3-2

 城の前にはまたも人だかりが出来ていた。

 しかしフードコートとは雰囲気が違う。物々しい喧騒で埋め尽くされている。


「なにかあったのかな?」


 先頭を覗くように、音遠は背伸びしながら言った。

 ――と、人の波のどこからともなく、さざめきのように話し声が聞こえてくる。


「入った人が出てこないって?」

「うちなんて、もう一時間以上も待たされてんだけど」

「もしかして、神隠しなのかな?」

「さっきフードコートでピザ食べてた、大食いの人も出てこないんだろ?」


 大食い? そうか、だからあの時人が集まっていたのか。

 それにしても気になる話だ。城に入ったまま人が出てこないというのは。

 人々がそれを不安がるのも無理はないだろう。サタンが久遠時雨を領域に引きずり込んだ映像は、それだけのインパクトと恐怖を植えつけるに足るものだった。明日は我が身と不安がるのも仕方ないこと。

 動画投稿サイトでも、わずか三日で再生数が一千万を超えたというあの映像。一時期、その話題で持ちきりになり、CGかそうでないかの論争が白熱していた。ちなみに現在は消されているそうだ。

 湊はふと、腕に締め付けられる感覚を覚えた。見ると、音遠が心細そうに抱きついている。森で襲われた時のことを思い出したのだろうか。音遠の体は少し震え、見上げてくる瞳は潤んでいる。

 不謹慎ながら、押し付けられるやわらかな感触に、意外と胸があることを知った。

 場違いで邪な考えを払拭するように、湊は頭を振る。今はそれどころではないのだ。


「ルシファー、これってもしかして……」

『ミナト、あいつが動いたわ』

「あいつ?」

『暴食の、ベルゼブブ!』


 危機感を露わにしてそう吐き捨てる少女の目つきは、いつにも増して鋭かった。


 詳しい話を聞くため、ひとまず湊は人気のない場所へと移動する。広場を迂回し、ちょうど城の裏手にある林に身を隠す。


「ルシファー、人が消えるってのは、一体どういうことなんだ? 俺や他の契約者ならまだしも、一般人だぞ」


 深刻そうに眉間に皺を刻む少女が、城壁を背にして静かに口を開く。


「以前、あなたは私にお腹が空かないか聞いたわよね?」

「ああ、確かそんなこともあったな」

「言いにくいんだけど。私たちの中には、人間を餌にしている者がいるのよ」

「なッ!? 」


 湊はギョッと目を見開いた。驚きのあまり、一瞬心臓が止まりかける。

 見れば、音遠も大きく目を瞠っていた。

 唾を嚥下し、ひとまず気持ちを落ち着かせる。そして、訝りながらルシファーを見た。


「安心しなさい、私はそっちじゃない」


 聞きたかった答えが返ってきて、ホッと胸を撫で下ろす。


「てことは、そのベルゼブブってのが……人を喰うタイプ?」

「そう。でも、人間を消しているのはベルゼブブ本人じゃない」

「どういうことだ?」


 問いかけると、ルシファーはつらつらと説明しだした。

 まとめるとこうなる。

 七つの大罪の悪魔たちは、制約によって物質界では魔力の行使がろくに出来ない。相手が契約者であれば領域に引きずり込むことは可能だが、まったく無関係の人間に対してはそれは不可能だ。

 そこで人間に魔道書を与えるという。大罪の心で繋がった契約者は、膨大な悪魔の魔力を引き出せるようになり、魔法によって物理現象を無視した事象をも引き起こせるようになるのだ。

 とどのつまり、ベルゼブブの契約者が地獄の領域と城内のどこかを繋ぎ、入ってきた人間をそこへ落として悪魔が食料にしている、ということになる。


「――だったら話は早い。さっさと侵入してそいつらを倒すまでだろ」


 立ち上がり、城門に向けて歩き出そうとしたところで湊は腕を引かれた。


「おい、ちんたらしてたら死んじゃうだろ!」

「落ち着きなさい!」


 凛とした声音が高く響く。ピシャリと頬を叩かれるような叱咤に、肩がビクンと跳ねた。滅多なことでは怒鳴られないため、いきなりの大声にはあまり慣れていないのだ。

 少女は深く息を吐く。眉の尻上がり具合から、イライラの度合いが目に見えるようだ。けれど、怒っていてもルシファーはやっぱり綺麗だ。なんて不謹慎ながら思ってしまう。

 湊も深呼吸をし、心を落ち着けた。

 焦りは禁物だ。急いては事を仕損じるという。

 脳内のざわつきが潜み冷静を取り戻した頭の中に、ふと一滴の疑問が波紋を広げた。


「……なあ、どうしてサタンはあの時、誰にも気づかれずに久遠時雨を領域に落とせたんだ? 契約者が側にいたのか? それなら一緒に消えるはずだから、スタジオの人間が異変に気付かないのはおかしいだろ」

「それは、サタンが単独だからよ」

「単独? つまり、契約者がいないってことなのか?」

「そう。悪魔王は単騎。王の特権よ。それに、あいつは領域内からでも闇を伸ばせるの……」


 サタンのことを話し出してから、ルシファーがどことなくよそよそしい感じがする。何かを隠しているような、遠慮しているようなそんな感じだ。


「で、落ち着いたところでどうするんだよ。早くしないと中の人間がヤバいんだろ」

「相手はベルゼブブ。領域に落とされた人間は、もう生きちゃいないわ」

「……冗談だろ」


 少女の一言で、救えるかもしれなかった希望が一瞬にして絶望に塗り変わる。

 呆然として肩から力が抜け落ちた。さらに追い討ちをかけるように、はっきりと少女は首を横に振る。もしかしたら、そんな淡い期待を瓦解させるに十分だった。


「クソッ!」


 城壁に強く拳を叩き付ける。無関係の人間がなぜ死ななければならない。

 湊の心に遣る瀬ない無念が広がっていく。


「ミナト……」


 見返したルシファーの赤瞳は真剣だった。

 何かを決意し、覚悟した時のような鬼気迫る感じすらある。


「あなたに今一度問うわ。過去に人だった『モノ』を、その手で殺める覚悟はある?」

「どういうことだ?」

「ベルゼブブは領域で食した人間を、アンデッド兵として使役できる能力を持っているの。奴がどれだけ喰ったかで、戦闘の難度が大きく変わる」

「それでなんで俺に――」


 覚悟を問うのか、その疑問を口にしようとして湊は気づいた。


「まさか、魔道書?」


 ルシファーは静かに首肯した。


「ベルゼブブと戦いながら、大勢のアンデットからあなたを守りきる自身は、残念ながら私にはない。それくらい強力な相手なの。渡すつもりはなかったけど、あいつが動いたとなれば話は別……」


 めずらしく少女が弱音を吐いている。アスモデウスの時は余裕を見せていたのに。……ベルゼブブはそれほどのやつなのか。自分の身は自分で守れ、そういうことだろうと湊は理解した。


「前の時とは、違うんだな」


 湊の言わんとしていることを察したのか、少女はわずかに顎を引く。

 アスモデウスの時は、魔道書を使わなくても危なげなく勝てた。しかし今回はそうはいかないようだ。


「解った。俺は俺を守るために、覚悟を決めるよ。赤の他人を……殺す、覚悟を」


 決意を口にしたら急に、その責任の重みを背負うことへの不安で気持ちが悪くなってきた。同じ契約者ならまだ仕方がないで済ませられるだろう。

 だが、まったくの無関係の人間だ。そんな簡単には割り切れない。

 しかし、以前もルシファーが言っていた。「殺らなきゃ殺られる」のだ。

 息を大きく吐いて、罪悪感ごと生唾を飲み込んだ。

 顔を上げると、そこにはルシファーがいる。文字通り一蓮托生、運命共同体。本当の意味での同志になる。

 湊は左手を差し出した。魔道書を受け取るために。


「一つ前もって忠告しておくわ。魔道書を手にすることは、大罪に魂を売ることと同義。契約とは罪の重さが違う。所有者はやがて、心を大罪に侵食されていく。立花英嗣の時を思い出して」


 まるで人が変わったように変貌した立花英嗣。瞳の色は赤く、思考も色欲に支配されていた。


「あなたの大罪は『虚飾』。私も虚飾と契るのは初めてだから、正直どうなるかは判らない。『色欲』と違い本能に直結するものではないから、あそこまでの変化は起こらないかもしれない。でも――」


 言いかけた彼女の言葉を遮って、


「覚悟はもう出来てるよ。どのみち殺らなきゃここで全てが終わるんだし。ていうかお前が躊躇してどうするんだ。きっと奴らは俺たちを待ってる。これ以上犠牲を増やすわけにはいかないだろ? お前がベルゼブブに集中できるように、俺も全力で戦う」


 改めて決意を言葉にする湊に、ルシファーは沈痛な面持ちを向ける。力強い眼差しを少女に向けたまま、湊は大きく頷いた。

 見定めるように、赤い瞳が真っ直ぐに見つめ返してくる。

 ややあって、ルシファーは小さく息を吐いた。


「分かったわ。あなたの覚悟、確かに受け取った」


 そう言って彼女は静かに目を閉じ、祝詞のような何かを呟き始める。

 湊の首にかけられた黒い逆十字のネックレスがにわかに輝きだした。淡い紫の光の帯は十字の周囲に文字となって浮かび上がる。やがてそれらはネックレスに重なった。

 発光が収まると、首飾りには契約書と似たような悪魔文字がびっしりと刻み込まれていた。

 次いで、差し出した左手に熱を感じる。燃える紙を逆再生するみたいに、なにもなかった手のひらに本が出現した。

 真っ黒でずしりと重い、辞書くらいの分厚い本だ。


「出た……、これが魔道書」


 湊は恐る恐る開いてみる。音遠も興味深そうに覗き込んできた。

 そこには案の定、またも理解不能な文字が事細かに記されている。


「って、またこれかよ! 俺読めないんだけどッ」

「詠む必要はないわ」


 その言葉に対し、湊は懐疑的な眼差しを向けた。魔道書に書かれている文字を読まずして、いったいどうやって魔法を唱えるのか。


「だってお前、これ詠唱文ってやつだろ?」

「だから言ってるでしょ、詠む必要はないって。この魔道書に記されている長ったらしい文言は、私を媒介にしてあなたへ魔力供給を行うための経路。つまり魔力の受け皿である霊的身体、すなわちエーテル体を繋ぐための術式よ。そもそも、人間が『魔法』を使用することは出来ないの――」


 ルシファーは言う。

 魔術の起こりは遡れば、楽園を追放されたアダムに端を発する。座天使の長であり、神の玉座を囲むカーテンの内側に立つことを許された天使ラジエルがアダムに与えた書物、『セファー・ラジエール』。宇宙創世のあらゆる秘密が記述された書には、神の力の秘密をも事細かに書き記してあった。しかし天使言語で書かれていたため人間には読めない。

 後代に、天使へと転生を遂げるエノクがこれを写して編纂。やがて時を経てエノク書からアブラメリンの書へと昇華され、後にソロモン王の手に渡る。

 アブラメリンの書から知識を得たソロモンは、『ソロモンの鍵』と呼ばれる数冊からなる魔術書を書き上げた。

 簡略化された魔法、『魔術』の始まりだ。

 護符や魔方陣などに描いた神秘象形で異界の扉を開き、呪文によって精霊や天使、悪魔などに働きかける。そうして魔力の器であるエーテル体とそれら高次存在を回路で繋ぐことにより、魔力供給が受けられるようになるのだ。

 魔術とは、そうして魔力制御をすることで擬似的に魔法を真似たものらしい。


「天使や悪魔はその原型。つまり私たちには、印や詠唱が必要ないの。大罪を司っている私たちとの契約者なら、過程をすっ飛ばすことが出来るのよ」

「つまり即発ってわけか。便利だな。それで、俺はどうやって魔法を唱えればいいんだ?」


 尋ねると、堕天使はおもむろに開かれたページの一番上、大文字の見出し部分を指で叩いた。


「魔法名よ。これをただ口にするだけでいいの」


 んー? と湊は目を凝らす。しかし――


「読めないんだけど」

「そりゃそうでしょ、使おうと思って開いてないんだから」

「どういうことだ?」

「この魔道書は意思に反応するのよ。たとえば破壊や殺意、あとは保護欲とかね」言って、ルシファーはちらりと音遠を見た。「結果を得る、現象を起こす。そういった明確な意思や衝動によってこの魔道書は反応し、思い描いた魔法のページが開くの」

「思い描いた?」

「あなたたちの矮小な脳味噌で想像しうる魔法なんて、すでに私たちが生み出しているわ。そうね……試しに放ってみたら?」


 言いながら、ルシファーは湊の背後を指差した。どこまで続いているのか分からない林が広がっている。


「ここで使うのか?」

「とりあえず城門の警備を薄くしないことには、中に入れないじゃないの」


 なるほど、と湊は得心して頷く。それに早くしないと騒動が大きくなり、警察まで動くかもしれない。やるなら、まだ薄い警備な今しかないだろう。


「えーっと、何にしようか……」


 しかし、いきなり言われてもどうすればいいのか分からない。とりあえず何か魔法を……。

 真剣に悩む湊を見かねたのか、少女が助け舟を出してきた。


「とりあえず、タチバナエイジが使ったやつ、やってみたら」


 森での戦闘を思い出す。確か黒い粒子が舞って、その後に爆発が起きた。英嗣は二つ魔法名を口にしていたな。と……そこで気づいた。


「おい待て。こんなところで火なんか使ったら、林が燃えるだろ。俺に放火犯になれと?」

「いちいち煩い男ね。調査に乗り出して城に入られたら、また犠牲が増えるのよ。私は一向に構わないけど、あなたはそれを良しと出来るの? 結局そいつらを処理することになるのはあなたなのよ」


 最もなことを指摘され、湊はぐうの音も出ない。

 内心で自然に謝りながら、頭の中で魔法を思い浮かべた。すると魔道書が淡く輝き、ページが勝手にめくれていく。


「あ、これだ」

「飛ばしたい方に向かって手を出して」


 言われるまま、林に向かって湊は掌を向ける。そして赤く発光する文字を口にした。


黒霧粉塵エヴォルスト


 唱えた瞬間、掌が光り一瞬だけ魔方陣が広がった。不揃いな黒い粒子が無数に手から放たれ、林立する奥の方の木へ向かって飛散する。

 続いてページがめくれ、新たな魔法名が浮かび上がった。


「ネオン」

「え、あ、はい?」

「私のもとへ来なさい」


 音遠はルシファーに言われるままに歩いていく。少女は六枚の翼を巨大化させると、優しく彼女の体を包み込んだ。


「あ、あの、ルシファー様?」


 なんのことか分からなさそうに、おろおろと戸惑いをみせる音遠。


「爆発が起きるから、念のためよ。ミナト」


 促され、音遠の安全が確保されたことを確認。

 湊は頷き、再び魔法名を口にする。


炎牢魔陣ヴィルベンフラム!」


 その瞬間を、湊は見た。黒い粒子が点火し、次々に燃焼が伝播していくところを。刹那的に空気を焼きながら燃え広がり、それは大きな爆発となって周囲を吹き飛ばした。いわゆる粉塵爆発に似た現象のようだ。

 熱風が湊の黒髪を揺らす。炭にも似た焦げ臭さが鼻を突く。爆心地の木々は見事になぎ倒され、十数メートルにわたって大地を焦がした炎が燻っている。

 目の前の光景を、湊は呆然と眺めていた。半信半疑だったが、まさか本当に出来るとは。

 城門の方から、人々のざわつきが聞こえてくる。どうやら音で気を引けたらしい。


「すぐにここへ集まってきそうね。私はひとまず霊体化するから、後はうまくやってちょうだい」


 言うなりルシファーの姿が透明化した。音遠はきょろきょろと辺りを見渡している。


「音遠、ひとまずここから離れよう」

「う、うん」


 湊は音遠の手を引いて、城門前の広場へと戻った――。

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