五日目(3)

「性……同一性……障害……?」


 仄香は、耳慣れない言葉にとても困惑している様子だった。しかも、今までずっと聾唖者の女だと思っていた人間が、突然男の声で喋り出したのだ。冷静でいられるほうがおかしい。

 私は彼女が落ち着きを取り戻すのをじっと待った。仄香が息を整え、次に口を開くまでに要した時間は、一分を優に超えた。


「……つまり、体は男だけど、心は女の子、っていうこと……?」


 私は頷いた。乙軒島に来るまで、これは決して嘘ではないはずだった。


「じゃあ、海のこと、女の子だと思っていいんだよね?」


 そう言いつつも、仄香の表情には隠し切れない不安が表れている。昨夜の生存者の中で望が唯一の男だと思っていたからこそ、仄香は彼が犯人だと断定したのだが、もう一人の生存者である私が男の体を持っているのならば、その前提は崩れてしまう。単純な計算ではあるが、男が二人いるのなら望が犯人だった可能性は単純に半分まで下がる。もし望が犯人でなかった場合、それは取りも直さず、今目の前にいる男――つまり私が犯人ということになるのだ。

 性同一性障害のカミングアウトはただでさえ重い案件であり、こんな極限状況で唐突に明かされて、すぐに受け入れられるわけもない。

 仄香は探るような目つきで私をじっと見る。私はゆったりと頷きながら、手話で答えた。


『私の心は女だよ』


 すると、仄香は少しだけほっとした様子で、再び細かく手を動かし始める。


「そんな大事なこと、どうして今まで黙ってたの?」

『ごめん。隠すつもりはなかったんだけど、嫌われるんじゃないかって怖くて、なかなか言い出せなかったんだ』

「嫌いになんかなるわけないじゃん、海のことを……」


 そう言うと、仄香はおもむろに立ち上がり、その大きな瞳から珠のような涙を零しながら、私に抱き付いてきた。


「助けてくれてありがとう。私、怖かった……嬰莉ちゃんや霞夜ちゃんや綸ちゃんみたいに、私も望に殺されるんじゃないかって、とても怖かった」


 私は戸惑いながらも、仄香の小鹿のように細く頼りない体を包み込むように抱き留める。部屋着のTシャツの胸元が仄香の温かい涙で濡れ、心の奥底まで染み込むようなその涙の温かさに、私は殺人などより遥かに重い罪悪感を覚えた。

 誰よりも愛しく、誰よりも大切な仄香を、私は最後まで欺いたのだ。


 それから私たちは、リビングに移動して、ゆったりと映画を見ながら過ごした。

 柔らかいソファに並んで座り、五人もの人間の命が失われた館で呑気に映画鑑賞。傍から見れば不謹慎な行為かもしれない。しかし、疲れ切った仄香には最早悲しむだけの精神的余裕も残されておらず、休息と気分転換を欲していたのだ。

 昨日までは、ソファで項垂れながらも恐怖と緊張のためずっと気が張り詰めていた仄香だったが、今日は心から寛ぎリラックスしているように見えた。昨日の時点ではまだ殺された錦野が犯人だという確証がなかったが、望が死ぬ間際に仄香を襲ったことで、彼女の中では望が三人を殺した犯人だったという確信が持てたからだと思われる。


 映画はフランスの恋愛もの。少し古い映画ではあったが、アクションやサスペンス要素は皆無、耽美で繊細な心理描写と美しい風景が印象的で、とても穏やかな気持ちで鑑賞することができた。敢えて俗な表現を用いるならば、『癒し』だろうか。

 エンディングを迎え、画面が暗転してスタッフロールが流れ始めたところで、ふと隣を見ると、仄香はいつの間にか小さな寝息を立てていた。今にも私の肩に凭れかかって来そうな、ひどく不安定な姿勢で。

 細く柔らかい黒髪と長い睫毛、均整のとれた鼻筋、薄く小さな唇――私の手は我知らずその唇に伸びていた。私の世界に音を返してくれた、姉と同じ優しく清らかな声は、いつもこの唇から奏でられるのだ。

 緩やかなリズムで上下する肩。唇に触れても仄香は目を覚まさなかった。ほんの少し力を込めたら潰れてしまいそうな、ゼリーのように脆く柔らかい唇の感触。これ以上触れていたら気がおかしくなってしまいそうだ。私は慌てて手を下ろして仄香の姿勢を直すと、ソファを離れてバルコニーへと向かった。


 リビングの窓から見える海はとても穏やかで、ここ数日の荒れ模様が嘘のように静まり返っていた。柔らかい光が差し込む窓を開けると、湿気と熱気を帯びた潮風が室内に流れ込んでくる。冷房の効いた室内に比べれば外気温はかなり高いが、都内の篭もったような暑さに比べたら、この潮風はずっと肌触りが良い。

 だが、地上へと目を転じれば、砂浜には波によって打ち上げられた無数のゴミが散乱しており、数日前仄香たち四人がスイカ割りをしていた時の落雁のように白く美しい砂浜の面影は微塵も残されていなかった。


 仄香との二人きりの時間を楽しみつつも、私は心の内で怯えていた。錦野の話によれば、こちらからの連絡がないことを心配した最寄りの島の住民が、遠からず乙軒島にやってくる。私と彼女の時間はその瞬間に終わるだろう。五件もの殺人が起こったこの島には警察官が大挙して押し寄せ、私と仄香は重要参考人として身柄を拘束される。そして、私はそれ以降二度と彼女に会えないかもしれない。仮にもう一度顔を合わせる機会があったとしても、三人を殺した犯人が私であることを知ったら、仄香は絶対に私を許さないだろう。

 だから、美しく青い海を眺めながら、私はその向こうに小さな船影が見えはしないかと、何度も目を凝らした。きっと、このひと時が、私に残された最後の時間だから。


 だが、この日は幸い、乙軒島への来訪者はなかった。

 他の島でも今回の台風による被害への対応に追われていて、まだこちらまで気を回す余裕がないのかもしれない。現に、台風上陸前に錦野が家庭菜園に設置していた防風用のビニールハウスは、ビニールが破損したり骨組みが曲がっていたり、中には骨組みごと吹き飛ばされているものもあった。中の野菜や花がどうなっているかは言わずもがなである。二人の時間に僅かな猶予が与えられたことを、私は密かに喜んだ。


 しかし、カップラーメンで軽めの夕食を摂った後、仄香が発した一言によって、私の心は凍り付いた。


「ねえ、海。今夜も一緒に寝てくれるよね?」


 一日の猶予が与えられたということは、もう一晩、彼女と一緒に過ごすということでもある。それが嫌なわけでは決してないのだが――。私は手話で彼女に答えた。


『私は構わないけれど、でも、私の体は男なんだよ? それでもいいの?』

「昨日も一昨日も、この島に来てから今までずっとそうだったじゃない。だから、私は気にしないよ」

『でも……』


 本当は、君を異性として意識している。

 同じベッドに入った君を襲ってしまいそうで、私は君が眠りにつくとすぐに部屋を出ていた。そして、抑えきれない性欲を、あの三人にぶつけてしまったのだ。

 しかし、それを言ってしまったら、私の心が既に女ではなくなりつつあることに、仄香は気付いてしまうだろう。あと少し、乙軒島にいる間だけは、このままでいたかった。


 だから私は、仄香の提案を受け入れた。

 昨日までと同じように、彼女が眠るまで耐えきって、気付かれないように部屋を出ればいい。それぐらいの我慢なら、今の私にもできるはず。


 そしてその夜、私たちはここ数日と全く同じように、仄香の部屋のベッドに入った。


 だが、仄香は全く眠る気配がなかった。

 寝返りを打つこともなく体をこちらに向け、目はずっと瞑っているのに、呼吸はいつまで経っても寝息のリズムに変わらない。私は彼女を視界に入れないように仄香に背を向けて寝ていたが、閉じられているはずの彼女の瞳から、背中に貼り付くような視線を感じていた。リビングで昼寝したせいで目が冴えているのだろうか。昼過ぎにソファで眠り始めた彼女は、結局夕方近くまでそこで眠りこけていたのだ。

 今日は長期戦になりそうだ――そう思い始めたころ、突然、仄香が耳元で囁いた。


「ねえ、海……」


 驚きのあまり私の体は大きく震え、次の瞬間には、仄香の細い腕が私の体に絡み付いていた。


「こっちを向いてよ、海」


 言われるままに寝返りを打ち仄香の方を向くと、彼女の顔はすぐ目の前にあり、大きく見開かれた双眸が私の顔に向けられていた。部屋の照明はもちろん消えており、窓から幽かな月明かりが差し込むばかり。それでも、彼女の瞳の輝きだけは明瞭に視認することができた。

 仄香は言った。


「やっぱり、聞こえるんだね、耳」


 私は思わず息を呑んだ。そう、彼女に背を向けていた私には、彼女の手話は絶対に見えない。それなのに、言われた通りに彼女の方を向いてしまったのである。

 迂闊だった。仄香の体から発せられる女の匂いに正常な判断力を失った私は、自分が聾唖者であるという嘘を、最後に忘れてしまったのだ。


「海……ねえ、私はいったい何を信じればいいの……? 仲良しだと思ってたクラスメイト達は本当は友達じゃなかったし、あなただって、本当は耳が聞こえているんだとしたら……私は……誰を……」


 彼女の声には徐々に嗚咽が混じり始め、それに続く言葉を正確に聞き取ることができなくなっていく。小さく肩を震わせる彼女の体を、私は全く無意識のうちに抱き寄せていた。


「仄香……」


 今更聾唖者のフリをしても仕方がない。私はまだ不安定な喉を使い、覚束ない声で彼女の名を呼んだ。しかし、私の胸に顔を埋めながら静かに泣き続ける仄香に、それ以上かける言葉が見つからなかった。誰よりも彼女を裏切っているのは私なのだ。死んだあの四人などとは比べ物にならないほどに罪深く。

 私にとって仄香は最も大切な存在。闇に閉ざされていた私の心に、太陽のように明るく、月のように優しく、一筋の光を与えてくれた。だからこそ、彼女との関係を壊したくなかった。他人に対してこんな感情を抱くのは初めてのことだった。


 もしかしたら、本当は気付いていたのかもしれない。

 私にとって彼女は単なる同性の友人ではないということに。


 そして、まるで私の思考を見抜いたかのような彼女の一言が、私の心に突き刺さる。


「私、もう嘘は嫌。他の誰も信じられなくなったとしても、あなたのことだけは信じたい。だから、海、正直に答えて。あなたは、あなたの心は、本当に女の子なの……?」

「……!」


 私は絶句した。今この状況、この心理状態で、いったいどう答えろというのか。彼女の柔肌を抱いた私の体は、既に顕著に反応し始めているというのに。仄香はさらにたたみかけるように言う。


「私は、あなたのこと、特別な友達だって思ってた。ここに連れて来た四人よりずっと。同い年とは思えないぐらい落ち着いてるし、大人っぽいし、とっても物知りだし……私にはないものを、あなたはいっぱい持ってる。皆の前で手話で話すのだって、堂々と内緒話してるみたいで、私はすごく楽しかった。ねえ、何もかもが違うのに、私たち、こんなに仲良くなれたんだよ。障害があろうがなかろうが関係ない。あなたが本当は男の子だったとしても、私はあなたのことが好き。だから、あなたにだけは嘘を吐いてほしくないの」

「わ、わたし、は……」


 私の腕の中から、涙に濡れた瞳で見上げる仄香に、私はとめどない愛おしさを覚えた。これまで味わったことのない温かい感情が、マグマのように勢いよく湧き上がってくる。

 

「私、今までどんなことでも隠さずあなたに話してきた。私も、あなたのこと、全て知りたい。それがどれほど残酷なことだったとしても」


 私は、彼女への返答の代わりに、彼女の小さな唇に触れた。もうその欲求を止めることはできなかった。

 マシュマロのように柔らかい唇の感触。絹のように滑らかな肌は、しっとりと汗ばんでいる。私は彼女の頬を撫で、指先で涙の痕を拭う。


 ゆっくりと目を閉じた仄香に、私は囁きかけた。


「私は、君を愛するのが怖かったんだ」



!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i!i



 そして、水平線の向こうでかすかに白み始めた空を眺めながら、私は自分のスマートフォンにこの手記を残している。

 隣で安らかに寝息を立てる仄香。これまでの時間を埋めるように、私は仄香に激しく愛情をぶつけ、彼女はあるがままの私を受け入れてくれた。


 愛する女性との行為は、ただ性欲を発散させるためだけに犯した三人への行為とは全く異なっていた。死体を犯す行為は、たしかに一時的に欲求は満たすことはできたが、時間の経過と共に我に返ると、絶え間ない虚無感と疲労感が襲い掛かってきた。


 だが、仄香との行為には愛があった。それは私からの一方的な押し付けだったかもしれないけれど、少なくとも、仄香は私を拒まなかったし、全てを受け止めてくれた。

 彼女の反応を見るのも楽しかった。死体の温度は時間の経過に比例して急激に下がっていったけれど、仄香の体は感情の高揚に伴って次第に熱を帯び、頬は熟れた果実のように紅潮してゆく。仄香の声は普段の彼女からは想像もできないほど艶めかしく、喜んでいるような、泣いているような不思議なその声色は、私に愛し合うことの歓びをもたらしてくれた。


 事ここに至って、私はようやく思い知った。

 あの三人に対して犯した行為は、何の意味もなかった。代償行為にすらなっていなかったと。

 もっと早く、彼女に全てを打ち明けていればよかったのだ。

 そうすれば、きっと――。


 そして、ひとしきり行為を終えた今、私を支配しているのはやはり罪悪感だった。

 仄香を汚したくないから、その代わりにあの三人を殺し、犯したのではなかったか。仄香は処女だった。罪深いこの私が、一生消えない痕跡を彼女に刻み付けてしまったのだ。


 だから私は、今のうちに、仄香が目を覚ます前に、この部屋を出て、屋敷を出て、あの蒼く広大な海に沈もう思う。私と同じ名前を持つ、母なる海へと。

 これほど大きな罪を犯しながら、最後にありのままの姿で彼女を愛することができた私は、とても幸福だった。


 誰よりも愛しい仄香へ。

 ごめんなさい。そして、さようなら。

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