エピローグ

6

 ルシファーの姿が見えなくなり、すぐに冷気も感じられなくなった。

 川の流れに身を委ねるように緩やかな時に身を任せる。少しもしない内に、足裏へ確かな抵抗を感じるようになった。

 ゆっくりと瞼を開けると、そこは月明かりが射す薄暗い部屋だった。

 窓際の机、地球儀と拳銃型ライターが置かれたサイドボード、大きな姿見にクローゼット。見上げると、天井にはピンクの色染み。

 間違いなく、自分の部屋だ。

 もぞりと、不意に視界の端で何かが動いた。見ると、ベッドにもたれ掛かるように突っ伏している音遠の姿がある。シンとした室内に、穏やかな吐息が規則正しく聞こえてくる。

 起こさないように、そろりと足を忍ばせて湊は窓辺へ立つ。レースのカーテンを静かに開くと、思いのほか大きな音が鳴ってしまった。


「ん、うん……」


 どうやら音遠を起こしてしまったようだ。彼女は気だるげに上体を起こし、むにゃむにゃ言いながら眠気眼をこすっている。


「悪い、起こしちゃったか」


 眠りを妨げてしまったことに、少し罪悪感を覚え苦笑を浮かべると、


「――――えっ、湊君?」


 少し間を置いて、瞳を瞬かせた後、音遠はまん丸く目を見開いた。

「ただいま」照れ隠しに頬を掻きながら帰還を告げると、まるで眠気が爆発したかの如く覚醒し、音遠は弾かれるようにして駆けてきた。


「おかえりなさい!」


 胸に圧し掛かる確かな重み。うまく抱きとめられず、湊は勢いあまって窓に背をついた。

 大して厚くもない胸に顔を埋められ、少しして。すん、と音遠は鼻を鳴らす。


「ん、ルシファー様の、匂い……?」


 鼻聡い、とでも言えばいいのだろうか。そういえば、いつかルシファーが言っていたな。『女は鼻が利く生き物なのよ』と。まさにその通りだ。


「まあ、吹っ飛ばされた時に何度か抱きとめられたからな。それに――」


 何故か言い訳じみたことを口にしながら――しなければと思いながら――湊はジレのポケットに手を入れた。そして何かをつまんで引き出す。

 音遠の視線が湊の手元に注がれた。


「白い、羽根?」


 やわらかな月光を浴びて煌き輝く、天使の羽根がそこにあった。

 触れていれば溶けてしまいそうな、雪のように儚く白い羽。


「これって、もしかしてルシファー様の」


 湊は黙って頷いた。


「あいつは最後、天使になれたんだ。結局、半端だった翼も黒く染まっちゃったけどさ。それでもルシファーは、確かに天使だったよ」


 月を見上げて彼女を想う。美しかった、堕天使の少女を。

 時に口うるさく、でも自分を案じ、支えとなってくれていた彼女。

 目を細め、つい感傷的になってしまう。

 そんな湊を見かねたのか、


「わたしも見てみたかったなぁ。天使の翼の、ルシファー様」


 言いながら、音遠がそっと手を握ってきた。残念そうにも聞こえる言葉だったが、しかし口調は明るいものだった。

 不意に、握った手にきゅっと優しく力が込められる。

 月から視線を転ずると、音遠が微笑みを浮かべて見上げてきた。月明かりに照らされた、心休まる柔和な笑みだ。

 二人は肩を寄せ合って、窓から月を見上げた。

 新円を描く天窓が、皓々と地上を照らしている。


「いつか見られるといいな。俺たちは三人、これからもずっと一緒なんだから」

「うん、そうだよね」


 どちらからともなく指を絡め、二人は強く手を握り合った。

 もう、湊も音遠も独りじゃない。これからは互いを半身として、死ぬその時まで二人でともに生きていく。

 死してからも……三人は永遠に一緒だ。

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アルカ ―seven deadly sins― 黒猫時計 @kuroneko-clock

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