ミラ

淺羽一

〈掌編小説〉ミラ

 彼女は押入に住んでいた。幅1・8メートル、奥行き90センチ、要するに畳一枚分の床の上に許された高さおよそ1メートルの薄暗い空間が彼女にとっての世界だった。市の職員がようやく鍵もないのに錆びて開かない玄関の引き戸をこじ開けた時、黄ばんだ襖の向こう側で祖母が死んでいる事も知らずに、彼女は腐臭漂う世界の隅で膝を抱えて転がっていた。餓死寸前だったそうだ。

 初めて会った時、来年で十六歳になるはずの彼女の体はあまりに細く、それは幼いと言うよりもむしろ儚い、いや、脆いと言う感じがした。女らしさは皆無で、それ以前に人間らしささえ曖昧で、着古されたシャツの袖から伸びる腕を喩えるなら、それはいっそ子供が戯れにつまんでいそうな昆虫の四肢めいていた。だけどそのくせ、たどたどしく紡がれる声は耳を疑うほどにしゃがれていて、あたかも今なお死んだはずの祖母が彼女の言葉を全て支配しているようでもあった。そしてまた、彼女は目が見えなかった。

 懺悔になどなろうはずもないが、本心を告白すれば、私が定期的にそこを訪れた理由は、友人でもある職員から色々と施設の実状や彼らを取り巻く環境を聞かされて、とにかく微力ながらも己に出来る手助けをしたい……なんて殊勝な考えを抱いていたからでなく。実の所、単なる題材探しだった。要するに、差し入れも寄付も作業の手伝いもあらゆる一切が、ちまちまと筆を進めさせてくれる話の種に対する謝礼代わりだった。

〈読む者を捕らえて放さないリアリティ〉

〈まさしく日常のリアルを切り取る手腕〉

〈フィクションを超えるリアルな描写〉

〈これこそ真にリアルな才能〉

 ……等々。

 三十を越えた男性作家の本の帯に添えられる文句は決まってそんな内容だったが、何てことはない。詰まる所、想像力に乏しいだけなのだ。目の前にある事を、この目で見て、都合良く繋げて体裁の良い物語風に仕上げる。現代を舞台とした大衆小説にこだわっているわけじゃない。ただ単にファンタジックな夢物語なんて書きたくても書けやしないのだ。自らの底を晒すのは羞恥よりも苦々しさを感じるが、大抵の場合、ちょっとした偶然と些細な脚色さえあればありふれた日常はいとも容易く感動的な物語へと変化した。有名俳優と美人女優ばかり出てくる恋愛ドラマが良い例だ。登場人物の顔のクォリティを三分の一くらいにすれば、あっという間にテレビ画面はちょっと大きな鏡に変わる。かの有名なロミオとジュリエットだって、もしもロミオが至って地味な男であったなら、はたまたジュリエットがみすぼらしい女であったなら、きっと彼女は窓からわざわざ顔を出したりしなかったろうし、彼にしたって自らの名前を捨てたりしなかったろう。

 私にとって小説を書くと言う事は、ある意味で復讐だった。或いは、人生のやり直しか。埃を被っている安物のカバンが、ブランドのロゴを付けられるだけで途端に倍以上の値で売れてしまうように。ペンネーム一つでこの世に生まれた男の人生は、虚飾のおかげで見事に華やかなものになった。そして私は、その恩恵にあずかる為に普段からお手製の仮面を被っていた。

 彼女の名前はごくごくありふれたものだった。どれくらい平凡だったかと言えば、誰に聞いても「同じ名前の子が同級生にいたよ」なんて答が返ってきそうなほどだった。それは同時に、おそらくその名を持つ人間の大半はとても常識的で、おかげで時に葛藤や後悔があれど総じて言えば平和な生涯を送るんだろうと感じさせられるものだった。だからこそ、違和感があった。

 私は決して口に出さなかったものの、彼女を別の名で呼んでいた。それは、初対面の際に彼女が持っていた古い海外小説のヒロインの名前だった。彼女にとって小説とは読むものでなく感じるものだった。彼女の傍らにはいつも、文字の代わりに凹凸を刻まれた本があった。

「私には、空の青さは分からないけど、黒と、赤だけは知ってるの」

 ある晴れた日の昼下がり。施設の中庭にあるベンチに腰掛けて、彼女がぽつりと言った。花壇の水やりをしていた私がたまたまそこにいた彼女を見つけ、何の気なしに発した「こんにちは」へ対する応えだった。

 どんな言葉を返せば良いのか即座に浮かばず、私は思わずそれを探すように頭上を仰いだ。空は文句なしの快晴……とまではいかないものの、確かに青かった。やがて視線を下ろすと、まるでこちらの行動を見透かしていたかのように、彼女がじっとこちらを「見て」いた。白いワンピースからうっすらと透ける膝の上には、白杖と海外小説らしき一冊のハードカバーがあった。

「ねぇ」と、彼女が言った。私は、から逃げるように、そっと傍らへ回り込んだ。

「青色って、黒と赤を混ぜても出来ないのかしら」

 発せられた問いかけに、再び言葉を失った。彼女の顔はあっさりと私を追いかけ、こちらを向いた。それから傍目には可愛らしく小首を傾げ、「先生なら分かるでしょ?」

 無邪気そうな、と言うよりも、邪気を含めた一切の感情を感じさせない口調だった。

 自惚れるつもりはないが、彼女にとって私は他の職員達よりも少なからず特別な相手らしかった。事実、彼女が自ら話題を振ったり何かを尋ねようとするなんて、周りに言わせれば非常に稀な事なのだそうだ。それくらい、彼女にとって作家とは特別な存在だった。

 だが、悲しいかな、私は彼女が理想する作家とは異なり、そこにあるものを変化させて繋げる事は出来ても、無いものを新しく創造する力は持っていなかった。つまり、そもそも黒と赤を混ぜても暗い赤にしかならないよ、と正しくもつまらない答えしか生み出せないのだ。そして、彼女が知りたいのはそんな辞書に載っていそうな常識ではない気がした。

 ふと気付けば彼女の首の角度は垂直に戻っていた。しかし、諦めた風ではなかった。彼女は待っていた。まるで、足音も立てずに私がこの場から去った後も、いつまでもいつまでもずっとそうしていそうな雰囲気だった。

 早く答えなければ、と思った。ある意味で、考える時間はたっぷりとあったのかも知れないが、そんな彼女を見れば見るほど、砂時計の中心の穴を無理矢理に押し広げられている気分になった。

 と、その時だった。いっそ単なる筒みたいになった砂時計の下へ、ぼとりと落ちてくるものがあった。そして私は、半ば苦し紛れにそれを吐き出した。

「君の言う黒と赤って、どんな色なの?」

 それは彼女の望む答えどころか、むしろ正反対の性質のものであったが、同時にとても大事な質問だった。

 ややあってから返ってきた内容は、とても彼女らしかった。

「昔に本で読んだの。こうして、顔を両手で覆った時に感じるのが『黒』で。こうして、顔を持ち上げた時に感じるのが『赤』だって」

 そう言って彼女は閉じたままの瞼を太陽へと向けた。色素の薄い皮膚の下で、ほんのかすかに瞳が何かを探しているように動いていた。

 あぁ、と思った。彼女の言う黒とはつまり闇で、赤とはつまり皮膚越しに感じる血なのだと。それらはきっと、私たちが日常的に見ている黒や赤とは、きっと根本的に違うのだ。

 だとすれば、黒と赤で青を表現する事も、決して不可能で無いのかも知れない。

「先生。私、間違ってる?」

「いや」

 きっと、君の感じている色こそ本物なんだよ、そう思った。

「それで合ってるよ」

「良かった」

 彼女は小さく息を吐いた。

「さっきの質問だけど」

 いつしか、私の頭の中には一つの答えが浮かんでいた。

「夜に電気を消した部屋の中で感じる黒と、今ここでぎゅっと顔を押さえて感じられる黒は、一緒かい?」

 彼女は束の間、考える素振りを見せた後で、こくりと頷いた。

「なら、部屋の蛍光灯の下で感じる赤と、そこに座ってあの空に向かって感じる赤も、同じかい?」

 今度の沈黙は先ほどよりも僅かに長かった。

 私は急かすことなく待った。不思議だったのは、このまま一時間でも二時間でも待てそうなくらいゆったりとした気持ちでいられた事だ。空を見上げれば、相変わらず晴れていて、時折ふわりと吹いてくる風は、かすかに水の香りを孕んでいた。

 顎を持ち上げ喉を伸ばしてじっとしていると、徐々に全身の感覚が希薄になってきて、やがて思い切りジャンプすれば重力が反転して落ちていきそうな気さえしてきた。勿論、そんなものは錯覚だ。しかし、おかしな事にこの時だけは「もしかしたら」なんて期待を消し去りきれず。

 試しに跳んでみたのは、誰にも見られていないと分かっていたからか、それとも彼女の世界観に触発されたからか。ジャンプすると言うよりも大きく背伸びをするように浮かせた体が、ふわりと空気に包まれた瞬間、そうかと目から鱗が落ちる想いがした。

 しばしば「抜けるような」とか、「吸い込まれそうな」とか、空の青さを表現する為にそんな言葉が使われるが、それはつまり色自体の表現ではなく、それを前にした時に全身で感じるものを指しているのだと。即ち、同じ色であったとしてもそれを目にする状況によって全く別物になる可能性もあるのだ。当然、作家の端くれとして頭ではすでに分かっていたはずの事実なのに、情けない話だが、きちんと実感したのは初めてだった。

 彼女が言葉を紡いだのは、それから二度ほど風が空へと抜けていった後だった。

 果たして、彼女はおずおずと「違う、と思う」と言った。私は満足した。

「なら、その違いが、今この上に広がっている『青』なんだよ」

 きっと不親切な説明であったはずだ。塩の味そのものを尋ねられているのに、オレンジジュースにそれを溶かして味のおかしくなった液体を挙げて、ほらこの変化の分が塩の味だよなんて、間違っていなかったとしても決して正解にもなりはしない。実際問題、自分が質問者であれば到底納得なんてしないだろう。

 だが、どうしてか私には自信があった。……いや、それは言い訳で、ただ願望があった。

 私は所詮、そんな表現の仕方しか出来ない作家であったけれど、彼女ならばきっと、それでも確かに「青」を感じてくれるのではないかと。

 それはどうやら正しかった。

「……青色って、透き通るような色なのね」

 緩やかに頬を持ち上げて空を仰ぐ彼女の姿を見ながら、一体、彼女の瞳にはどんな世界が映っているのだろうかと思った。単なる漆黒か、はたまたそこには豊かな想像力によって描き出された美しい光景が広がっているのかも知れない。その中で用いられる黒は私たちが知っている黒でなく、そこに塗られる赤は絵の具で売られていそうな赤でなく、そこに広がる青は私の目では一生を費やしても見る事の出来ない青さで。或いは、それらを知る事が出来れば、自分も本当の意味で作家になれるのかも知れない。

 悔しさはなかった。悲しくもなかった。羨ましかった。もしも自分が彼女の瞳を手に入れられていたなら。と、同時に虚しかった。彼女の瞳が欲しければ己の目を潰せば良いだけだと分かっていた。だから何よりも、そんな勇気さえ無い自分自身の中途半端さに呆れた。

 一人静かに佇む彼女は、あたかもうたた寝をして幸せな夢を見ている子供のようだった。

 友人である職員から突然の訃報が届いたのは、それからおよそ三ヶ月が経とうかと言う頃だった。

 いよいよ久方ぶりの新作の小説を書き上げようとしていた私は、その電話が来た瞬間もまさしく執筆中で、そのせいもあってか最初にその内容を告げられた時、ほんの束の間であったものの現実と虚構の狭間で方向感覚を失った。

『彼女が亡くなったよ』

 押し殺している風な声で淡々と語る友人の声は、音としてだけでなくパソコンの文字のごとく脳内で再生された。

 不幸な生い立ちを持つ美しい少女が、しかし心優しい人々と出会って救われ、徐々に自らの生まれた意味と幸せを知っていく――。

 私の指はもうそのクライマックスの続きを一文字すら紡ぐ事が出来なくなっていた。気付けば家を飛び出していた。生まれて初めて、自分が何かの物語の主人公にでもなった気分だった。

 施設からほど近い病院に到着すると、現実的な全てはすでに片付けられていて、そこには見事なくらいに作り物じみた光景があった。

 友人は疲れ果てている様子だったものの、最後の力を振り絞って私を彼女の下へと案内してくれた。集中治療室の脇にある部屋は無機的で狭く、天井の蛍光灯はやけに青白く光っていた。

 首から上だけを覗かせて、彼女は静かに眠っていた。おそらく幾つもあっただろう細かい傷も全てが凍ったように血を止めていた。よくよく見るとかすかに歪な首さえ除けば、四階建ての屋上からアスファルトへ飛び降りたなんて信じられないほど綺麗な寝顔だった。

「精神的にも落ち着いていたし、まさかこんなことになるなんて」

 友人はそれからも背後で何かしら呟いていたが、最早、私の耳には届いていなかった。そして私は自分でも気付かぬままに、そっと彼女の顔へと触れていた。初めて触れた彼女の肌は冷めて乾いた肉まんのようだった。

 彼女の見た世界は、そんなにも救いようのないものだったのか。私は驚きの代わりに諦観めいた気持ちが広がっていくのを自覚していた。だとすれば、どんな作家であれば君の求める世界を生み出せたのだろうかと。どれほどの言葉を尽くせば君に満足のいく答えを示してやれたのかと。

「先生なら分かるでしょ?」

 鼓膜に残っている声を聞きながら、それは少なくとも自分でなかったのだと理解した。

 友人が背後から私の肩に手を置き、「そろそろ」と促してきた。どうやら知らぬ間に結構な時間が経っていたらしい。さらに言えば私は泣いていた。一体どのタイミングで泣き出したのか。涙が既に乾いていたからこそ、どうかせめて彼女の為に生まれた涙であったらと思った。

「もうそろそろ」

 友人が再び言った。入り口から他の人間の気配がしていた。そこで私は「あぁ」と頷きながら、最後にもう一度だけ、彼女の顔に手を伸ばした。それは果たして作家としてか、それとも彼女を知る一人の人間としてか。自分でも分からないままに、どうしても確かめたい事があった。そして私は眠った子を起こさぬ繊細さで、そっと指に力を込めた。

 常に閉ざされていた瞼の内にはめ込まれた瞳は、うっすら青みがかった白と大きな黒の対比が美しく、けれどそれ以上にその丁度真ん中で変色した虹彩が目を引いた。

 見事に灰色がかった不透明のそれを初めて見た時、私は何よりもまずかつて気晴らしに訪れた高原の夜を思い出した。それはあたかも、秋の終わりの午前二時、草同士のすれる音すら聞こえない空の下で目にした、満月に照らされた雲海のようだった。

「……ほら、やっぱりだ」

 小賢しい計算なんて及びもつかないその事実が嬉しくて、羨ましくて、虚しくて。間違いなく、もうほんの少し条件が異なってさえいれば十分に魅力的であったはずの瞳の持ち主の名を呼びながら、私は今度こそ自らの意思で泣いた。

〈了〉

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