まだ見ぬケンジ

山田貴文

第1話

 最近よく息子の夢を見る。名前をケンジと言う。 健司か憲二か、それとも別の字なのかはわからない。 なぜなら、ケンジはまだ生まれていないからだ。

 と言って、私が妊娠しているわけでもない。三十代前半だが未婚だし、もちろん出産経験もない。

 しかし、夢に出てくる男の子は間違いなく私の子なのだ。なぜか名前がケンジだということもわかっている。

 柔らかいブルーのベビー服に包まれたケンジは、じっと私を見つめている。 とても優しい目。その笑顔は、この世の幸せと喜びをすべて吸い込んでしまいそうだ。

 ケンジくん、ありがとう。私の子になってくれて、本当にありがとう。その思いがこみあげてきたところで、いつも起きてしまう。 私の目は温かい涙でうるうるしている。だが、起きて時間が経つと、喜びはだんだん失望に変わっていく。ケンジはまだ、この世にいないのだ。いつ生まれてくるのかどころか、本当に会えるかどうかすら、わからないのだから。

 また、日常生活が始まった。洗面、着替え、朝食。そして、鏡に向かう。そんな朝は泣いた跡を消すために、どうしても化粧が少し濃くなってしまう。

 その日も、ふだんと変わらぬ一日が始まるはずだった。


 仕事の合間に隣席の高田良子と雑談していた時のこと。良子は妊娠中で、もうじき産休に入る。一年後には職場に復帰すると言っているが、たぶん帰って来ないだろう。私は何人もそんな女性を見送ってきた。育児休暇が切れると同時にそのまま退職してしまう彼女たち。確かに保育園に払う費用を考えると、共働き自体が馬鹿らしいのは事実みたいだ。延長保育などを頼むと、給料が右から左に消えてしまう感じになるらしい。

 良子は私、中川喜代美と同じ営業だ。IT企業では女性の営業は珍しくない。良子と私は運も味方しているのだろうが、五十名の営業の中で、常にトップを争っていた。

 つまらぬ公共投資に金を使うぐらいならと、私はよく考える。国がもっともっと保育園を作ったらいいのに。これが不十分なために、良子のような仕事のできる女性たちが、どれほど会社を去って行ったことか。本当にもったいない。高校、大学を出て、会社で経験を積んで……。こんな人たちは一朝一夕で育てることなどできないのに。経験に裏打ちされた技術はお金では買えないのに。

 もっとも、子供を生んだ女性たちが帰って来ないのは、お金の問題だけではない気もする。彼女たちは、ただ可愛い子供と離れることが耐えられないのかもしれない。仕事など、どうでもよくなってしまうのかも。本物の子供こそまだいないが、夢でケンジと会う私は、そんなことを考える。

「明け方に蹴って起こすの。ママ、朝よって。目覚ましより早いんだから」

 良子がお腹をさすっている。何ともいとおしそうだ。つわりの頃は蒼い顔をして何度もトイレへ行って、本当につらそうだった。だけど、安定期に入った今は、幸せに満ちた顔をしている。

「律儀なところは絶対、高橋さん似じゃないよね。パパだよね」

 と言った瞬間、私は固まった。

 いつの間にか三歳ぐらいの男の子が良子の脇に立ち、彼女のお腹をのぞきこんでいる。坊やは手を出して良子のお腹を触ったが、彼女は全く気がつかない。そして、男の子は私を見てニッコリ笑った。あの笑顔。

「ママ」

 初めて声を聞いた。ケンジだった。夢の中では赤ん坊だが、成長した姿でここにいた。なぜだかわからないが、そうに違いないとの確信があった。

「ミワちゃんが笑ってるよ」

 良子の赤ちゃんは、女の子であることが既にわかっている。夫婦であれこれ考えている名前の候補に「美和」があることは聞いていた。その名前に決まるんだ。

 ケンジが、じっと私の顔を見た。

「ぼくはいつ生まれるの?」  

「……」

 声が出なかった。えっ?まだよ。そんなこと言われたって、あなたは私のお腹にいないし。まだ、来てもらえる予定も全然ないのに……。そもそも、あなたのパパは誰?さまざまな思いが、猛スピードで頭をかけめぐる。

「貴代美ちゃん!」

 心配そうな良子の顔。気がつくと、もうケンジはいなかった。

 だが、確かにいたのである。私は席を立ち、化粧室へ行くと、大きく深呼吸をした。

 ついに夢と現実の境界が崩壊したのか。私は狂っているのかもしれない。それにしても、さっきのケンジは、とても愛らしかった。あれが白昼夢でも、ずっと見ていたかったほどだ。でも、今度出てくる時は勤務時間じゃない時にお願い。

 席に戻ると、私はいろいろ尋ねてくる良子をごまかし、仕事に戻った。しばらくして、後ろから声をかけられる。

「中川さん、資料ありがとう。助かったよ」

 隣の課、営業二課の陣内宏から声をかけられる。先日、私が客先に提出した提案書を参考にしたいと言われたので、さっきメールで送ったところだった。

 陣内はコンマ数秒ほど、私の目をじっと見つめ、ニッコリと微笑む。いつものように、そこには何か暖かい感情があった。

 三十過ぎまで独身だったからといって、私だって全くもてないわけではない。こうして好意を寄せてくれる人は今もいるのだ。……と一応、プチ自慢をしておく。

「多少は参考になりましたか?」

 私は笑顔を返す。女友達から言わせるとヘナッとか、フニャッと表現したくなるそうだ。男が一番弱い顔だよ、それと言われた。

 ちょうど良子が席を立った後、陣内は小さな声で私にささやいた。

「今度、お礼させてください」

 彼は返事も聞かずに立ち去った。

 こういうシチュエーションは時々あった。もっとも自然に誘えるからだろう。だが、私は一人で誘いに応じたことはなかった。適当に受け流すか、同僚も誘って男女複数の飲み会にしてしまうのだ。

 私はため息をつくと、さっきケンジが立っていた場所をじっと見た。


 その晩も夢の中でケンジに会った。幼稚園の制服を着ている。

「ケンジくん、どうして会社に来たの?」

 私はケンジをつかまえようとするが、坊やはキャーキャーとはしゃぎながら、逃げ逃げまわった。

 やっとつかまえた時、ケンジは笑顔で言った。

「ママ、大好き!」

 ケンジを抱きしめた。もう放さないから!

 でも、そのままケンジがいるわけもなく、朝起きると、私はやはり一人だった。たまらない絶望感。思わず掛け布団を抱きしめる。そして、いつの間にか泣いていた。

 

 その日は休日だったので、私は外出した。ひと頃続いた休日出勤も最近はなく、助かっている。忙しい時はこの業界に男も女もない。女性の営業だって、徹夜する日もある。給料は男女一緒だけど、仕事量も全く同じだ。このへん、IT系の企業は非常にドライである。

 開館時間の直後に入ったため、美術館はまだ空いていた。心おきなく、私は大好きな印象派の絵を楽しんだ。高校まで美術部だったこともあり、休みには今も水彩画を描いたりもする。

 映画が趣味と言う友人は多いけど、絵が好きな人は少なかった。もっとも、私は映画だろうが、美術館だろうが、一人で行くことは全く苦にならない。他人のペースや趣味にとらわれず、心ゆくまで楽しめるからだ。

 私は一人でも生きていける、かねがね私はそう思っていた。いつも彼氏や友人がそばにいないと駄目なタイプでは、全くなかった。人といる時はいる時なりに、一人の時は一人なりに人生を楽しめる方なのだ。

 気に入った絵の前でしばらく立ち止まっては、ゆっくりと次へ進んだ。これぞ、まさに至福のひととき。今日の展示会は私が大好きな画家の個展であり、前から楽しみにしていたのだ。

 一枚の絵の前に、見慣れた後ろ姿があった。隣の課、営業二課の課長、村山貴文だ。陣内の上司である。村山はバツイチで、まだ再婚せず独り者だ。たしか子供はいないはず。

 村山は絵の世界に入り込んでいて、私に全く気がつかなかった。彼も一人で来ているらしい。見た目は若く、とても四十半ばには見えない。初めて見る私服姿は、いつものスーツと同じぐらい似合っていた。 

 村山が見ていた絵は私も大好きな一枚だった。男女数名がにぎやかに船遊びをしている風景。絵の人物たちは、心から人生を謳歌しているように見えた。そして、その絵をじっと見つめる村山の口元にも、ほのかに微笑みがあった。

 私が彼の方へ歩み寄り、声をかけようとした、その時。

「ママ」

 後ろから呼ぶ声。振り返ると、ケンジがいた。

 この時も、どうしてすぐにケンジとわかったのかは、後から考えてもよくわからなかった。なぜなら、そこにいた彼は大人だったからだ。セーターとジーンズ姿で、たぶん私と同年配。満面の笑顔を浮かべている結構ハンサムな青年になっていた。

 私は固まったまま動けなくなった。ケンジは小声で私にささやく。

「ママ、お楽しみ中のところごめんね。よかったら、ちょっとお話させてもらえないかな。ぼく、あんまり長いこといられないんだ」

 呆然とケンジの後に従い、中庭に出た。雲一つない快晴。春の芝生は青々としている。二人で木製のベンチに座った。人が見たら恋人同士だと思うだろうか?残念、実の親子なのよ。年は近いけど。

 私は何も言えないまま、ケンジをじっと見た。優しい目をした、とてもかんじのいい男性。たぶん、これまでの人生は、とても幸せだったのだろう。お母さんは、未来の私はこの子をちゃんと育てたんだ、きっと。

「ごめんね。びっくりしたでしょう。このまえは幼稚園だったもんね。次はランドセル背負って来ると思ってた?」

 幼稚園とか、小学校とかいう問題ではなく、まだ生んでいない息子とベンチに座っていることがありえないのだが、まだ私は何も言えなかった。

「ぼくは今、ママと同い年だよ。大人のぼくから見て、ママがこんなにきれいで嬉しいよ」

「……」

 あとで考えると、この言葉には大きな意味があった。だけど、その時は何とも思わなかった。

「いろいろあって、ママの人生にしばらくの間、時々お邪魔することになりました。お騒がせして申し訳ない」

 ペコリと頭を下げるケンジ。

「あなた、タイムマシンでも発明したの?」

 私は何とか言葉を絞り出したが、ケンジは笑い出した。

「まさか。ママの子だよ。理数系が駄目なのは親と同じだって」

「じゃあ、どうやって?」

 ケンジはちょっと考えた。

 私の息子、同い年だけど、私が生んだ息子……。わけがわからなかったが、私はこの状態を嘘だと否定する気になれなかった。目の前にいる彼は間違いなくケンジ、まだ生まれていない自分の息子だと実感できたのだ。

「詳しいことは言っちゃいけないんだ。あと、ママの未来についても、ぼくは教えることができない」

 当然ながら、私はなたの父親は誰?と質問をしようとしていたので、思いっきり出鼻をくじかれた。

「あたしは結婚どころか、彼氏もいないのに……本当に子供ができるの?」

「ここにいるじゃん」

「えーっ、そんなの生殺しじゃない。何か教えてよ!」

 自分の子供相手にだだをこねるのも変だったが、仕方なかった。

「じゃあ、言える範囲で。ぼくが生まれた世界では、ママがとってもいい男性を選んだよ」

 ちょっと、引っかかる言い方だった。

「ぼくが生まれた世界ではって、そうじゃない世界もあるってこと?あたしが変な男と結婚して、思いっきり不幸になっている……」

 ケンジは喜代美の目を見ながらうなずいた。

「もっと悪いのも」

 それ以上は聞かなくてもわかった。ケンジが生まれていない世界のことを言っているのだろう。私が結婚しない世界。いや、しても子供が生まれないないことだって、あり得るし。私は結構SFを読んでいたので、多元宇宙の話を知っていた。あらゆる可能性の数だけ、平行した宇宙が存在するという理論のこと。

 頭が痛くなってきた。じゃあ、ここにケンジがいるからといって、私が結婚できて、子供を生める保証などないということか。

「わかった!あたしを助けに来てくれたのね?」

 ドラえもんとセワシくんみたいにと言おうとして、飲み込んだ。そのたとえが通じないかもと思ったのだ。

「そうなるといいな」

「……」

「ぼくがああしろ、こうしろと具体的に教えることはできないんで、最後はママ次第なんだ。それと……」

「それと?」

「ママもぼくにいろいろ教えて欲しいんだ」

「何を?」

「人生について、ママが知っているすべてをさ。ぼくはこれから、いろんな年齢の姿でママに会いに来ます。ぼくだって、ぼく自身の人生で悩んだり、迷ったりしてるんだよ」

 当たり前の話だったが、神出鬼没のケンジがそうなのは、ちょっと不思議に感じた。すべてを知り尽くしているわけではないのか。

 ケンジは名残り惜しそうに立ち上がった。

「ごめん。そろそろ時間なんだ。またすぐお会いしましょう」

 私は引き止めようと手を伸ばしたが、届かなかった。

 ケンジは数歩歩き出すと、くるりと私の方に向き直った。

「ママ、またね」

 爽やかな笑顔を残して去って行った。追いかけようとしたが、すぐに姿を見失ってしまった。

 

 ある日の夜。私は陣内と二人で食事をしていた。お礼の誘いにのったのだ。以前、テレビで見たこともある、ちょっとこじゃれたイタリア料理店。

 男性と二人で食事するのは、久しぶりだった。早くケンジを産まなければと焦ったわけではなかったが、ちょっとだけ何か行動を起こしてみたくなったのだ。

 飲んで、食べて、それなりに笑いもあったし、会話はとぎれなかった。しかし、その晩の話題は、すべて会社や仕事のことばかりだった。私は趣味の話も陣内にふってみたが、そちらは全く広がらない。彼はゴルフをやるようだったが、残念ながら、私はそちらには全く関心がなかった。

 陣内は二軒目に行こうと誘ってくれたが、断って帰宅した。


 帰宅後、シャワーを浴びて浴室から出てくると、ダイニングのテーブルにケンジがいた。

「また、小さくなっちゃったの?」

 小学校の中学年ぐらいに見えるケンジは、算数の宿題に夢中だった。

「ねえ、ママ」

 ケンジは顔を上げた。

「ぼくがやっているこの問題って、大人になってから役に立つの?」 

 ちょっとおかしかった。自分も小学校の頃、そう思っていたからだ。大人のケンジも言ってた通り、この頃から数学が苦手らしい。

「どれどれ、見せて」

 ケンジの教科書を手にとった。小学四年生の算数。内容は角度、少数、分数、面積……。よかった。このぐらいならついて行ける。

「これはねえ、全部役に立っているよ。たとえば、ケンジくんが、おうちを買う時。どのぐらいの広さがあるか、面積を測らないとね。間違って小さなおうちを買っちゃったら、損でしょ?」

 わかったような、わからないような解説だったが、ケンジはにっこりと微笑んだ。そして、再び宿題に挑む。私はケンジの練習問題をチェックして、間違えていたところは丁寧に解説してやった。

 宿題が全部終わると、ご褒美だと冷蔵庫からプリンを出してやった。歓声を上げて、むしゃぶりつくように食べるケンジ。子供が無心で食べる姿、それは何と幸せな光景だろう。私はつかの間の母親気分を満喫した。

 食べ終わったケンジは荷物を手に元気よく挨拶した。

「ママ、ありがとう。そろそろ帰らなきゃ」

「もう帰っちゃうの?まだいいじゃない」

「また来るよ。バイバイ」

 止める間もなく、ケンジはドアを開けて隣の部屋に行ったかと思うと、もう消えていた。テーブルの上には、私とケンジが食べたプリンの空き容器だけが残っていた。

 

 翌日、陣内から、またメールで食事の誘いが来た。私は、はっきり返事をせずにごまかした。彼は社内の女性間でも人気があり、私も決して嫌いではなかったが、二つ返事でまた行きます!と答える気にはならなかったのだ。かと言って、きっぱり断るのも早い。いずれにせよ、少し時間をおいた方がよいと感じていた。

 美術館で会った村山は、最近何となくよそよそしい。隣の課だが、以前はあれこれと話しかけてきたし、アイコンタクトもよくあったのに。私はじっと村山を見つめてみた。彼と目が合ったが、すぐにそらされた。 

 

 帰宅して、部屋着に着替えて振り返るとケンジがいた。私は吹き出した。

「今度は高校生?」

 やや長髪でニキビの跡がある好青年。我が息子ながら、やっぱりハンサムだ、とまた思った。テーブルで勉強しているのは算数じゃなくて数学だった。のぞきこむと、微分・積分みたいだった。私も大の苦手だった、あれ。

 ケンジは、うんざりした顔で私を見上げた。

「ママ、これって社会に出てから、役に立ってる?」

 小学生の時と同じ質問だ。

「たってない」

 私は即答した。

「やっぱり」

 ペンを投げ出すと、頭の後ろで手を組むケンジ。

「意味がないよね。なんでこんなことやらすんだろ?」

 私はケンジの前に座った。

「私も高校生の時、そう思ってた。それにもし、意味があるとしたら……」

 ケンジは、私の顔をじっと見た。

「人生には、無意味なことをやらなきゃいけない時もあるってことね」

「えーっ。嫌だな、そんなの」

「世の中、自分の思い通りばかりにはならないのよ。特に仕事するようになってごらんなさい。なんで、こんなことやるのって思うことの連続だから」

「ふーん」

「あれやって、これやってって、いろんなことを頼まれる。でもね、仕事って、頼まれたことをきっちりやることなのよ」

 ケンジは納得できない顔をしていた。

「仕事はお金をもらうからそうかもしれないけど、これはどうなんだろ?」

 と、参考書を持ち上げる。

「それも広い意味で、ケンジの仕事よ。社会人になってお金をもらうために、学校でここまで勉強しておいてくださいっていう、社会のルール」

「……」

「あなたがいくら嫌だって言ったって、その試験で合格しないと、学校を卒業させてくれないでしょ?」

「うん」

「じゃあ、やらなきゃ」

「理不尽だなあ」

「そう思ったら、あなたが社会に出て、ルールを作る立場にまわればいいのよ。でも、そのためには……」

「これをちゃんとやっとかないとね」

 ケンジは訳知り顔でニヤリとした。

「やり過ぎないでね。必要最低限でいいの。どうせ、学校を出たら忘れちゃうから」

 二人で声を上げて笑った。息子というよりは、弟と話している気分だった。

 夕飯のためにスパゲッティを作った。二人分の食事を作るのは、何とやりがいのあることだろう。味つけにも気合いが入る。

「おいしい!」

 ひと口食べて、ケンジは満面の笑顔になった。

「よかった」

 まだ、食べれるでしょうと、冷蔵庫にあった残り物を全部出してやる。よっぽどビールで乾杯してやろうかと思ったが、高校生に酒を飲ませてはまずいので、グッと我慢した。

 食事をしながらケンジの高校生活について、いろいろ質問してみた。当たり障りのないことには答えるが、肝心の点は、すべてはぐらかされた。高校名とか、住んでいるところとか。まあ、男が口が堅いのは悪いことじゃない。

 ケンジは、テーブルに出したものをすべてペロリとたいらげた。私は嬉しくなって、食後のコーヒーを入れた。

「ねえ、ママ」

 ケンジは、心なしか、ちょっとモジモジしている。

「ん?」

「ママに女性として、アドバイスをいただけたらと」

「何?何?」

 思わず笑顔になる。ケンジが照れながら話したところでは、学校に好きな子がいるらしい。その子と距離を縮めるには、どうすればいいかというのだ。

 私はケンジの顔をじっと見る。このぐらいの年の男の子は、母親にこんな相談をするものなのだろうか?よっぽどのマザコンじゃない限り、たぶんしないだろう。異性へのアプローチなんて、典型的な親離れの行動だし。

 ケンジの今の年齢であれば、私は五十歳を超えているはずだ。だが、ここにいる私は、その歳より二十は若い。ケンジにしてみれば、母親というよりは、親戚のおねえさんみたいに感じるのかもしれない。

「そうね、まず……」

 ちょっと赤くなったケンジが私を見る。可愛いなと思った。

「たくさん、話しかけて、親切にする。そして、じっと見つめるの」

「……」

「女ってね、男の人が自分に興味があるかどうかって、すぐにわかるのよ」

 息子に何を教えているんだ、私は。

「で、しばらくしたら……」

「……」

「少しの間、知らん顔をしなさい」

 ケンジは意外そうな表情を浮かべた。

「女は、無視されることが一番嫌いなの。ずっとアプローチしてきた男の人が急に距離を置いたら、すごく気になるから」

 私は話しながら、村山のことを思い出していた。

「そこがねらい目よ。そこでまた優しくすると、相手はグッとくるわけよ」

 ケンジはメモでも取りかねない顔で、私の話を聞いていた。

「あと、大事なのは、本当に好きだったら、ちゃんとデートに誘って、そこでちゃんと言うことね」

「付きあってくださいって?」

「そうよ。電話やメールじゃ駄目。面と向かって、言葉で言うの。男なんだから、当たって砕けろよ。断られたらどうしよう?なんて、ウジウジしていたら、もてないから。はっきり言いなさい」

 ケンジの目はキラキラと輝いていた。

 まるで、恋愛の達人になったような気分だった。三十過ぎて彼氏もいない女の台詞とは、到底思えない。

「よし、ママ、頑張ってくるよ」

 彼は笑顔で立ち上がった。

「結果を教えてね。応援してるから」

 ケンジは私に片手を挙げて挨拶すると、ドアを開けて別の世界へと帰って行った。

 たぶん、最終的にはケンジの恋は実らないのだろうな、と思った。可哀想だけど。一時的には彼女とつき合うことになるのかもしれない。だけど、その先、結婚まで到る可能性は一パーセントもないだろう。だって世の中、初恋の相手と結婚できる人はほとんどいないのだから。

 でも、どうなんだろう?学生の時に初めて恋をして、相手に告白してOKをもらって、そのまま別れることもなく、時がたって結婚。人生で一度だけの恋が成就。それは理想的な人生と言えるのだろうか?何の起伏もないことは幸せなのだろうか?

 私にはそうは思えなかった。人生を十分に生き尽くした老人なら、波乱のない人生がいかにありがたいかわかるのだろう。そう、何も起きなかった幸せ。だけど、それは振り返って過去を見る視点である。その境地へ達していない、現在を生きる私たちは、とてもどん欲だ。時にはさらなる刺激を求めて、今ある幸せを捨ててしまうことだってある。この先には、もっといいことがあるはずだって。それは自分だけとは限らない。恋愛相手だって同じ。今の彼氏や彼女に退屈したり、他の異性に目移りしたりすることは、常にあり得ることなのだから。

 この世の大多数の人々は、みんな失恋とか別離といった古傷をどこかに抱えて生きているはず。だけど、つらいことや失敗があったからこそ、出合うちょっとした幸せをありがたいと思えるのではないか。

 ケンジ、たくましく生きるのよ。


 数日後のこと。私は泣いていた。映画を見ながらである。隣の席には陣内がいたが、私はすっかりその存在を忘れていた。

 何回目かのお誘いを断り切れず、それならばと、見たい映画があったので、終業後に陣内と一緒に見に来たのだ。その作品はアメリカ映画だが、ハリウッド大作ではない小品だった。シネコンにはかからない、単館での上映である。

 先日じっくり話したところでは、陣内は本も読まなければ映画も見ない、文化的なものとは無縁のタイプだった。その彼が、私の好む映画を見たら、どんな感想を述べるのか?と、ちょっと興味があった。会社や仕事の話はし尽くしたので、食事の時の会話のネタになるかもと思ったのだ。誘ってみると、意外にも彼はあっさり承諾した。

 映画館へ着くと、すぐに彼はポップコーンとジュースを買ってくれた。彼にとって、映画館とはそういうところらしい。私はふだん、映画を見ながら飲食しないのだが、せっかくなので、ありがたくいただいた。

 上映開始。作品はまさに私のツボであり、終わりの方は涙が止まらなかった。基本的にはコメディが好きなのだが、たまにはこういうシリアスなのもいい。

 エンドロールが終わり、場内が明るくなる。作品世界に没頭していた私は、自分に連れがいたことを思い出した。あわてて、隣を見る。

 寝ていた。陣内は爆睡していた。私は呆然と、彼の顔を見た。

 ふだん映画を見ない彼が、もし私と同じように感動してくれたら、もっと気持ちが近づくかも……という期待も、どこかにあった。もちろん、自分の趣味を押しつけるつもりはない。誰にだって好き嫌い、合う合わないはある。だけど、私が誘った映画で寝ることはないじゃない。映画と、心から感動していた自分を侮辱されたようだった。

 もはや、彼とは一分だって一緒にいたくはなかった。私は彼に声をかけずに帰り支度を始めた。気配に気がついた陣内は目を覚ます。私の表情を見て、ギョッとした顔をした。

「ごめん、ちょっと寝ちゃった」

「……」

「最後、どうなったの?」

「別に」

 興味があるなら、寝ないでよ。

 私は陣内を残して席を立った。彼はあわてて追いかけてくる。

「ねえ、ご飯どこへ食べに行く?」

 行くわけないじゃない。私は映画を一人で見たんだから、あなたもご飯は一人で食べて。

 あれこれ話しかけてくる陣内に構わず、私は無言ですたすたと出口へ向かった。そこで、村山と鉢合わせした。この映画を一人で見に来ていたのだ。

 目が赤かった。彼も映画を見て泣いたのだ。

「あっ、課長……」

 さすがに上司とばったり会った陣内はバツが悪そうな顔をした。でも、それは村山も同じ。彼は一瞬、私の目を見るとすぐにそらし、陣内を見た。

「こんなところで会うとは……」

 陣内は口だけで笑ってみせた。馬鹿。誤解されるじゃない。

「じゃあ、邪魔しちゃ悪いから」

 村山は立ち去ろうとしたが、私は彼の腕をつかんだ。

「ご飯まだですよね?一緒に行きましょうよ」

 陣内はえーっという顔をしている。ざまあみろだ。

「だって、デートでしょ?」

「デートじゃありません!映画を見に来ただけです」

 映画を見に来るのがデートじゃないかと、内なる声がツッコミを入れたが、どうでもよかった。ここで村山を放したら、取り返しのつかないことになる気がしたのだ。 

「そうですよ、課長、行きましょう」

 陣内が社交辞令まる出しの口調で言った。このサラリーマンめ。 


 結局、私が強引に拉致する形で村山も居酒屋に連れて行った。三人の不思議な飲み会。最初、男二人は見るからに居心地が悪そうで、何だかおかしかった。

 三人で乾杯すると、村山と私はすぐ映画の話で盛り上がった。途中から寝ていた陣内は、当然ながらついてこれない。二人しか見ていない映画の話に集中するのばマナーとしてどうかと思うが、三人とも同じ映画館にいたのだ。寝ていた方が完璧に悪い。

 陣内が映画館で寝ていたことについては、村山と私から、さんざんからわかれることになった。

「女性と映画に来て、普通は寝ないだろう」

 上司からそう言われては、彼も立つ瀬がない。村山も映画に感動していたので、寝てしまった陣内には軽くイラッとくるものがあったようだ。

 村山はかなり映画を見ていることがわかった。好きな作品として挙げたうちの何本かは、私のそれとかぶっていた。話していて実に楽しい。アルコールのせいもあり、私は気分が高揚してきた。

「何だか、俺より課長の方が、中川さんと合うみたいだな」

 陣内が自嘲気味につぶやいた。そんなことないと助け船を出して欲しかったのだろうが、私は放っておいた。

「そうみたい。ねっ、村山さん!」

 村山に笑顔を向ける。彼は私の目を見て微笑を浮かべたが、すぐに視線をはずした。陣内は、すっかりいじけている。この場では、酒だけが彼の友達だ。

 陣内がトイレに立った時、私は村山に尋ねてみた。

「村山さん、先日、国立美術館にいらっしゃいましたよね?」

「中川さんもいたよね」

 村山は、私がいたことを知っていたのだ。

「邪魔しちゃ悪いと思って、話しかけなかったけど」

 そんなに怖い顔で絵を見ていたかしら。確かに私は、好きな物の前では、まわりが見えなくなってしまうところがあるのだけれど。

 村山が何か言おうとした時、顔を赤くした陣内が帰ってきた。さっきから一人で黙々と飲んでいたからだ。彼は私たちに頭を下げた。

「さっ、今夜は飲みましょう。すみません、教養のない男で。すみません、教養のない部下で。」

 陣内は、もはや、ただの酔っぱらいになっていた。


 翌日の午前中。夕方の顧客訪問に備え、私はオフィスで提案書作りに没頭していた。本日は部長が同行するため、それなりに気合いを入れる必要があったし、いろいろ考えることもあった。提案内容自体はシンプルだったが、相手が、とてもややこしい顧客なのだ。

 その日は朝から同僚たちは皆外出していて、まわりに誰もいなかった。

「ちょっと、お願いがあるんだけど」

 隣を見ると、横にケンジが座っていた。うわっ、また会社に来た。

「社会人……」

 紺色のスーツに赤いネクタイ姿のケンジは、見るからに新入社員という感じだった。うちの新人より、ういういしい。

「ママ、ぼくが作った資料をチェックしてもらえないかな。今日、はじめてお客さんのところへ行くんだ」

 ケンジはサラリーマンになって、私と同じ営業になるんだ。

「えーっ、会社に先輩とか、上司とかいないの?」

 と言いながらも、悪い気はしなかった。

「いるんだけどさ。伝説の営業ウーマンと呼ばれたママに見て欲しかったんだよ」

 口が減らないのは母親譲りか?私は、オフィスでこちらを見ている人がいるかと見渡してみたが、誰もいなかった。相変わらずケンジは私以外には見えないのだろうか?それを確かめるすべはない。誰かを呼び止めて、こう訊くわけにもいかないだろう。

「すみません、隣にいる、この子が見えますか?まだ産んでない私の息子なんですけど」

 水子じゃあるまいし。

「どれどれ、見せて……ふーん」

 その提案書にはケンジの会社名がなかった。普通なら記載があるだろう場所が、不自然に空白になっている。内容は新発売となる機能性食品の紹介。彼はメーカーか、商社のどちらかに勤めているらしい。

「初めてにしてはセンスがいいじゃない」

 ケンジは嬉しそうな顔をした。

「でも、ちょっと詰め込みすぎね。もっとシンプルにしなきゃ」

 息子なので、意図していることはわかった。サービス精神が旺盛で、あれもこれもと情報を満載し過ぎてしまうのだ。

 私は資料を添削してやり、いくつか基本的な注意を与えた。この種のプレゼンテーション資料を作る際には、どんな業界でも共通して言えることだ。字は小さくし過ぎるな、真っ赤な字は、できるだけ使ってはいけない、矢印の図形を使う場合は、一ページ内ではできるだけ同一方向に……。

 ケンジはふんふんとメモを取り、私の話が終わると、にっこりと笑った。

「先輩、よくわかりました。ありがとうございます!」

「先輩じゃなくて、ママでしょ」

「いや、ここでは人生と社会人の先輩だよ」

 彼は立ち上がる。

「もう行くの?」

「がんばってくるよ。忙しいところ、邪魔してごめんね」

 ケンジは笑顔で片手を挙げる。

「じゃあ、また」

 去って行こうとした。

「ケンジくん」

 私は彼を呼び止めた。振り向くケンジ。

「このまえのあれは、どうなったの?」

「あれって?」

 けげんな顔をするケンジ。

「高校二年の時の、彼女」

 と、言って、はたと気がついた。私にとっては数日前のできごとだが、彼に取っては五~六年前の話なのだ。

「ああ、あれね。そうだ」

 ケンジは複雑な表情を浮かべた。

「ママが想像した通りだよ」

 私が口を開こうとした時、後ろから声がした。

「中川さん」

 振り返ると、陣内だった。神妙な表情を浮かべている。ハッと、もとの方向を見ると、ケンジはもういなかった。

「昨日はおつかれさまでした。最後の方は記憶がないんだけど、何か失礼なことを言わなかった?」

 思わず、ぷっと吹き出してしまった。確かに陣内は飲み会の最後はベロンベロンであり、村上にタクシーに乗せられて家へ帰ったのだ。同じ町に住む村山と私は、一緒に終電で帰った。

「大丈夫よ。楽しかったです」

 酔った姿は、その人の本当の姿だ。私は酔った席だから……という言い訳を認めない。その意味では、陣内は善良だった。全く裏がない。つまらなければ、女性と見に来た映画の途中でも寝てしまうぐらいなのだから。彼のことをちょっとだけ可愛く思えてきた。

 陣内は、迷惑をかけたから、また映画か食事に行こうと誘ってきた。適当に生返事をして仕事に戻る。昨日、結果的に楽しい夜となったのは村山のおかげだった。彼と会わなかったら、私はムッとしたまま自宅で一人飯を食べていただろう。

 その村山がオフィスに戻ってきた。陣内があわてて駆け寄り、昨日彼に借りたタクシー代を返していた。村山は私を見て、軽く微笑んだ。


 午後になって、作成した提案書を前に私は考え込んでいた。内容には、特に問題がない。誰が作っても、こうなるだろう。提案する我が社の製品を導入した方がコストが下がり、機能もアップする。普通であれば、何の問題もなく売れるケースだ。

 普通であればというのは、夕方訪問する顧客が普通じゃないのだ。初老の担当者は仕事が嫌いみたいで、使用中の他社製品から我が社のそれへ切り替えることを面倒くさがっていた。コストが下がろうが、社員の生産性が向上しようが、関係ないといった感じなのである。営業をやっていて、こういう相手が一番困る。理屈が通用しないのだから。

 まとまれば、かなり大きな商談になるし、はたから見ても、この顧客には、この製品がぴったりだ。なかなか売れないので、ついに部長に目をつけられ、自分が行くと言い出した。顧客には部長が先方の上司へ挨拶ということで、アポイントを取っている。

 気が重かった。何度も担当者に提案している件で、また訪問するのだ。担当者も予期して、待ちかまえているだろう。

「何か、お困りですか?」

 いつの間にか、隣にケンジが座っていた。

「うわっ」

 驚いた。先ほどの姿から、二十年は歳をとっているだろう。四十半ばか。品のいいグレーのスーツを着こなしている。

「今度は、ぼくが何かアドバイスできるかな?」

 品のいい笑顔で、たぶん、管理職なのだろう。頼りになりそうな雰囲気があった。

「ついさっき、教えてあげてたのに……今、いくつ?」

 ケンジの答えは、私の思った通りだった。ちょうど村山と同い年。同じ一日だが、私にとって二時間、ケンジには二十年の時間が経過していた。

 私は手短に仕事の状況を説明した。もし他人にこの様子が見えたら、普通に上司と部下の会話だと思うだろう。本当は母親と息子だけど。

「要は、その担当者が全くやる気がないわけだね」

「そうなのよ。うちの製品を採用しないのは、会社に対する背信行為みたいなものなのに」

「なるほど……。先方の上司は、この話をまだ知らないと」

「そう」

 中年のケンジは、ちょっと考え込んだ。

「その提案書は、まずいんじゃないかな」

「えっ?」

「訪問の目的は、ご挨拶ということになっているんでしょ?」

「そうだけど」

「じゃあ、ちゃんとした提案書をいきなり先方の上司に見せたら、頭越しの提案になっちゃわない?」

 痛いところをつかれた。その通りなのだ。コストが大幅に下がるので、顧客の上司は喜ぶだろうが、担当者はへそを曲げるのは間違いない。今日の訪問では盛り上がっても、その後うまくいくとは思えないのである。だが、うちの部長は大張り切りだ。世間話だけして、この件に触れないわけにもいかない。

「これだったら、コストが安くなるって、紙一枚で表現できるよね?」

「はい。その通りです」

 つい、息子に敬語を使ってしまった。だって、貫禄があるんだもん。

「じゃあ、偶然持っていたメモ書きみたいにして、数字のメリットだけを一枚にまとめとこうよ」

「はあ」

「あと、製品説明は、この会社に向けた提案書じゃなくって、一般的な説明資料があるよね?」

「あります」

「それは、担当者にも見せている?」

「はい」

「よし、バッチリだ」

 ケンジは笑顔を見せた。いい歳の取り方だ。部下に女子社員がいたら、相当人気があるだろう。

「ママ、こうしようよ。部長が、この製品の話を始めたら、まず、その一枚物のメモを取り出す。それだけでも、あちらの上司にはインパクトがあるよね?」

 ケンジの意図するところが、だんだん読めてきた。

「十分あります」

「その人が話にのってきたら、製品の説明は担当者にも見せたことのある、普通の説明資料でやる。以前、簡単にご説明しておりますが、と言ってね」

 なるほど。それなら流れが自然だ。担当者が駄目なので、上司に直訴!という形にならず、彼の顔もつぶれない。

「それでも、担当者がつむじを曲げる可能性はゼロじゃないけど……」

 ケンジは私の顔を見た。

「ここまでやって駄目なら、仕方ないと思うよ」

 同感だった。失うものは何もない。ケンジの策でやってみることにした。

「ありがとう。助かった!」

 午前中に後輩で、午後は先輩になった我が息子を頼もしく思った。

「では、ママのご健闘を祈ります。また!」

 ケンジは笑顔を残し、目の前で消えた。

 私はさっそく資料変更に取りかかった。


 顧客訪問はケンジのアドバイスに従って、大成功だった。うちの部長が製品の話を始めると、顧客の上司はすぐに興味を示した。そこで私が取り出したメモを見ると、彼の目が輝く。誰が見ても、コストを削減できることは明らかだ。

 その時点では、まだ顧客担当者は複雑な顔をしていた。自分が却下した話で場が盛り上がっているのだから、当然だろう。

 製品説明にはケンジの言う通り、顧客名など、どこにも入っていない普通の説明資料を出した。顧客の上司は担当者に、この話を聞いているのか?と尋ねる。彼はうなずかざるを得ない。こちらは担当者に駄目だと言われたなどと、余計なことを口にしないから、彼の立場もなくならない。いつの間にか、その担当者も場の空気を読み、実は自分もこれがいいと思っていたと発言しだした。そうですよねと、部長と私で、それをあおる。

 トントン拍子に話は進んだ。次回、正式な見積りを提出することになった。顧客の上司も同席すると言っているので、もう話はうやむやにできない。いや、それどころか、担当者は上司以上に前向きな態度さえ取り始めていた。

 これはプロの技だ、と私は思った。ちょっと気のきく若手の営業ではまねできない、ベテランのやり方だ。だてに我が息子ケンジは歳を取ってないなと思うと、嬉しいような、おかしいような気がした。だって、まだ生んでいないんだし。


 家に帰ると、下の郵便受けに実家から郵便が届いていた。いつもの大きな封筒だ。私はため息をつくと、それを持ってマンション二階の自室へ持ち帰った。

 部屋に入り、着替えてソファに座る。母が送ってきた茶封筒をしげしげと眺めた。これで何通目だろう?封を切って、中身を取り出す。七三分けで、くそ真面目な顔をした中年男性の写真と経歴書が出てきた。見合い写真。お世辞にもハンサムとは言いがたい。経歴書を読んで、私は若干ショックを受けた。

 四十代半ばは仕方ないとしても、バツイチで子供が二人いる。勤め先も……。今までもらった見合い写真で、一番条件が悪かった。

 若くこそないが、会社ではそれなりにモテている自信があっただけに、ちょっとプライドを傷つけられた気がした。

 同封してあった母の手紙には、とにかく性格のいい人だからと、そればかりが強調されている。他に褒めるところはなかったのか?最後の方には、ぼやぼやしていると、もっと条件が悪くなるぞと恐喝めいたことまで書いてあった。

 たぶん、この男性より私の方が、はるかに収入は高いだろう。それでも、母は私に都会での仕事を捨て、田舎で専業主婦をやることを望んでいる。女性の幸せはそれしかないと、固く信じているのだ。

 母自身が高校卒業後、都会での大学進学を望んだにもかかわらず、父母の猛反対で断念した経験がある。地元の役所に就職し、何年か後に見合いで父と結婚した。愛情は結婚してから徐々に育つものだ、というのが母の口癖だった。しかし、それはどこか、自分自身に言い聞かせているようなところもあった。

 人は自分が親からされたことを自分の子供にするものだ、と誰かから聞いたことがある。母の場合はまさにそうだった。私が大都会にある四年生大学へ行きたいと言った時、彼女は猛反対した。そんなところへ行ったら嫁に行けないというのだ。自分ができなかったことを娘が実行するのだから、喜んでくれてもよさそうだったのに。でも、母はそうしなかった。

 家出同然と言ったら大げさだが、それに近い勢いで私は進学を強行した。奨学金とアルバイトだけで生きていくのも辞さず、と覚悟していたが、さすがに最後は母も折れた。

 私と母の戦いのさなか、父はひそかに私を応援してくれていた。おまえのやりたいようにやりなさいと。ただ、正面切っては母に反論しようとしなかった。

 そして社会人になって帰郷した際、何度かだまし討ちのような形で見合い相手と会わされた。家族で外食に行ったら、その店に相手がスタンバイしているとか、自宅に突然訪ねてくるとか。

 会うたびに母へ無理だと思った。この人と一緒に暮らして子供を生み、共に老いていくことは、あり得ないと。顔が悪いとか、話が面白くないとか、偉そうに駄目だしをするつもりはない。それなりに母が選んでくれただけあって、見合い相手はいつも感じのいい男性たちであった。

 でも、駄目じゃないけど、違うのだ。それは会ってすぐというより、写真を見た瞬間にわかった。私と同じ人生を歩む人じゃないな、と。

 母の時代は、見合い結婚が普通だったかもしれない。だが、現代においては、昔ながらのその手段で結婚しようとしている時点で、かなりの違和感がある。配偶者を捜すのに人任せでよいのか?

 見合い相手として登場してくる男性たちの共通項として、皆、覇気がなかった。自分でもがいてでも一段上に行こうとか、一歩前に進もうという感じがないのだ。皆、人が良くて、ボーッとしていた。現状に満足しきっている。

 都会の刺激に慣れきっている私には、それが耐えられなかった。

 携帯が鳴った。母からだった。

「届いたでしょ?」

 すごいタイミングだ。

「見たよ」

「どう?」

「無理」

 電話の向こうで、母のボルテージが上がるのを感じた。

「あんたがぼやぼやしてるから、そんなのしか来んようになったんでしょう」

 可哀想な私の見合い相手。母からも「そんなの」扱いだ。

「いいから、放っておいてよ。自分で見つけるから」

「自分で見つけきらんから、お母さんが探しているんでしょうが」

「できるって。自分の娘を信じてよ」

「信じきらん。子供を産めんようになったら、どうするん?」

 よっぽどケンジの話をしてやろうかと思った。だけど、そんなことをしたら、ついに頭がおかしくなったと思われるのがオチだ。私は適当に母をあしらって、電話を切った。

 写真をじっと見て、ため息をつく。何歳でもいいので、ケンジと話したい気分だった。

 だけど、その晩は現れなかった。 


 週末に図書館へ行った。本については、基本的には書店で新刊を買う方が好きだが、図書館でしか読めないものもあるのだ。私が住んでいる郊外の町は文化施設が充実していて、図書館も大きかった。

 図書館があるあたりは大きな公園になっていて、休みの日は家族づれやカップルが数多くいる。その日は快晴だったので、人も多かった。

 その中に村山がいた。遠目だったが、すぐにわかった。女性と一緒だった。まだ若い。たぶん二十代だろう。どこかで彼女と会ったことがある気がするが、どうしても思い出せなかった。

 最近では四十代の男性と二十代の女性のカップルは珍しくない。わりを食うのが、私たち三十代の女性だ。えっ、村山もそうなのかと思ったが、不思議とジェラシーは感じなかった。二人は親しげだったが、恋人同士のようには見えなかったのだ。

 二人はすぐに私の視界から消えた。

 図書館へ入ると、まっすぐいつもの歴史書コーナーへ行った。村山のことが気になっていたが、とりあえず本を読むしかなかった。

 本格的な歴史書は普通の書店ではなかなか手に入らないし、値段も高い。図書館で読むのが一番効率的だった。棚の間を歩いてまわる。これぞ至福のひとときだ。

 一冊を抜き出して、テーブルで読み出した。すぐにその世界へ入り込む。

 気がつくと、横に気配を感じた。五歳ぐらいのケンジだった。

「ママ、絵本読んで」

 小さな声でささやいた。ここでは大声を出してはいけないと知っているらしい。賢い子だ。

「ちょっと待ってね」

 私は読んでいた本の貸し出し手続きを行ってから、ケンジを児童コーナーへ連れて行った。そこは靴を脱いで上がるところで、大きなクッションの上で子供に本を読んでやれるのだ。幸いなことに、その日はあまり人がいなかった。

 目を輝かせて、次々に本を見てまわるケンジ。私は自分の子供が本好きであることを誇らしく思った。読書の習慣は幼少期につけないと、大人になってからでは難しいようだ。私は陣内の顔を思い浮かべた。未来の私は、息子によい教育をしているらしい。

「何の本がいいかな?」

「まだ、読んでないのがいい」

「ケンジくんが読んだ本はどれ?」 

 ケンジは、自分が読んだ本がこれだと、次々に指さした。

 「親指姫」、「ぶんぶく茶釜」、「長靴をはいた猫」、「おむすびころりん」、「シンデレラ」、「ピノキオ」、「みにくいアヒルの子」、「かちかちやま」、「ねずみの嫁入り」、「一寸法師」、「わらしべ長者」、「花さかじいさん」、「赤ずきん」、「母をたずねて」、「舌きりすずめ」、「浦島太郎」……。

 結構な読書家だ。お母さんはがんばっている。お父さんもケンジに本を読んであげているのだろうか?

 ふと、ケンジが読んだ本の共通点に思い当たった。全部ハッピーエンドだ。正確に言うと、最後の浦島太郎は微妙だが、アンチハッピーエンドと言うほどでもない。「フランダースの犬」とか、「しあわせな王子」や「人魚姫」などの悲しい結末の本は、あえてはずしているとしか思えなかった。子供には刺激が強すぎると、両親は思ったのだろうか?

 ケンジは無邪気な笑顔を浮かべて、私が絵本を選ぶのを待っていた。

 私はいつもケンジと一緒にいられるわけではない。共に過ごした時間が、少しでも彼の人生にインパクトを与えて欲しかった。意を決して、私は一冊の本を手に取った。そして、ケンジのために読み始める。

 興味深そうに聞いていたケンジだったが、ストーリーの展開と共にだんだん深刻な表情になっていき、ラストには泣き出した。感受性の強い子なのだ。私も読みながら、涙が止まらなかった。

 その本は「ごんぎつね」。私が知っている限り、もっとも悲惨な童話だった。

「ママ、どうして、ごんは撃たれちゃったの?」

 ケンジは泣きながら抗議する。

「仕方なかったのよ。兵十は、ごんが、いい狐だって知らなかったんだから」

「神さまは、なんでごんを助けてくれなかったの?」

 すぐに答えがみつからなかった。

「ねえ、なんで……?」

 ケンジは泣き続けた。刺激が強すぎたかな。相当ショックだったようだ。

「神さまは、天国でごんに言ったわよ。ごん、よくがんばったねって」

「……」

「誰でもね、間違うことはあるの。ごんは兵十の病気のお母さんが食べるものだって知っていたら、うなぎにいたずらしなかったでしょう?兵十だって、いつも栗や、きのこをくれるのがごんだってわかっていたら、鉄砲を撃たなかったよね?」

「うん」

「わざとじゃなくても、人に悪いことをしてしまったら、ちゃんとごめんなさいと言わなきゃいけないの。ごんはごめんなさいと言う代わりに、兵十に少しでも喜んでもらおうと思って、ずっと栗や、きのこをプレゼントしてたのよ」

 五歳の子供には難しすぎる説明かもしれなかった。でも、いつかわかる日が来る。こちらが善意でしたことが、必ずしもよい結果をもたらさないことは、大人になると思い知る時がある。

 世の中は理不尽なことだらけだ。でも、そこから目をそむけてはいけない。時には人の力ではどうしょうもないことがあるのだ。そんな状況において、とれだけ責任感を持って立ち向かえるかが、人間の価値なのだと思う。

 大人の中でも、ハッピーエンドにしか目を向けようとしない人たちがいる。正しい者は必ず報われると信じる人たち。それを国家レベルにしたのが、アメリカだ。以前、ハリウッド映画で制作された「フランダースの犬」の話を聞いて仰天したことがある。ラストでは、何とネロとパトラッシュが村人に助けられてしまうのだ。それって、全然別の話になっちゃうでしょう?と思った。彼らに「ごんぎつね」の話を聞かせたら、発狂するかもしれない。

 私は、ケンジが泣きやむのを待ち、しばらく話しかけなかった。

 そして坊やは、目をこすりながら私を見上げた。真剣な顔。

「ママ」

「なあに?」

「兵十も、天国に行ったら、ごんにごめんねって言うかな?」

「そうね。ごんも、兵十も、お互いにごめんなさいって言うはずよ」

 私はケンジを優しく抱きしめた。可愛い坊やは、私の腕の中で、しばらくヒクヒクと声を出していた。やがて私の目を見て、天使のような笑顔を見せる。ケンジは、ゆっくりと消えていった。

 周囲を見渡すと、何組かの親子がこちらに関心を払う様子もなく、みな黙々と絵本を読んでいた。


 その日の終業後、帰宅しようとした私は陣内に呼び止められた。待ち伏せしていたようだ。真剣な顔で誘われ、一緒に食事へ行くことになった。店へ向かいながら、今日は村山がいないんだな、と思った。

 上品な和風居酒屋で、陣内と飲む。仕事の話、会社の話、芸能人の話。陣内との会話はそれなりに面白かった。彼の話術はなかなか達者だ。会社で女性に人気があるはずだ。見た目もハンサムだし、スポーツマンだし、世間から見れば理想の男性なのかもしれない。

 頃合いを見計らって、私は帰らなきゃと言った。あまり長くいない方がいい気がしたのだ。

 店を一歩出た瞬間、その時は来た。

「ぼくとつきあってください」

 陣内に見つめられた。私も彼の顔をじっと見る。

 彼は、ケンジのどんなパパになるだろうか?きっと息子と一緒にスポーツしたりするんだろうな。裏表のない明るいパパ。

 でも、彼は、間違っても「ごんぎつね」の絵本は読んであげないな。

「ごめんなさい」

 私は深々と頭を下げていた。


 自宅へ帰って、ため息をついた。これでまた、本当にケンジを産む日が遠のいたのかもしれない。なんて惜しいことをしたのだと内なる私が自分を責め、もう一人の私これでいいのと反発する。第三の私はその様子を呆然と眺めていた。

 さんざん酒は飲んできたが、まだ飲みたい気分だった。私は麦焼酎をグラスに入れ、ロックで飲み始めた。ふと顔を上げると、ケンジがいた。

「また、ずいぶん……」

 彼は総白髪の初老だった。たぶん六十は超えているだろう。そして、その隣に三歳ぐらいの女の子。

「ナツミだよ」

 まさか……。

 ケンジはにっこりと笑った。

「そう。ママの孫。」

「勘弁してよ。子供すら産んでないのに、なんで孫と会うのよ?」

 私は思わず大声を出してしまった。

「ははは。ほら、ナツミ、お婆ちゃんだよ」

「こんにちは、お婆ちゃん」

 お願いだから、せめて、おばちゃんにして。

「どうしても、ママにひと目会わせたかったんだ」

 ケンジが静かに言った。

 はたと気がついた。ケンジがその歳だとしたら、私はもう九十歳以上になっているはず。いや、それよりも……。

「本当は、私はこの子に会えないのね」

 ケンジは、何も言わなかった。


 ナツミは活発な子で、しばらくそのへんを飛び回っていたが、やがて、こてっと電池が切れたように寝てしまった。

 ケンジと私はテーブルで焼酎を飲みながら話した。

「ねえ、どんなパパが欲しい?」

 酔った勢いもあり、私はケンジに訊いてみた。彼は苦笑する。

「まあ、ぼくはどんなパパか知っているわけだけど……。一般論としては、結婚相手の探し方というのは、あるよね」

「えっ、どんなの?どんなの?」

 母親が、自分が産んだ息子からアドバイスを受ける話じゃないと思うけど、関係なかった。どう見ても私より長く生きているケンジの話を聞きたかったのだ。

「これは男性側から見た話だけど。女性にも参考になると思うんだ」

「ふんふん」

 私は身を前に乗り出した。

「陸上自衛隊の友達がいてね。新人隊員研修で、教官が教えてくれたんだって。嫁探しのポイントを。それが二つあるの」

「へーっ」

「一つ目が健康。二つ目は何だと思う?ぼくは、それを聞いて、なるほどと思ったね」

 焼酎を口にするケンジ。酒の飲み方がきれいだ。

「ルックス?」

「違う」

「金遣いかなあ?」

「残念」

 ケンジは楽しんでいるようだった。

「降参、教えて」

「正解は……」

「正解は?」

「近所づきあいでした」

「えっ?」

 ちょっと意外だった。

「それにはね、文字通りの近所づきあい以外に、いろんな意味があるの。旦那の同僚、友人、親戚……。広い意味での近所づきあいだね。夫婦って社会的な行動単位でもあるわけよ。二人で動くことって、すごく多いから。そのへんのつきあいは、きっちりやってもらわないといけない」

「なるほど」

「奥さんの方から見ても、同じだと思うな。旦那さんには、自分の親族や友達を大事にして欲しいよね?」

 それは、その通りだ。ないがしろにされたら、私が信用を失ってしまう。

「で、その教官は言ったんだって。嫁選びのポイントは二つ。一に健康、二に近所づきあい。他にいいところがあれば、儲けものだと思え!ってね」

 二人で声を上げて笑った。そして、私の心のメモ帳に「健康で近所づきあいできそうな男」が、しっかりと記録された。ありがとう、我が息子。

 私は立ち上がり、冷蔵庫から氷を取り出した。今夜は徹底的に飲もうじゃないの。そして、テーブルに戻ると、ケンジが変わっており、ナツミも消えていた。

「えーっ?」

 彼はどう見ても二十代のサラリーマンだった。さっきと同じ焼酎のグラスを手に持っている。グラスに残った焼酎の量もそのままだ。

「で、ママ、女性を選ぶ時のポイントなんだけど……」

「それ、私に訊いているの?」

 ケンジはうなずいた。たった今、私にアドバイスをくれていたのに。一瞬で立場が逆になってしまった。

 私はため息をつくと、椅子に座った。ようし、仕切り直しだわ。

「そうね、まず……」

 ケンジは、じっと私の顔を見ている。

「ドタキャンする子は、やめときなさい」

「ドタキャン?」

「そう。自分で約束しておきながら、平気でキャンセルする人」

「はあ」

「そういう人って、男性に対してだけじゃないの。女性の友達にも同じようにやるのよ。」

 ふんふんとうなずくケンジ。思い当たる実例があるらしい。

「ドタキャンって、一種の癖ね。これは、たぶん一生直らないから」

「そうなんだ……」

「いつかは、その子が、ちゃんと約束を守るようになってくれると信じたいでしょ?でも、残念ながら、ほぼ百パーセント、そうはならないのよ。そういう人って、何回でも同じことやるの。人に甘えているのよ」

「……」

「誰だって、ごくまれには、病気になったり、家族にトラブルがあったりして、ドタキャンすることはあるわよ」

「そうだね」

「でも、理由が何であれ、それをやってしまったら、償いというか、リカバリーをするのが人の道でしょ。自分から誘うとか、お詫びにごちそうするとか。そのまま連絡ひとつせずに放っておく人は、間違いなく、どこかおかしいから」

「なるほどね」

「悪いことに、このドタキャン癖のある人は、異性から見て、魅力のあるタイプが多いのよ。それで、みんな振り回されることになっちゃうの」

 ケンジは納得したようだった。

「彼女である前に、人間として、約束を守る人を選ぶことね」

 我ながら、いいこと言うなと思った。

「……その通りだね」

 ケンジはうなずき、私はグイッと焼酎を飲む。調子が上がってきた。明日は休みだっけ?仕事なんて、もうどうだってよかった。

「あと、ひとつ」

 私はさらに語った。

「できたら、彼女の友達に会うことね。」

「友達?」

「女の子って、男性の前では、とにかく猫をかぶるから。なかなか本性を出さないのよ。でもね……」

「でも?」

 ケンジの顔もいい色になってきた。

「友達はごまかせないから。彼女の親友と会って、もしその子が素敵な人だったら、絶対に彼女もいい子だから。逆に親友が非常に感じの悪い人だったら、彼女にも問題ありよ」

 ケンジは感心したようにうなずいた。

「よし、さっそく友達に会ってみよう」

「あっ、誰か、いい子がいるんだ」

「ごめん。ママには秘密です」

「ずるい、ここまで語らせておいて!」

 酔って息子にからむ私。

 しばらくケンジとにぎやかに飲んでいたが、やがて私は意識を失ってしまった。いつの間にか寝ていたらしい。

 テーブルに突っ伏した私には、毛布がかけられていた。そして、焼酎のグラス二つはきれいに洗って、片づけてあった。


 翌日から、私がいる世界は変わっていた。陣内の求愛を断って、老若ケンジと恋愛談義をしたからか。よくわからないが、心の奥底にある、今まで知らなかったスイッチがオンになっていた。

 オフィスで仕事をしながらも、常に私の目は一人の男性を追い求めた。村山である。我慢しても、何分かに一度はどうしても見てしまうのだ。村山は数回に一回、私の視線に応えてくれた。

 顧客訪問のため外出しても、早くオフィスに戻りたかった。彼のそばに一秒でも長くいたかった。 

 仕事が終わると、思わず帰り際の村山に声をかけた。

「まっすぐ帰るんですか?」

 同じ町に住む私たちは一緒に電車で帰り、自宅の最寄り駅そばの居酒屋で飲んだ。話は尽きなかった。映画の話、絵の話、本の話。特に本の話題では、悲しい童話を言い合って盛り上がった。「赤いろうそくと人魚」、「泣いた赤鬼」……と出たが、やはり世界で一番悲しい話は「ごんぎつね」で間違いない、と意見が一致した。


 その日を境に、村山との時間は私の生活の一部になった。夜はちょくちょく飲みに行き、顧客訪問がない朝は、同じ電車で出勤したりもした。まるで夫婦か恋人のように。

 だけど、まだそうではなかった。村山からは、陣内のようなキメのひとことが出てこなかったのである。同じ会社だけど隣の課だし、彼はバツイチにしても、今は独身だし、何も障害はないはずだったが。

 それでも、二人の距離は徐々に縮まっていった。

 私は一人で生きていける。今でもそう思う。だけど、彼と一緒にいると、とても楽しい。 次の土曜日には、村山の家に料理を作りに行く約束をした。いや、正確に言うと、一緒に料理を作る約束だった。どちらにせよ、私は土曜日が来るのをとても楽しみにしていた。


 そして、その前日、金曜の夜に私は久しぶりに、そして最後にケンジと会った。

 目が覚めると、まわりが白い明かりに満ちていた。私はとても広い病室に立っている。奥にはベッドがあり、そこにケンジが寝ていた。

 八十歳?九十歳?そこにいた老人のケンジは、ひと目で最期の時を迎えていることがわかった。私は駆け寄り、彼の手を取る。

「ケンジくん、しっかりして」

 老人は私を見ると、力なく笑った。

 私は涙が止まらなかった。いつか、こんな日が来る気がしていたのだ。

「また来るよね?小さくなって、またママのところにくるよね?」

 ケンジは微笑を浮かべると、首を小さく横に振った。

「なんでよ?まだ、あなたは生まれてないのよ!ママを置いて、一人で行っちゃいけないのよ!」 

 彼は何事かを小さくつぶやいた。私は耳を彼の口元に当てる。

「何?聞こえない」

 老人は力を振り絞って、最期の言葉を口にした。

「ま……ま」

 彼の目から、どっと涙があふれる。そして目を閉じ、二度と帰らぬ人となった。

「ケンジ!」

 死んじゃった。私の息子が死んじゃった。まだ生まれていないのに死んじゃった!私は遺体に取りすがると、大声で泣いた。

 気がつくと、自分の部屋で泣きじゃくっていた。私は未来のケンジと、もう会えないことを知った。

 

 なぜ生まれていないケンジが私に会いに来たのか?私の頭の中には、その理由がだんだんイメージできつつあった。

 たぶん私は結婚し、ケンジを産むのだろう。

 そして。

 その後は、それほど長生きしないのかもしれない。病気か事故か知らないけど、きっと、まもなく私は死んじゃうのだ。

 ケンジが最後に見た私は、ほぼ今の年格好。彼の頭の中では、ずっと歳を取らないままだ。一生を通じて、彼は折に触れ、私のことを思い出し続けてくれた。ママがいたら、どう言うだろう?ママだったら、どうするだろう?

 小さい頃は保護者として。青年になったらアドバイザーとして。そして彼が私の年齢を超えた後は、逆に保護すべき存在として。常に私は彼のそばにいた。

 そう。

 私が生きるこの世界は、ケンジの夢の中にあるのかもしれない。彼は空想で私を造り上げ、時々会いに来てくれていたのだ。

 あなたは、ママが本当は見られない、いろんな年齢の姿を見せてくれたのね。そして大きくなってからは、結婚前の、まだ危なっかしいママを助けてくれたのね。

 ありがとう。私の坊や。


 土曜日。

 未来のケンジは死んじゃったけど、私はまだ消えなかった。

 そんな気分ではなかったが、約束は守るべしとケンジに言った手前、私は村山の家に出かけて行った。二人で料理を作り、一緒に食べる。私は口数が少なめだったが、村山は陽気だった。いや、私がいつもと違うと察して、あえてよく喋ってくれたようだった。

「いつか、美術館で会ったと言ったじゃない」

「うん」

「中庭で男性と一緒だったから、声をかけるの遠慮したんだよ」

「ああ、あれね」

 私は料理を食べながら言った。

「大学の同級生で佐々木くんっていうの。もう結婚しているよ。彼は絵を大好きなんだけど、奥さんは興味がないって。だから、時々一人で美術館巡りしてるのよ。あの後、お茶だけ飲んだけどね」

 私はケンジと話した後にバッタリ会った友人の名を挙げた。

「へーっ」

 村山はひそかにやきもちを妬いていたのだろうか。ちょっとおかしくなった。私に彼氏がいるのかと疑って、これまで私と距離を置いていたのか。

「あたしも見たよ。先々週ぐらいかなあ」

 私は反撃に出た。

「村山さん、図書館のそばで、若い女の人と歩いていたでしょ?」

 すると、村山のフォークを持つ手が止まった。

「見えたんだ?」

「あたし、視力は両目とも1・5よ」

「いや……」

 その時。隣の部屋で物音がした。

「誰かいるの?」

 私が尋ねた直後にドアが開いて、三歳ぐらいの女の子が駆け込んできた。この子とは、どこかで会った気がする。彼女は村山にまとわりついた。

「ぼくの娘。名前はミツコ」

 私は固まった。えっ、子供はいないと聞いていたのに。

「あの時、君が見た女性が、この子だよ。まだ生まれていないんだ」

「……」

 あっ、美術館の中庭で見られたとしたら、それ佐々木くんに会う前だ。そこに私といたのは……。

「ぼくはまだ会ってないけど、ミツコにはお兄ちゃんがいるんだって」

 村山は、とても優しい目で私を見た。そして、女の子に尋ねる。

「ミツコ、お兄ちゃんのお名前は?」

 ミツコは大きな声で、私の坊やの名前を言った。 


 ケンジ、ママは思っていたより、もうちょっと長生きできるみたいね。


(完)

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まだ見ぬケンジ 山田貴文 @Moonlightsy358

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