いつもより景色がきれいに見えるのは どうしてだろう この場所だから?
鉛のように重い足取りで、私は自然と化学室へと向かっていた。
先輩達に大見得を切った挙句、うまくいかなかったからといって部室へ向かうのは自分でも調子が良すぎると思ったが、今の心情を吐露したい、誰かに話を聞いてもらいたいと思える場所がそこしか思いつかなかったのだ。
そろそろと部室のドアを開けると、そこには日比木先輩がひとり。いつものように短冊を目の前にして、右手でシャーペンをくるくると回している。
私は無言で入室すると先輩の向かい側に座った。
けれど先輩はなにも言わない。短歌を考えることに集中するように。
でも、先輩だってわかっているはずだ。私がここに来たということは、桜坂さんと下校したいという願いが叶わなかったという証だと。
「……先輩、ごめんなさい」
「……なんで謝るんだ?」
「先輩は忠告してくれたのに、私は友達ができたと思って勝手に浮かれて、調子に乗って。でも、実際は相手は私のことなんてなんとも思ってなくて……私はネイルアートのために利用されただけで……先輩の言った通り、私はぼっち脳だったみたいです。おまけにうざくておどおどしてて、他人をイライラさせる天才だったみたいです……」
先ほどの事を思い返すと涙が溢れそうになってしまった。それ以上言葉が続けられなくて、思わず俯いてしまう。
先輩はそんな私の様子を眺めていたようだったが、やがて一枚の真っ白な短冊を私の前に差し出して来た。
「書けよ」
「え……?」
「何があったのか知らねえけどさ、お前の今の気持ちを短歌にしてみろよ。腹の中に溜め込んでるものを言葉にして整理すれば、案外すっきりするかもしれないぜ」
その言葉に少しだけ迷ったが、結局私は短冊を手にした。先輩の言うことを信じてみたくなったから。
少しの間でも友達だと思っていた人に馬鹿にされて、利用された。そんな私の今の気持ち。
【くやしいと思うことさえくやしくて ぜんぶくやしいくやしいくやしい】
「あーあ、こりゃ重症だな。悔しいのオンパレードだ」
日比木先輩は出来上がった私の短歌を見て肩をすくめる。
「でも、ちょっと安心した」
安心した? どうして?
顔を上げた私に、先輩は短冊を指に挟んでこちらに向ける。
「てっきりお前は悲しんでると思ったから。悲しいって気持ちは底がねえだろ? けど、悔しいって思うのはそれとは逆で、今の環境を変える原動力になる。そう思わねえか?」
ああ、そうか。先輩の言う通り、自分の気持ちが理解できた。私は悲しいわけじゃなかった。悔しかったんだ。友達だと思っていた人に裏切られたことが悲しかったんじゃなくて、友達という言葉をだしに、利用されたのが悔しかったんだ。
「私、もうネイルアートやめます」
「……なんで?」
「これからも桜坂さんみたいな人たちに利用されるかもしれないし。友達のふりをして近づいて来られたら、きっと私はまた言いなりになっちゃう。ぼっち脳だから。そうしたら次こそ悔しくて悔しくて我慢できないかも。机をひっくり返して、椅子を振り回して、思いっきり暴れまくって……そうならないうちにやめます」
「極端だな」
先輩は呆れたように呟くと、おもむろに立ち上がった。
「よし、今日は小田桐も塾でいねえし、だいぶ早いがこれで部活動は終了だ。まだ時間あるだろ? これからちょっと付き合え」
「え? 付き合うって……どこに?」
「いいから来いって」
事態が飲み込めない私が、何が何だかわからないうちに学校を出て連れてこられたのは、商店街の一角にあるお店。「長田サイクル」という看板の掲げられたそこには、店頭にも店内にも自転車がたくさん並べられている。
先輩はそこで自転車を物色するようにうろうろしはじめる。やがてその中から
「よし、これに決めた」
と、一台の黒い自転車を選び出した。
「今日からこいつが俺の愛車。名付けて『イプシロン号Z』だ。どうだ。 超かっこいいだろ」
前面にカゴ、後面に荷台のついた、いわゆるママチャリに、先輩はそう名付けて、得意げにサドルを撫でる。
そういえば日比木先輩はもともと自転車通学だって言ってたっけ。それが壊れて今は電車通学だとも。新しい自転車を買うためにここに来たみたいだ。でも、選んだのがママチャリとは意外だ。先輩って機能性を重視するタイプなのかな。
自転車を購入した先輩は自慢するように両手を腰に当てる。
「このためにバイトして貯金してたんだぜ」
「先輩、バイトしてたんですか!? いつのまに!?」
以前は雇ってくれるところがないとか言ってたのに。一体どんなアルバイトなんだろう。
「まあな。色々と裏ワザを使ってさ。どうしても新しい自転車が欲しくて。というわけで、初乗りに付き合え。お前は荷台な」
「え? で、でも、確か自転車の二人乗りって道路交通法とか、そういうのに違反するんじゃ……?」
「いい裏道があるんだよ。そこなら警察にも見つからねえ。俺を信じろって。ほら、さっさと乗れ」
その自信満々な言葉に促されるまま、私は思い切って自転車の荷台に腰かけた。と、同時に先輩がペダルを踏み込む。
「しっかり掴まってろよ。振り落とされないようにな」
自転車が急加速する。とてもママチャリとは思えない速度だ。言われた通り、振り落とされないようにと、私は反射的に先輩の腰に腕を回してしがみつく。
思いがけないスピードに置いていかれるような気がして、頬を先輩の背中にくっつけると、前方から吹きつける風の冷たさと反比例するように、そこから温もりが感じられるようだった。
自転車はいくつもの細い路地を曲がってゆく。どこを走っているのかわからないが、薄暗い建物と建物の間を走り抜けてゆくと、やがて唐突にまばゆい光の中に飛び出した。思わず先輩の背中から顔を覗かせると、目の前にきらきらと輝くものが見えた。
「わあ、きれい……!」
沈みかけの夕日に反射して輝いていたのは、オレンジ色に染まった波の打ち寄せる海。爽やかな風と共に潮の匂いがする。
しばらく海沿いを走りながらその景色に見とれていると、やがて自転車は速度を緩めて道沿いの小さなパーキングエリアに停まった。
「なかなかの乗り心地だったな。さすがは俺の選んだイプシロン号Zだ」
近くの自動販売機で飲み物を買いながら、日比木先輩は満足気に頷いている。
「荷台も楽しかったです。遊園地のアトラクションみたいに、すっごく早くて」
「そんな事で楽しめるとか、お前は安上がりだな」
私はパーキングエリアを囲う丸太を模した柵に近づくと、両手を柵の上に置いて、そのまま波の打ち寄せる海を眺める。
日比木先輩も隣に来ると、その身を柵に預けて、手の中のペットボトルを傾けて喉を鳴らす。
夕陽が海を照らす光がゆらゆらと揺れながら、一本の筋のようにこちらに伸びている。どこまでも続く、終わりの見えない海。夕日と水の青色が混ざったような不思議な色。それを前にすると自分の存在がなんだかちっぽけなものに感じられた。
その美しい景色に見とれていると、不意に先輩が口を開いた。
「……森夜、お前、ネイルアートやめんなよ。誰かの爪にやりたいってんなら、俺が練習台になってやる。毎日でも。だからやめんな」
思わず先輩の顔を振り仰ぐ。
その発言に驚きを禁じ得なかった。あんなにネイルアートを嫌がっていた先輩が、どうして?
「どうしてそんなこと……?」
「少なくとも、どこが良いのかわからねえ俺の短歌よりも、お前のネイルアートは誰かに必要とされて評価されてんじゃねえか。それって才能がある証拠だ。だからここでやめるなんて勿体ねえよ。好きなんだろ? ネイルアートが。だから利用されたと知って悔しかったんだろ? だったらやめんな。もっともっと上手くなって、利用した奴らを見返してやれ」
才能がある? 私に? 先輩はそんなふうに思っていてくれたの?
私がそれを諦めないように、先輩は自分から練習台になってやるなんて言ってくれるの?
確かにネイルアートは好きだ。でも、私に本当にそんなに価値があるのかな……
私は先輩への返答を避けるように、話題を変える。
「先輩はどうして短歌を始めようと思ったんですか?」
私がネイルアートを始めたのは、おしゃれへの憧れからだ。それがいつのまにか楽しくなって、気づいたら夢中になっていて……
対する先輩はどんな理由で短歌を始めたんだろう。
「それは――」
先輩は飲み物を一口飲むと、遠くを見つめるように話し始めた。
「……中学の時気まぐれに読んだ小説でさ、主人公の元に手紙が送られてくるって展開があったんだよ。親しかった奴からの別れの手紙。その中に短歌が添えられててさ……恥ずかしい話、俺はそれを見てちょっと泣いちまって」
泣いた? 先輩が?
「たった31文字の言葉で、こんなに感動できるものを作れる短歌ってすげえなって思って……俺もそんなふうに誰かの心を揺さぶるような短歌を作りたいって。そんな単純な理由」
「その短歌って、どんなのだったんですか?」
「知りたいか?」
「はい。是非」
「教えない」
「えっ、ずるい。そこまで言っておきながら肝心の内容を教えてくれないなんて、生殺しもいいところですよ」
「おう。せいぜい生殺しにされてろ」
先輩は笑いながらペットボトルに口をつけた。
先輩の心をそこまで動かした短歌って、一体どんなものだったんだろう。しかもそれが元で部活動まで始めるなんて……
「それなら、小田桐先輩はどうして短歌を? 日比木先輩と同じ理由で?」
問うと、先輩は何故か照れ臭そうに頭をかいた。
「……あいつは俺に付き合ってくれてるんだよ。だいたい、俺みたいな奴が部長になんてなれるわけないだろ。こんな格好で教師からの信頼もないし。だから小田桐に頼んだんだ。短歌部を作りたいから部長やってくれって。事情を聞いたあいつは嫌な顔ひとつせずに引き受けてくれた。それでも高校に入ってから短歌部を立ち上げるのに1年近く掛っちまったけど。でも、そこまでしてくれた小田桐はすげえいい奴だよ、ほんとに。感謝してる」
そのまなざしに優しいものが含まれているのを見て、日比木先輩の小田桐先輩に対する信頼が感じ取れた。一見対極に思える二人だが、本当に仲が良いようだ。あの二人みたいな関係が親友ってやつなのかな。いいなあ。
「ここの景色、気に入ったか?」
「はい。海なんて毎日電車の窓から見慣れてるはずなのに、なんだかここは特別な感じがします。特に色がすごく綺麗」
「……そっか。それならよかった。深く考えずに来ちまったから、お前にとってはつまんないんじゃないかって」
先輩はふと真剣な表情で目の前の景色を眺める。
「俺は短歌が好きだ。短歌を作るのが楽しい。でも、ときどき不安になる事もある。俺の短歌には価値があるのかって。いや、そもそもそんな気持ちで短歌を作ること自体が間違っているのかも……何も気にしないで自分の好きなように作ればそれでいいんじゃないかって、そんなふうに迷うことがあるんだ。そんな時、ここに来る。この景色を眺めてると、いつのまにか俺の悩みなんてどうでも良くなってて。それで、また短歌が作りたくなる」
先輩は海を見ながら続ける。
「お前のネイルアートもそうなんじゃないのか? 好きなものをそんな簡単に諦められるわけないだろ? だから続けろよ。俺もいつかお前のネイルアートに負けないくらいに、誰かを感動させる短歌を作ってみせるからさ。それまで腕を鈍らせるんじゃねえぞ」
もしかして、そのために日比木先輩はわざわざここに連れてきてくれたのかな。先輩自身がそうしていたように、迷っている私を立ち直らせてくれようとして。
先輩がそうであったというように、私もいつのまにか先ほどまで沈んでいた心がどこかに消え去ってしまった事に気づいた。
と、同時に先輩への感謝の気持ちで胸が満たされてきた。
今までぼっちの私のことをこんなに気にかけてくれた人がいただろうか。こんなふうに心が折れそうな私を立ち直らせようとしてくれた人が。ましてや先輩は「何があっても知らない」なんて、突き放すようなことまで言ってたのに。
「先輩って、優しいですね」
その言葉に先輩は口に含んでいた飲み物を海に向かって盛大に噴き出した。その拍子に器官にも入り込んだのか、むせるように咳き込み始める。
「だ、大丈夫ですか……!?」
むせたせいか涙目の先輩がこちらを見る。
「……お前がいきなり変なこと言うから……」
「変な事なんて言ってません。本当の事です」
「真面目な顔で言うのはやめろ。恥ずかしい奴だな」
柵に乗せた両腕に顔を埋めて、先輩は暫くの間動かなかった。ちょっと耳が赤い。
その様子を眺めながら私は切り出す。
「日比木先輩、さっきの言葉は撤回します。私、もう少しネイルアートを続けてみようと思います」
先輩ははっとしたように顔を上げた。
「マジか」
「はい。だから約束通り、これから毎日私の練習台になってくださいね」
「おう。いいぜ。お前の弁当の唐揚げと引き換えな」
……この流れなら、そこは普通無償じゃないのかな……
でも、唐揚げ一つでネイルアートができるのなら安いものだ。今日、はっきりとわかった。私はネイルアートが好きなのだ。唐揚げよりもずっとずっと。
今日のこの気持ちを忘れないように、この景色を記録しておこう。心が折れそうになったら、この景色を見返して、今日のことを思い出すのだ。
そう思って携帯を取り出して輝く海を画面に収める。ボタンを押すとカシャリという音が響いた。
先輩も同じ事を思ったのか、スマホを取り出してあちらこちらを撮っている。
満足して携帯をしまうため折り畳もうとした瞬間、液晶の画面に表示された現在の時刻が見えて、私は青ざめた。
「先輩、大変です! 今は5時40分ですよ! いつもの電車まであと10分しかない! どうしよう……!」
「心配すんな。お前の家まで俺のイプシロン号Zで送ってやるさ」
「え?」
「もともと二駅分自転車で通学してたんだ。一駅ぐらいどうって事ねえよ。ほら行くぞ。門限に間に合うようにな」
「あ、先輩、あそこの角を左です。その先の、あの黒っぽい屋根の家」
私が自転車の後ろから指示を出すと、先輩は徐々にスピードを緩め、家の前で停止した。
結局、先輩は本当に私をイプシロン号Zの荷台に乗せたまま、自宅まで送ってくれたのだ。道中、幸いにも二人乗りの姿を警察に見咎められるようなこともなかった。
「日比木先輩、今日はいろいろとありがとうございました。海、とっても綺麗でした」
荷台から降りた私がスカートを直した後で頭を下げると、先輩はまじまじと私を見つめる。な、なんだろう。
思わず目を泳がせていると、先輩はわずかに目を細めて口角を上げた。
「どうやら調子が戻ったみたいだな。お前、放課後に部室に来た時は、まるでこの世の終わりみたいな顔してたぞ」
え……そ、そんなに……?
思わず自分の顔を確認するように手をあててあちこち触ってしまう。
「心配すんなよ。今はそんな変な顔してねえから。そのまま悩まずに楽しい事だけ考えてりゃいいんだ。それが一番いい。お、そうだ。こうしてイプシロン号Zも手に入れた事だし、俺は明日から自転車通学に戻る。だから一緒に電車には乗れねえ。覚えとけ」
「え?」
「それじゃ、また明日な」
私が何か言う前に先輩は別れの言葉を口にしながらペダルを漕ぐ。その後ろ姿がみるみる遠ざかって行く。
そうか。先輩は自転車通学に戻っちゃうのか。
小さくなる先輩の背中を見送りながら、なんだか少し寂しい気持ちが胸に流れ込んできた。
それにしても、自分がこんなふうに男の人と一緒に自転車に乗るなんて思ってもみなかった。先輩の背中、大きかったな。
「おねーちゃん!」
背後からの突然の声に振り返ると、いつのまに家の中から出てきたのか、妹の
「ね、ね、今の自転車の人ってもしかしておねーちゃんのカレシ? かなりかっこよかったよね。ママチャリだったけど」
「み、見てたの!?」
な、なにを言い出すんだこの子は。私は慌てて首を振る。
「ち、違うよ。あの人は部活の先輩。帰りの電車に間に合いそうに無かったから送ってくれたの。変な推測はやめて! それにママチャリは別にマイナスポイントじゃないよ! カゴも荷台もある便利アイテムなんだよ! 文明の利器なんだよ!」
「えー、なんだ。つまんない」
星実は残念そうに唇を尖らせる。
「ともかく、この事はお父さんたちには絶対内緒だからね! 二人乗りなんて法に触れるような事してたってバレたら怒られちゃう」
「わかってるよ。うちのおとーさんたちって妙に厳しいよね。些細な事で姉が叱られるのを見るのは、妹としても大変心苦しいものなのですよ」
「その言葉信じるからね」
少々生意気な妹に念を押すと、私達は連れ立って家の中に入った。まったく、星実が変なことを言うから先輩との別れの余韻がすっ飛んでしまった。
それからふと、桜坂さんに言われた言葉の中で、気になっていたことを思い出した。
「ねえ星実、聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「シュシュってもう時代遅れなの?」
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