3-3
薄暗い時計塔内部。
円形の床面を埋め尽くすのは、時を刻む針を動かすための巨大な歯車だ。大小さまざまな歯が噛み合うたびに、硬く鈍い音が響いている。
巨大な構造物の胎内で、天に向かって壁面を走る螺旋回廊の中腹に、四人の姿が確認できた。
「サタン、ベルゼブブが動いたようですよ」
今まさに死にかけの女性の傍らで、道化がぽつりと言った。
胸に大穴を穿たれ、夥しい血の海に伏す女、『怠惰』のベルフェゴール。
しかし風体が違っていた。明らかに悪魔王との体格差に相違が見て取れる。
サタンは一メートル程の身長をしているが、なぜか彼女は等身大の大人サイズだったのだ。
怜悧そうな顔立ちは苦悶に歪み、アメジストの瞳は虚空を見据えている。
肩口で切りそろえた栗色の髪、額から伸びる一対の黒い角。背には骨の浮き出る蝙蝠の皮膜翼を備えている。
ボンデージのような露出の多い過激なドレスに身を包む肌は健康的な褐色だ。風穴がなければ美しい形をした豊乳であっただろう。いまは壊れた水道管みたいに鮮血を溢れさせている。
その傍らにもう一人。四肢をもがれた青年が、彼女に寄り添うようにして倒れている。ぼさぼさの髪に黒縁眼鏡をかけた冴えない男だ。
繰り糸の切れた人形のように動かなくなったベルフェゴールへ、サタンは冷視を向けた。
「久方ぶりだな。奴が戦に参加するのは」
言いながら彼女に歩み寄り、その首根っこを鷲掴みにして持ち上げる。
と――
「や、めろ……」
声がした。今にも死に絶えそうな、風前の灯を想起させるか細い声だ。
サタンは音声のした方へ視線を落とす。地を這う芋虫のように、眼鏡の男が首だけを動かして悪魔王を睨め上げた。瞳から涙が伝う。
「殺るなら、ぼくを殺れ!」
唇を震わせて言う青年に、ほう、とサタンは感嘆の息を漏らす。
「俺の力を知ってなお、こいつを守ろうとするか。理解出来んな。こいつはお前に何の感情も抱いていないというのに。何故そこまで固執する。下等で矮小な虫けら風情が、くだらん発明品を与えられただけで悪魔に恋慕するなど、笑止千万だ」
「それでも、ぼくは彼女を――ッ」
青年の言葉を待たずして、悪魔王は容赦なくベルフェゴールを階下から投げ捨てた。温情も同情も、慈悲も憐憫ですら感じられない、口が裂けるほど不気味な冷笑を顔に刻んで。
「ベル、フェゴールーー!」
青年の叫びが空しく響き渡った。と同時だ。床面に落下し、りんごを潰すような音が響き、次いで硬質な何かを粉砕する言いようのない音が聞こえた。ぐちゃぐちゃと粘着質な音が歯車の咀嚼に合わせて聞こえてくる。
「……死んだか」
やがて不快音がなくなると、青年の姿もまた、跡形もなく消え去っていた。
「楽しそうですね、サタン」
「ああ、ベルフェゴールの領域は心地いい。何故なら――」
突然、時計塔が鳴き出した。重厚な鐘の音が幾重にも折り重なって、ベルフェゴールの死を悼むように重苦しい鎮魂歌を奏でている。
「このカリヨンの音があるからな。わざわざ俺の領域に引きずり込む気にもならんくらい、気に入っている。奴を殺した後に聴くレクイエムは最高だ」
目を閉じて悦に入るサタンの横顔を、ニバスは笑みを崩さずに見つめていた。
「ところでニバス」
「なんです?」
「ルシファーはどうした」
「次の相手が、ベルゼブブですよ」
一瞬、悪魔王の表情が固まった。がすぐさま笑みを浮かべると、「そうか」サタンは目を閉じ、再びカリヨンの音色に耳を傾ける。
果たしてレクイエムはどちらへの葬送曲になるのか。
彼は久方ぶりに賭け甲斐のある死闘を予感していた。
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