第6話 二〇〇三年八月二十五日、そして世界遺産へ

 


 その日は電話で叩き起こされた。何かあったと、覚醒する前に察した。

「店長、お休みのところすみません」

 舞衣だった。時計をみると七時をまわったところだ。目覚ましよりも一時間以上早い。「あの、たった今、祖父が倒れたって電話があって、いま親と連絡取ってるんですけど詳しい状況がよくわからなくて……」

 舞衣の実家は青森だったか。店のほうは大丈夫だからと言って、頭のなかでシフト表を思い浮かべる。すみませんとくりかえした舞衣に、綾子はおじいさまお幾つなのと尋ねた。

「七十二歳です」

 両親と変わらない年だった。もしも高校を出てすぐ子どもを産めば彼女くらいの娘がいてもおかしくないのだとも考えた。綾子が、気をしっかり持ってちゃんと食べておくのよと口にすると、はい、それは大丈夫ですといつもの声が返ったのでほっとした。

 電話を切ってすぐ、本社へとメールを入れた。エリア統括部長へは電話をした。もう移動中だったらしく一度でつながらなかったが、十分もしないで折り返し連絡があった。綾子を店長に推薦したそのひとなのであたりは柔らかい。なんなら明日以降夕方から出てくれるというので安堵した。

 パートの京子へは本社と同時にメールをしておいた。携帯でメールを打つのが苦手なのでいつも「了解です」としか返ってこない。今日はしかし、「店長午後来てください」とたどたどしい言葉が追記されていた。もうひとりのパートさんへは店があいてから連絡をする心積もりでいた。先輩とはいえ同じパートからシフト変更の件を聞くのと店長からでは違うからだ。以前の店長はそのあたりまですべて京子に任せきっていた。そのせいで互いに不満が募り、新人パートが居つかない店になってしまっていた。それを統括部長が綾子を起用することで解消した。

 綾子は、部長に別居の件を伝えてはいなかった。あくまで私事であるし仲人をしてもらったわけでもないので言う必要もなかったが、入社した当初からずっと世話になったひとだった。あんまり働きすぎると旦那に愛想尽かしされるぞと結婚前に釘を刺された。そのとおりになりましたと告げたらどんな顔をされるだろう。まして疑われましたと言ったなら。

 綾子はそれを想像しひとりでわらった。可笑しかった。

 着物を扱っているとひとさまの人生の深いところに関わることになる。お宮参り、夢見式、成人式、結婚式に葬式、または入学式や卒業式というのもある。綾子はずっと、人生の節目についてまわる物語を聞いてきた。着物はそれらを柔らかく、やさしく、美しく包みこむものだった。

 けれど、そこからはみだすものもないではない。晴れの儀式にまつわるものとしてのみ残ったわけでない着物の、かっこたる姿もある。店を任されて三年たち、ちかごろはそういうことを考えていた。

 

「申し訳ありません。行かれなくなりました」

 綾子の言葉に大桑は、いやー、それはとても残念ですと返してきた。感情や体面を取り繕うかと思うと変なところで正直に感じられた。大桑に聞きたいことは山のようにあったが電話でする話ではないと思ったのでやめて、かんたんに事情だけ説明した。

「あいにく荒船風穴についてお役に立ちそうな新しい情報はありませんでした」

 大桑は、お調べくださいましてどうもありがとうございますと心のこもった声でこたえた。綾子が蚕種を渡す日を相談しようとしたところで、クール便で送ってもらえばすみますが、そちらの秘蔵っ子さんが育てたいと言ってますと教えられた。

「桑の葉をどうするつもりでいるのかしら」

「近所の雑木林と公園にあるのを見つけたそうです。公共物ですし排気ガスが心配だから林のほうになさいとお伝えしておきました」

 行動的な舞衣らしいと笑みがこぼれた。と同時に、これでふたりで会う理由がなくなったと知る。綾子だけでなく大桑もそれに気づいたと察した。だから思いきってたずねた。 

「大桑さん、どうして養蚕教師に」

 夢使いは七つの夢見式でその素養を見出されて将来を決めることになるが養蚕教師はそうでない。自ら選び、学んでなるものだ。

 のらりくらりしてこたえないものと決めつけていたが、大桑は案に相違して真面目な声で語りはじめた。

「生まれたときから養蚕を見てたからってのがこたえなんでしょうが、お蚕さまは箱の蓋をあけても餌がなくなろうとも逃げませんよね。カブトムシやクワガタ、ホタルだってスズムシだって籠から飛び出していくのに。あの白い生き物はひとが世話してやらないと生きてはいられないものだってわかったときに、なんて言いますかねえ、いたわって、大事に慈しんでやらんとなあって思ったんですよ」

 信心というのではなしに、と大桑はつけたした。夢使いの素養のあるのを知ったあとのことだったのだろう。

「わたし、そういえば夢使いについて祖母に尋ねたかったことがあって」

「なんですか」

「命日に呼ぶものだと教わったのです。どうしてかしら。夢で思い出すのが供養だからかと思ってたのだけど他にちゃんとした謂れがあるんじゃないかと」

 大桑が黙り込んだのに気がついた。それからふいに、生真面目な声が囁いた。

「……それは、亡くなったひとにお供えするのが御香だからですよ。我々が香音と呼ぶものです」

 言われてはじめて、綾子はその事実に思い当たる。死者の魂を慰め、その食べ物でもある香について知らなかったわけでない。綾子にとって夢はあくまで「見る」ものでしかなかったが、夢使いにとって夢は見るものでなく香りとして「聞く」ものなのだ。それをまるで理解していなかった。

 彼岸と此岸をむすぶのが夢であり香であり、彼らの生業とするものであった。弔いにこれ以上相応しい存在はない。

「ごめんなさい……」

 不明を愧じて漏らした言葉を、いえ、なにも、と大桑がひきとった。ふっと吐息が耳朶に触れた。笑ったようだった。調子が狂うな、と独り言めいた呟きがつづいた。それから、

「私は夢使いですから」

 そうあらためて述べた大桑に、いちおうは引き取られた。綾子はそう感じた。申し訳なさに凝らせていたからだからすうっと力が抜けた。綾子はふと、この男も夢使いとして誰かと寝ることがあるのだろうかと考えて、慌ててそれを振り払った。すると、電話だというのに煙草を喫ってもいいですかと大桑が聞いてきた。どうぞとこたえてしばらくして、大桑が煙を吐いたのがわかった。

「……お煙草すわれるんですね」

 会っているあいだ、そんなそぶりは少しも見せなかった。

「はい。ですが素敵なお召し物の魅力的な女性と一緒のときには遠慮します」

 大桑が叩いた軽口を笑って受け流してのち、綾子は桐生織の組合役員の名を告げた。

「大桑さんをよくご存じで、世界遺産登録へ向けて大車輪で活動なさってるって褒めてらっしゃいました。今日、お会いになるんでしょ」

 大桑は、お顔が広いのはそちらさまのほうでしたねとこたえた。それから、世界遺産に指定されれば知るひとも増えるし産業として生き残る術が見出せるかもしれない、少しでも何か役に立てないかと思いましてね、と真剣な声で続けた。そういう大桑の気持ちだけは、十ニ分に理解しているつもりだった。だからこそ、

「でも、考えてみれば遺産てさびしい言葉ね」

 綾子はそう呟かずにはいられなかった。大桑もそれは汲みとった。その苦笑が耳を掠める。

「我々は滅びいくものですよ」

「いやだわ、一緒にしないでちょうだい」

 綾子は肩をそびやかして怒ったふりをしたが内心では認めないではなかった。ファストファッションが巷にあふれ、生糸生産は中国、インド、ブラジルに独占される現状はそうかんたんに変わらないだろう。もちろん着物それ自体も。綾子の店の売り上げは落ちていないが、他の店舗で落ち込みの激しいところはある。いずれ、そう遠くないうちに合併や閉店に追い込まれるところもあるに違いない。そうなったとき、よほど実績をあげていなければ店長の職を追われることも覚悟していた。大事にしてきたあの店、そこで働くみなと別れることもあると考えると胸が痛かった。綾子はちいさく吐息をついた。楽ではない生き方を選んでしまったと。

 そんな綾子の心中を察したものか、大桑が口にした。

「これは失礼、たしかに貴女はいつも活き活きとしておいでだ」

 きゅうに改まった声に、そんなことはないと綾子は否定しなかった。

「はじめてお会いしたとき目の覚めるように鮮やかな緑のお着物をお召しだったでしょう。山繭、あの天蚕のようだと思いました」

 綾子はありきたりの礼を述べるのをやめた。ただ、祖母が誂えてくれたものですとだけこたえた。いまだけは、野にあって生きられるものでありたかった。

 強くなれる。そう言われたのだと思った。

 一呼吸おいて、大桑が口にした。

「まあしかし、盛者必衰といいますように、滅びていかないものなどないわけで。この世のいったい誰が、失われていくものを大事に想わずにいられるものですか」

「そうね」

 ほんとうに、そうね。綾子がくりかえした。そうですよ、と呟いた大桑が息を吐いた。

 その煙が細く、まっすぐにたちのぼっていくのが綾子には見えるような気がした。

 また会えるかしらと綾子は口にしなかった。ご縁があれば。そう、大桑がこたえるのがわかっていたから。                           

                                  了

 

 

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あやとりゆめむすび 磯崎愛 @karakusaginga

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