害虫戦線

星留悠紀

第1話 耳障音波交響音楽

 皆も一度は経験したことがあるだろう。

 視界に侵入する黒い点。

 皮膚に走る小さな痛み。

 痒みを伴う無視不可能な腫れ。

 禍々しく耳障りな羽音。

 そいつの名は……。


 蒸し暑い夏の夜のことだ。

 大学生一人暮らし始めての夏休み、俺はひたすらに怠けていた。それはもう人生に怠ける時間が定められてるとしたらそれを使い果たしてしまうのではないかというくらいには怠けていた。

 カタカタと音の鳴る扇風機から流れ出る風に当たりながら、宗教学の勉強をしていた。何故、夏休みになったのに勉強してるのか、というとそれは補講が入ってしまったからだ。

 全く迷惑極まりない。もし、俺が短気な奴だったのなら、学生課に乗り込んで文句を言い放ち、怒りを顕にしただろう。まぁ、学生課は今日は休みになっているですけどね。

 全開にしている窓には、網戸がかかっていて何処からか風鈴の音が網を透き通る。

 チリーン。

「ちりーん」

 チリリーン。

「ちりりーん」

 チリリン

「ちりりん……」

 風鈴との合唱を楽しむ。いや、これただの現実逃避だ……。端から見たらただの怪しい人である。幸運にも、同居人もいなければ同棲人もいない。最初から存在すらしてないけど。なにそれ虚しい。

 ともあれ、また意味不明なことをしてしまった。自分でも意味が分からないのでは救いようも無い。キリストもブッタにも見放されている。

 机にひれ伏す。別に神に頭を垂れて救いを求めた訳ではない。

 単に頭が重いのだ。頭を横に向けて、視線を立て掛けた参考書に合わせる。ターゲットロックオン。

 参考書はちょうど仏教について宣っていた。

 「無益な殺生はしない、ねぇ」

 そんなことが書いてあったので思わず口から漏れた。

 なるべくそうでありたいとは思う。俺は善人だからね。

 だが、歩けば蟻は踏んでしまうだろうし、道路に飛び出してくる動物を誤って轢いてしまうこともあるだろう。

 完全に守ることは難しい。

 そんなことを考えていた。考えながらも体が動いたのは、俺が天才だからかもしれない。

 耳障りな音を立てながら、目の前を黒い点が眼前を横切ったのだ。

 俺の手は反射的に伸びて、黒い点を掴みとる。握り拳を開くと、赤い血が滲んでいた。

 果たしてこれは無益な殺生と呼べるだろうか。答えは否、これは有益な殺生だ。分かっていることは、生類憐れみの令なんて物がない昨今ではこの殺生はむしろ推奨物だろう。

 今回、有益殺生の対象になったのは、もちろん蚊である。

 仕方無い、鬱陶しいのだから。

 それに今の行動で一体何人の人々が救われただろうか。きっと何千何万という人々が救われたに違いない。神に崇められる日もそう遠くないはずだ。

 いや、しかしながら痒い…。

 言うなれば、かゆ○まである。

 先程、噛まれた場所なのか右肘の痒みが疼く。ぼりぼりと爪先で掻き毟る。少し腫れて赤身が出ている。さっきまで神がかっていたはずなのに赤みがかっている。

 革命に犠牲は付き物だ。

 そう思ったその時だった。

 眼前に黒点が飛び込んだ。正確には顔面をめがけて飛び込んできた。

 まさに一瞬。瞬く間もなき一瞬。

 あまりの速さに驚き、後方へ仰け反る。椅子が軋みをあげて、車輪で椅子全体がほんの少し滑るのが分かった。

 その流れで、俺は椅子から体をねじ曲げながら飛び出して、床についた片手を支えに足を振り払いながら立て膝をついた体勢になった。その後、背後の台所と居間との引き戸を閉め、部屋を見渡す。

 これでこの部屋は密室である。

 ひとり暮しを想定した六畳程の部屋。床には参考書や文庫本、脱ぎ散らかされた服が散乱していて生活感が溢れており、もはや氾濫しているまである。

 決して片付けるのが面倒だからこうなっているのではない。断じて違う。生活感を出すためだ。それにどんな得があるかって?俺に聞くな、知らん。

 部屋の一つの壁沿いには大きめの作業机、本棚、テレビが並んでいる。

 いつもと変わらぬ風景。言うならば俺の都。住めば都、住んだら都、住んだから都。

 だが、今、都に侵入者がいるのは明らかだった。つまり、先程潰したヤツと違う、もう一匹いたのだ。

 いつから一匹だと勘違いしていた?

 そう心の中の誰かが問い掛けたような気がした。鬱陶しい。

 しかし、いつまでたっても目視出来なかった。

 だから、俺は一瞬張り積めた空気を弛めてしまったのだ。

 果たしてそれが間違いだった。

 奴が左の耳にけたたましい音をお届けしたのだ。反射的に俺は立ち上り、体の向く方角を回転させながら部屋の中央に移動した。

 だが、その動きは奴に見切られていたらしい。

「のわっ!?」

 奴は右側の首もとを霞め、俺の背後に回り込もうとする。

 このまま噛むつもりか!

「させるか」

 右後に振り向く。何もいない。

「何っ!?」

 まさか!?

 焦りながら左側を見る。頭が回転する。左回転だ。

 果たして、奴はそこにいた。右肩に停まると見せかけて左肩側に回り込まれたのだ。

 俺の左空中を、ふらふらと力強く翔んで嘲笑っている。

「先読みされただと!?」

 俺は認識を改めなければならないらしい。否、改めざるを得なければならなくなった。

 コイツ……出来る!

 俺は両手の掌を勢いよく合わせる。空気を震わす音を立て、指先が痺れた。お手てのシワとシワを合わせた形だが全く幸せでない結果である。

 そう下らない独り言をしながらも左手を打ち下ろす。

 が、しかし、これも空振った。

 ヤツは天井近くの電灯の近くを飛び回り、こちらを嘲笑っていた。

 駄目だ。これでは、らちがあかない。

 何か……何か強力な武器が必要だ。

 部屋を見渡し、閃いた俺は眼前の床に散らばっている新聞紙を棒状にして、剣にした。

 俺が作った剣。名を新聞刀ニースペーパーソードと言う。

 自分で言うのもなんだがけっこうかっこいい気がする。

 しかし、これでヤツも終わりだ。自慢じゃないが剣道には自信がある。

 剣道の型で構え、耳に神経を集中させて呼吸を整える。

 沈黙

 目を閉じて気配を察するよう努める。

 風鈴の音。換気扇が回る音。呼吸の音。

 十秒後、モスキート音楽を感じ、カッと目を開いた。

 それで俺は驚いた。

 ヤツが左手首に停まっていた。

 大事なことだからもう一度言う。

 左手に止まっていた。

 気付かなかった。

 瞬時、新聞刀から手を離し、渾身の力を込めて左手首を叩く。

 せっかく作った刀は無意味だった。

パチンと甲高い音が部屋に響いく。

「やったか!?」

 フラグでしかない俺の台詞を裏切らずに、奴は直線的に翔び壁にとまった。

 しめた。

 俺は壁に向かって走る。その間、1コンマ5秒。

「死ねえ!!」

と掌を振り落とそうとした時、俺はあることに気付き、ふと、手を止めた。

 ……何か違和感があった。一つの疑問を自分に問いかけた。

 このまま、潰し殺したとしたらどうなる?

 奴はさっきまで左手首にいた。つまり、血を吸っていたんじゃないか。

 だとしたら。このまま潰してしまったのなら純白の壁を血で汚してしまうのではないだろうか。

 それは避けたい。壁を汚したら大家さんに何と言われることか!

 まさか、コイツそれを見越して壁に!?

「なんて奴だ……」

勝てる気がしない。完敗だ。

 その場に項垂れて両手を床につけながら、遠くを見る。

その時、目にあるものが入った。

 瞬間、目を見開いてそのものの側に駆け寄った。

 そうだ、あるじゃないか。壁を汚さずに奴を殺る方法が。



 最強の武器を手に入れた俺は、ヤツのいる壁に向かう。

 そして、武器を構えて狙いを定めてトリガーを引くと、発射音を立てながら霧が奴を襲った。

 そう、最強の武器。それは殺虫剤だ。

 はっきり言って、存在を忘れていた。なんということだ。というかアホである。

 霧に触れた蚊は、力なく壁から剥がされ床に落ちた。

 ようやく長い闘いに終止符を打つことができたのだ。

 遠回りをしたが、強敵を倒せたのは喜ばしいことだ。

 有頂天になりながらら俺はベットに飛び込み安眠の味を噛み締めた。


 はずだった。



 その時の俺は知らなかったのだ。

 台所に黒光りする奴がいることも。

 残飯を漁る高速飛行物体がいることも。

 網戸に貼り付く悪臭発生装置のことも。

 就寝後にも、耳触りな音楽が続いていたことも。


 就寝後に行われた交響音楽の存在は、次の日の朝に嫌と言うほど思い知らされた。

 あぁ、痒い。


続く(かも)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

害虫戦線 星留悠紀 @fossil-snow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ