出力とは復元である

第一章で『反響』をそのまま創作活動の停止に反映させるのは誤りであることが分かりました。では『反響がない』も含めた反響に、創作者はどのように対処すべきでしょうか。


繰り返しになりますが、創作物とは脳への入力によって生成される排泄物です。それらは第二章で触れたように入力とコンディションがベストであればアートを生み出す可能性すら秘めています。


であれば出力結果に対する批判への正しい対応は『入力を見直す』しかありません。うんこは摂取する食物によって変容します。脳の排泄物である創作物もやはり脳の栄養である入力ソースに影響を受けるのは当然のことです。


多種多様な名作を鑑賞するのが最も効果的であることは間違いありません。『バランスの良い食事』は必ず出力の質を高めます。やがて感動は蓄積され、再び排泄欲求が起こるでしょう。


この食事療法の一番の問題は出力が難しいという点です。偏食傾向を『漫画→絵』と例えるならバランスの良い食事は『音楽→絵画』のような変則的な入出力であると考えられるからです。


頭の中でははっきりとしていたのに、いざ書いてみたら進まない。こうした経験をした方は少なくないと思います。実際のうんこと脳のうんこの、ほとんど唯一の違いが以下です。


・脳内のうんこは排泄欲求を訴えた時にはすでに完成している。


この仮説については少し説明が必要かもしれません。


私が不思議に思ったのは自分が何かを作った時に「なぜ完成するのか?」という点でした。もう少し正確に表現すると「自分は何をってこれを『完成』としたのか?」となります。


小説に限らず、世の中には非常に優れた創作物が数多く存在します。自分の創作物の到達点をそうした名作と定義した場合、完成には長い期間が必要です。いや、ひょっとすると生存中には完成しないかもしれません。


しかし、例えば何か物語を書き、推敲すいこうを重ねるうちに「もうこれ以上は直せない」という時がきます。他の何かとの比較しているわけでもなく、また文学史に残るはずのないこうした雑文にも必ずそうした『臨界点』が存在します。


しきい値を他との比較に求めないのであれば、それは内在しているとしか考えようがないのです。つまり出力する前、脳の中にある時のうんこの姿です。出力の不手際によって損傷を受けた脳内のうんこを修復するのが推敲というわけです。


・脳のうんこは排泄欲求が起きるときに完成している

・その脳の持ち主はその姿を知っている

・本来の(脳内での)姿に限りなく近づいた時に完成と判断している


創作が脳内で完成した創作物の修復であれば『完成形』を自分だけが認識しているのはむしろ自然なことです。高名な慶派の仏師様は「私はただ木の中にいらっしゃる仏様をお出ししているに過ぎない」と仰っています。


ですからもし批判に対応するのであれば、まず創作者は入力の質を高め、同時に出力の技量も高める必要があるということになります。そして私が知る限り、何であれ技法を上達させるにはただ修練する以外にありません。


最も効果的な修練とは模写です。しかし小説においては文字がその構成要素の全てですから、修練の結果発生するものは単なる完全コピーでしかありません。これでは再び公表しようと思った時に著作権の問題が発生するという事態を招きかねません。


『他からの反響』という重要な報酬を得られない前提の作業であれば、その工程自体に楽しみがなければ続かないでしょう。そこで次章からは工程そのものが楽しかった翻訳作業をいくつかご紹介したいと思います。

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