を好きになればなるほど、例え彼にとっての100%で波瑠を愛しても、差は埋まらずに喉が乾くだけだ。


『あなたのことは好きだけど、あなたのことを好きな自分は嫌い』

昔読んだ小説にそんな言葉があった。

遠くにいる恋人を想って泣くのはいいけれど、隣にいる男を想って泣く恋愛をしている自分は嫌いだ。

もう、そんなしんどい恋愛を続けられる年齢じゃない。

波瑠には、同じように愛を人生として位置付け、自分と同じくらいの愛を提供してくれる人を探す必要がある。

(私の全部をいらない人に、私の愛は渡せない)


「智くん、私帰るよ。あと、もうここには来ないから、私のもの捨てておいてくれる」

智はやっと目を覚まして、こちらを向いた。昨日のやり取りで予感はしていたのだろう。一瞬の間はあったが、すぐにいつもの温和な顔に戻った。

「わかった、波瑠がそれでいいなら。夏用のパジャマとかもいらないの?」

「うん。もう毛玉も付いちゃってるし、捨てちゃって大丈夫」

「了解」

何にも執着せず、今だけに興味がある智はいつも自由で、それが眩しかった。そういうところが好きだったのだから、彼との将来を欲しがるなんてやっぱり波瑠は自分勝手だったんだろう。一つだけ願うなら、ずっと彼はそうであってほしい。波瑠が夢見た将来は、彼とは手に入らなかったのだと、ずっと思わせてほしい。


じゃあ、行くね。

立つ鳥跡を濁さず、と言い聞かせて玄関に向かう。パンプスに足を入れて、振り向いて笑う。

「ばいばい」

少し背伸びをして、智にキスをする。返ってきたのはいつも通りの、そっけないキスだった。いつもより、コンマ数秒長かった。智の目の縁が少し濡れていたのは、波瑠が都合のいいように見間違えただけだっただろうか。

多分彼は波瑠との関係を失っても、季節が変わるのが少し寂しく感じるように、一瞬だけ立ち止まり、また何事もなかったように日々を過ごしていく。


外は、早朝の冷たい空気がまだ残っていた。背中越しにドアが閉まる音がした。これでもう、誰も見ていない。

駅に向かう誰もいない路地で、波瑠は声を上げずに泣いた。これから後何回朝を迎えれば、智を忘れられるのだろう。

新しい恋が失恋の痛みを癒すと言うが、今まで何回もバランスを取ろうと新しい男を探そうとしたのだ。全部うまくいかなかった。どうすればいいのだろう。どうすれば泣かずに済むようになるのだろう。


今日は浴びるように酒を飲もう。誰かから誘いが来たら家に呼んで抱かれよう。強制的に日常から智を引き剥がすのだ。そうやって無理やりにでも、この恋を消化するのだ。



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好きと言えない 街子 @tokyomidnightlovers

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