胸トレ

淺羽一

〈掌編小説〉胸トレ

「ベニスビーチって知ってるか?」

 何それ、ヨーロッパ?

「馬鹿、ベニスの商人じゃねぇよ。ベニスビーチ。ロサンゼルスにあるマッチョの聖地!」

 こいつはすぐに僕を馬鹿呼ばわりする。僕の方が明らかに勉強も出来て賢いのに。大体、馬鹿な話はむしろそっちの専門じゃないか。

「まったく、お前もちっとは世の中のことに目を向けろよな。教科書に載っていることなんて、地球が玉葱たまねぎなら、茶色の部分のことだけだぜ」

 分かるような分からないような例え話をするのは、こいつの昔からの癖だ。それについつい納得してしまうのは僕の癖だ。絶対に認めてはやらないけど。

「俺は決めたぜ」 ベッドの上でごろんと寝返りをうって仰向けになると、「いつかベニスビーチに行って、思いっきり筋トレをするんだ」

 また馬鹿なことを言い出した。そんなこと出来るわけがない。

「で、ムキムキのイケメンになって、金髪でおっぱいのデカい美女を嫁にする」

 まず、顔の造形は筋トレに関係ないし、そもそも英語が出来ないじゃないか。

「馬鹿だな」

 ほら、また。二回目。

「英語の上達にはピロートークが一番だって知らないのかよ」

 ピロートーク、つまり男女が同じベッドで枕に頭を載せたまま語り合うこと。いや、だからその為にはまず、金髪美女を口説けないとダメだろ。

「だから、そこでマッチョボディだよ! 格好良い肉体は、言葉なんてなくても本能で女を誘うんだ!」

 今日はやけに……と思って、気付いた。あぁ、そう言えば、今日はまだ一度もこいつの口からヒトミさんの名前を聞いていない。数日前に告白するとか何とか言っていたけれど、さては、振られたな?

「……何、笑ってんだよ、急に。気色悪いな」

 そう言うなって。ほら、僕が代わりにピロートークに付き合ってやっているじゃないか。

「男同士でするのはピロートークって言わねぇんだよ。大体、同じベッドじゃねぇじゃねぇか」

 おや、僕の隣で寝たいのか?

「馬鹿!」

 これは照れ隠し。

「大体、そんなこと出来ねぇだろうが」

 ま、確かに。僕は僕のベッドでしか眠れないし、こいつはこいつのベッドでしか眠れない。少なくとも、ヒトミさんや他の職員が許可しなければ。

 まばたきを数回。視界を染める白い世界はいつでも変わらない。固い肌触りの枕カバーで後頭部を削るように、顔を隣へと向ける。

 世界をほんの少しだけ歪める透明なビニール幕の向こうでは、いかにもベンチプレスでバーベルを持ち上げているかのように、元気よく腕を上下させる姿が見えた。僕はそれを微笑ましく眺めながらも、両腕に繋がれたチューブが外れやしないかと内心で冷や冷やした。

 規則的に鳴る心電図の音をメトロノーム代わりにして、一、二、三……と重りを持たないベンチプレスが続けられる。重りが無くたって、僕等にとってはやせ細った腕の重さだけでも十分だ。徐々に機械音が早くなり、あっという間に腕の動きが追い付かなくなる。

 あまり無理するなよ、振られて気を紛らわせたいのは分かるけど。後半は言わないでやった。友情の証だと思う。

「無理……しなくちゃ……いけねぇんだよ。ちょっとくらいは……!」

 ……まぁね。その通りだ。僕等が本当に頑張ることを止めたなら、僕等はその日の内にでも一人きりになるかも知れない。一人で死ぬのは構わないのだ、本当に。ただ、こいつに一人で寂しい思いをさせるのは、嫌だ。一人、また一人と減っていって、気付けばもう僕達だけ。僕等が頑張るのは、頑張れるのは、僕等がお互いに一人きりで、だけど二人でいるからだ。

「諦めて、たまるかよ」

 それはヒトミさんのこと? あ、しまった。

「馬鹿! そんなこと誰も言ってねぇだろ!」

 ほら、怒られた。そして僕に向かって重たいバーベルを投げる真似。だから僕は、粘っこい空気をかき分けて、その重りを受け取った。両腕を上げた途端、肩と背中にずしりと感じる重力。確かに、筋トレをしないといけないな。

「お前も行くぞ、ベニスビーチ」

 良いよ。僕も金髪美女にモテたいし。

 ここでは、僕等はとても大切にされているけれど、それは男女の愛情とは違う。むしろ“哀情”にこそ近い。そんなの望んでいないのに。

「英語はお前の担当だからな」

 もしかして、僕を誘うのはその為? と言うか、言葉なんて必要ないんじゃ?

「馬鹿。それは筋トレをしてからの話だろ」

 勝手だなぁ、と呆れてしまう。でも、嫌いじゃない。僕はバーベルを二つに割って、小さなダンベル二つにした。

 そう言えば、ロサンゼルスから車で行ける、カラフルな砂漠があるんだってさ。

「カラフルな砂漠って、意味不明だな」

 前に本で読んだんだ。砂漠の真ん中に、沢山の色で塗られた丘があるんだって。ポップアートの聖地らしいんだけど、死ぬまでに一度は見ておくべき景色だってさ。

「なら、そこも行かないとな」

 だね。

「筋肉痛で歩けないとか言ったら、砂漠の真ん中に放っていくからな」

 こっちの台詞だよ。英語も出来ない癖に、のたれ死ぬんじゃないかな。

「……とにかく、鍛えないとな」

 ……だね。

 そして僕達はお互いに、僕達にだけ見ることの出来るバーベルを掴んで、腕を伸ばす。胸を張る。ビニール越しにさえ、互いに体温が届くことは無いけれど、声と姿は分かる。

「もう限界なんじゃねぇか?」

 あれ、もう休みたいの?

「馬鹿。心配してやっただけだっての」

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……と、機械音が徐々に早くなる。喉の奥が腫れたみたいに熱くなり、上半身の関節が痛くなる。ちらりと隣を見ると、さっと顔を背けられた。ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……と、向こうの音も聞こえている。安心感と同時に、負けたくないって気持ちが湧く。

 きっと、あともう少ししたらヒトミさんたちが様子を見に来るが、その時、こんなことをしていたと知られたら、怒られるんだろう。

 ……いや、もしかして、こいつはヒトミさんにこそ、見せたいのか?

 そう思ったら、何だかちょっとだけ応援したくなった。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……。

 二つの機械音が重なり、まるで胸の鼓動まで一つになったようだ。だとしたら止めるわけにはいかない。

 僕の心臓は、僕一人だけのものじゃない。

〈了〉

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