迷想妄想恋敵

 ボクはこの数日間で完全に憔悴してしまっていた。物くさ太郎の説話から目覚めた朝に感じた、湧き上がるようなヤル気、自信、勇気、気合い、それらはこの数日間のうちに気の抜けた夜店の水風船みたいにすっかり縮んでしまった。


「コイツも結局、気を遣って神経をすり減らすだけのお荷物になってしまったなあ」


 講義室に座ったまま、横に置いてあるカバンを叩く。右ふくらはぎに微かな振動を感じる。そう、小町さんの提案を受けて、毎日「月暦仏滅御伽物語」をカバンに忍ばせて通学しているのだ。だが今日までこの本がカバンから出ることはなかった。つまりは和泉さんと一度も言葉を交わしていないのだ。


「よそよそしくしすぎたのかなあ」


 先にこちらから声を掛けるには、相手がこちらより先に声を掛けてくるのを防がなくてはならない。その為にボクは和泉さんを避け続けた。もし顔を合わせてしまったら即座に声を出せる自信がない。間違いなく和泉さんが先に声を掛けてくるはず。そうなれば「こちらから声を掛ける」という行為は失敗に終わる。


 相手がこちらに気付かぬうちにこちらが相手に気付き声を掛ける、こんな状況を探し続けていたのだ。その結果、和泉さんをひたすら避け、顔を合わさず、極力目に付かない場所で時を過ごすというような行動を取り続けてしまったのだ。


「考えてみればアホだよなあ。嫌われているんだから声なんか掛けてくれるはずがないのに」


 ボクには分かっていた。要するに覚悟が足りないのだ。和泉さんを避け続けているのは声を掛けるという行為を恐れているからだ。都合のいい状況を作り出すというのは単なる口実。本音は物くさ太郎のまま寝ていたいのだ。二年半ずっとそうだったように。


「そうだよなあ。あの二人に励まされたくらいでいきなり性格が変わるほど人間は単純じゃないよな」


 気が付けば今日はもう先負。明日は三回目の仏滅だ。このままでは和扇さんと小町さんに合わせる顔がないなあと思いつつも、それも仕方ないじゃないかという諦め気分が蔓延している。物くさ太郎に都へ行くようにと馬を連れてきてくれた村長のように、現実世界のボクにも誰か背中を押してくれる人はいないものかと虫のいいことを考えたりする。


「親友を作っておけばよかったなあ」


 この大学には同じ高校から来ている者もいたが、それほど親しい仲ではなかった。そして二年半の間、新しい友人を作ろうともしなかった。それだけの気概があれば毎日顔を合わす女子に挨拶する程度のことができないはずがない。同性の親友すら作れないボクが異性の恋人を作ろうなんて考えたこと自体、身分不相応な望みだったのだ。


「帰るか」


 本日最後の講義はとっくに終了していた。講義室にはほとんど人が残っていない。ボクはカバンを持って立ち上がると廊下に出た。


「えっ!」


 一瞬、我が目を疑った。少し離れた窓の前に女子が背を向けて立っている。和泉さんだ。三階の窓からじっと外を眺めているのだ。


(チャ、チャンスだ!)


 廊下に人影はない。和泉さんはこちらに気付いていない。そしてよほど興味を引き付ける光景でも広がっているのか、和泉さんは微動だにせずじっと窓の外を眺めている。まるでボクに声を掛けてくれと言わんばかりに。


(今だ、今しかない。行け、清右。行くんだ。いや、待てよ。何て言おうか。夕方に『こんにちは』はちょっと変か。と言って『こんばんは』も早すぎる気がする。『やあ』じゃちょっと馴れ馴れしいし、『今日もご苦労さん』って、上司と部下じゃないんだからさあ。ああ、自分の会話力不足が恨めしい。それにしても和泉さん、何を見ているんだろう)


 ボクは和泉さんから少し離れた窓に近寄り外を見下ろした。植木の間を犬が走り回り、数名の職員が追いかけている。納得だ。どうやら今日は全てがボクに味方してくれているようだ。高鳴る鼓動を鎮めながら和泉さんに近寄り声を出す。


「い、いやあ、どこかの野良犬が入り込んだようだね。なかなか面白い光景だ。もしかして犬が好きなのかな。ボクは好きでも嫌いでもないよ」


 言い終わってから「何言ってんだよ、この話下手。もう少し気の利いたセリフが言えないのかよ」と自分にツッコミを入れたくなったが、言葉になって出てしまってはもはやどうしようもない。一応「犬が好き?」という返事を求める言葉を入れておいたので、和泉さんから何らかのお言葉が戻ってくるはずだ。


「思い込みはやめてもらえないかしら」


 即座に返事が戻ってきたが想定した内容とかなり違う。


「私が何を見ているか、どうしてあなたに分かるの。逃げる犬を眺めているなんて勝手に決めつけないで欲しいわ。あんな獣に興味なんかないわよ。それに犬が好きか嫌いかなんて、どうしてあなたに教えなきゃいけないの。私にそんな義務はありません」

「あ、ああ、そうですよね。すみません」


 しくじった! 後悔の念がひしひしと押し寄せてくる。和泉さんはそれだけ言うとまた窓の外を眺めている。無言だ。完全に会話が途切れてしまった。為す術もなく茫然とたたずむボク。和扇さんから出題された話し掛けるという課題はクリアできたが、親睦を深めるという目標からは遠ざかってしまった。まずい。何とかしなくては……そうだ、小町さんの課題がまだ残っているではないか。ボクはカバンを開けると木箱を取り出した。


「あ、あのう、数日前、ゼミの資料について訊いていましたよね。教えます。今日、持って来ているんで」

「あら、そう」


 和泉さんがこちらを向いた。表情が若干和らいでいるように見える。よし、いける。ボクは自分に気合いを入れると木箱から例の本を取り出した。


「これです。あの古本市で五百円で購入したのですが、どうやら直筆の原書みたいなんです。しかも相当古い物のようで」

「そ、それって……」


 和泉さんの目が丸くなっている。かなり興味をそそられているようだ。触れんばかりに顔を近付け、表紙と題字を凝視している。


「間違いないわ、原書よ。しかも江戸以前、戦国、ううん、室町の頃の物かも。ねえ、渋川君、時間ある? こんな所で立ち話もなんだから、どこかで落ち着いてその本を見せてもらえないかしら」

「は、はい。喜んで!」


 胸の中に広がる勝利の歓喜。さすがは小町さん、実際の年齢は教えてもらえなかったが、現世ではかなり恋愛経験豊富な女性に違いない。思い切って本を見せて正解だった。


「そうね、生協の喫茶コーナーにしない? 何か飲んで話をしましょう」


 い、いきなりデート! いや、そう考えるのは早計だ。これは同じゼミ仲間の単なる会合に過ぎないのだから。身の内に高ぶる恋心を鎮めつつ、ボクらは厚生会館に向かう。人はまばらだ。喫茶コーナーに見知った者はいない。これなら落ち着いて話ができそうだ。

 自販機でカップコーヒーを買い、二人掛けのテーブルに座ると、和泉さんは身を乗り出さんばかりに話し掛けてきた。


「ねえ、さっきの本、手に取ってじっくり見てみたいの。構わないでしょう」


 この申し出には躊躇せざるを得ない。一心同体のあの本を他人の手に委ねるのは危険だ。が、ここまできて頼みを拒むことなどできようはずがない。二つ返事で承諾する。


「どうぞ、どうぞ。でも大切に扱ってくださいね。古い物ですから」

「言われるまでもないわ。あら、意外にしっかりした手触りね」


 差し出した本を受け取る和泉さん。その瞬間、右ふくはらぎを柔らかな温もりが襲った。


「あふっ!」

「何? どうかしたの?」

「い、いえ、何でもありません」


 大嘘だ。今現在ボクの右ふくはらぎは、生温かい刷毛で撫でられているような刺激を受け続けている。そう、あの本への刺激はボクの右ふくらはぎへの刺激と同じ。自分で自分の足の裏をくすぐっても、さほどこそばゆくはないが、他人にくすぐられればこそばゆさは倍増する。それと同じだ。和泉さんが本に触れ、本のページをめくるたびに、ボクの体は和泉さんに弄ばれているかのような快感を覚えるのだ。


(ああ、和泉さんの手が、指が、ボクのふくらはぎを撫でていく)


 頭の中で妄想が広がっていく。実際、それと同じ感覚を味わっているのだから無理もない。本と繋がっているのがふくらはぎで良かった。別の部位だったら大変なことになっていたかもしれないのだから。


「はうううっ~!」


 突然、言いようのない快感がボクのふくらはぎを襲った。和泉さんが驚いて顔を上げる。


「な、何、いきなり変な声を出して。驚かさないで」

「す、すみません。それよりも今、本に息を吹きかけましたよね。どうしてですか」

「紙にホコリが付いていたから吹き払ったのよ。いけなかったかしら」

「い、いえ。大丈夫です」


 ふくらはぎに息を吹きかけられるなんて、一生のうちで一回あるかないかの貴重な体験である。しかも相手は和泉さん。今日の出来事は生涯に渡って忘れることはないだろう。


「あら、ここ少し汚れているわね。擦ったら落ちないかしら」

「くふああああ~!」

「やだ、また変な声。渋川君、今日は少しおかしいわよ」

「す、すみません」


 変な声も出るというものだ。ボクの右ふくらはぎが和泉さんの繊細な指で擦られ摘まれ揉みあげられたのだから。まずいな。これ以上好き勝手に本をいじられたら、理性が崩壊してしまいそうだ。


「あ、あの和泉さん、そろそろ返してもらえませんか。今日は早めに帰宅したいので」

「あらもう。残念ね。なら、この本、今日一日貸してもらえないかしら。家でじっくり読んでみたいのよ」

「ええっ!」


 思ってもみない申し出だった。と同時に決して承諾できない申し出でもある。本を預けるのは我が身を預けるのと同じ。まさかハサミで切り刻んだりはしないだろうが、うっかり踏んづけたり、重い物を落とされたり、熱いお茶をこぼされたりしたら、それは全て右ふくらはぎへのダメージとなる。そんな危険は冒せない。


「ごめんなさい。本を貸すのだけは勘弁していただけませんか」

「どうして。たった一日だけでいいのよ。もちろん大切に扱うわ。何なら謝礼を支払ってもいいわよ」

「そういう問題じゃないんです」

「どういう問題なの」

「そ、それは……」


 さすが和泉さん、こうと決めるとぐいぐい押してくる。返す言葉に窮して口籠ったボクの頭に、大晦日の夜空に響き渡る除夜の鐘のような小町さんの言葉が聞こえてきた――ここはひとつ御伽物語の秘密を洗いざらい教えてしまっては如何でしょうか――そうだ、まだその課題をこなしていなかった。何もかも話してしまおう。そうすれば和泉さんも納得するだろう。


「実は、その本は……」

「やあ、和泉かずみ。待ったかい」


 キザな男の声がボクの言葉を遮った。よく見ると和泉さんの肩に手が置かれている。誰だと思ってその手の持ち主を確かめたボクは、除夜の鐘に頭を突っ込んで橦木で叩かれたぐらいの衝撃を受けた。文学部一のイケメンにしてモテ男、ひかる源次郎げんじろうだった。


「悪いわね、光君。もう少し待っていただけないかしら。今、こちらの方とお話し中なの」


 光君だと。向こうは和泉かずみと呼び捨て、こちらは君付けで呼び合う仲なのか。まるで橦木が除夜の鐘をぶち割って、頭を直接叩いているかのような衝撃だ。


「おや、デートの前に他の男とデートとは。和泉かずみも結構やるじゃないか」

「推測で物を言うのはやめていただけませんか。ゼミの資料を見せてもらっていただけです」

「ふーん、そうなの。ああ、その本か。どれ」


 光源次郎が本に手を伸ばす。ボクは慌てて和泉さんから本をひったくった。こんな男に我が身とも言うべき一心同体の本を触らせるわけにはいかない。


「ははは、こりゃ失礼。よほど大事な本らしいね」

「そうだ。命の次に大切な本なんだ。気安く触るのはやめてくれ」


 思わず大きな声を出してしまった。光源次郎の呆れ顔、和泉さんの驚き顔、やがてその表情から熱気が消え、普段通りのクールな面持ちが帰って来た。何もかも振り出しに戻ってしまった、そんな気がする。


「そうね。無理言って悪かったわ、渋川君。さっきの申し出は忘れて。光君、行きましょう」

「おいおい、いい加減に名字に君付けで呼ぶのはやめてくれないかな。そろそろ呼び捨てでもいい頃だろう、和泉かずみ


 相変わらず軽い男だがボクの気分は重かった。やはり噂は本当だったのか。前々から小耳に挟んでいた二人は付き合っているという噂。心の中では否定していたが目の前でこんな光景を展開されると、やはり付き合っているのだと認めないわけにはいかない。そして本を見るためにここへ誘ったのも、単に光源次郎との待ち合わせの場所だったからだ。最初からボクなんて眼中になかったのだ。


「古本市で手に入れた資料、しっかり読ませてもらうわよ、光君」


 まるでボクなどここに存在していないかのように和泉さんはスタスタと歩いていく。そしてこの去り際の言葉に衝撃を受けたボクは、取り返した本を胸に抱きしめたまま去っていく二人を眺めていた。


「そうか。古本市で待たせていたのは、あの男、光源次郎だったのか……」


 遅かった。何もかも遅かった。何もせず筵に寝転がっていた二年半の間に、和泉さんは他の男に取られてしまったのだ。もっと早く起き上がって転がった餅を取りに行くべきだった。後悔はいつでも後からやって来る。


「せっかく助言をもらって声を掛ける練習までしてくれたのに。これじゃ和扇さんにも小町さんにも合わせる顔がないな」


 二人には会いたくなかった。しかし六時間もすれば仏滅はやって来る。同じ持ち主が呼ばれる保証はないが、一回目二回目も二人は説話の中に登場した。きっと今夜もやって来る、そんな予感がする。


「三回目は主役に会わずに済むようなチョイ役がいいな」


 ボクは胸に抱いた本を木箱に収め、カバンの中に仕舞うと、重い足取りで厚生会館を後にした。

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