五日目(2)

 両手の手のひらから伝わる鈍い感触。

 ゴン、と重い音を立てて、ガラスの花瓶は望の後頭部を直撃した。望は『うっ』と低く呻くと、ぼんやりとこちらを振り返り、焦点の合わない目で私を睨みながら呟く。


「いたのか……お前……」

「あああああああああ!」


 意識朦朧としている望の頭部へと、私は獣のような雄叫びを上げながら、何度もガラスの花瓶を振り下ろした。美しいロカイユ装飾の施された透明な花瓶が、望の頭部から滲む血によって赤く染まってゆく。二、三度目で既に望は動かなくなっていたが、ガラスの花瓶が割れるまで、およそ数十回に渡って、私はその後頭部を繰り返し殴打しつづけた。

 仄香の上にぐったりと倒れ込んだ望の体を、私は粗大ゴミのように思い切り蹴飛ばして、仄香の体から引き剥がす。ガラスの破片にはべっとりと血がこびり付き、床の絨毯には、望の頭部から飛び散った血が点々と赤い染みを作っていた。望の男にしては長い亜麻色の髪も血に染まり、まるでアニメのキャラクターのように鮮やかな二色に染め分けられている。


 これで、乙軒島の生存者は、私と仄香の二人だけになった。


 望に組み敷かれ呆然としていた仄香が、傍らに立つ私の姿に気付いたのは、私が望の死体を蹴飛ばした直後のことだった。

 仄香は完全に意識を失っていたわけではなかった。友人に裏切られたことによる悲しみと、自分もまた他の三人と同じように汚された挙句殺されるのではないかという恐怖に耐え切れず、彼女の精神は一時的な解離状態になっていたのだ。

 だが、仄香の大きな瞳には望を殺す私の姿がはっきり映っていたし、私の声を聞いてもいた。


 掠れ気味の、今にも消え入りそうな声で、仄香は私の名を呼ぶ。


「うみ……ちゃん……?」


 そう。私の名はうみ。正確な読み方はかいである。女として生活するようになってから、より女性的な響きのある、訓読みの『うみ』と名乗るようになったのだ。

 仄香はゆっくり体を起こし、隣に転がっている望の死体を見ると、大きな瞳をそっと伏せ、悲しげに言った。


「海が、私を助けてくれたんだね……ありがとう。でも……」


 望の死体からこちらへ視線を転じた仄香は、今度は困惑した表情を浮かべ、両手を素早く動かし始める。


「あなた、普通に声が出せるの……? それに、さっきの声、まるで男みたいな……」


 仄香の両手は、彼女の言葉と全く同じ意味を持つ動作――つまり手話――を行いながら言った。

 そう、彼女がずっと細かく手を動かしながら続けていた行為、それは手話だった。仄香は、皆の会話を手話で通訳しながら、私たちの間にしか通じない手話を使って、そのとき思ったこと、考えたことなどを、他の誰にもわからないようにこっそりと、私にだけ伝えてくれていた。私が彼女の視点に沿って乙軒島での出来事を綴ることができたのは、ひとえにこの秘密の会話手段のおかげである。


 しかし、声を聞かれてしまった以上、もう演技を続けることはできない。 

 私は自分に可能な限りの優しい声色で語り掛ける。


「仄香……」


 その瞬間、仄香の表情が凍り付いた。

 私の声は、男の中でもとりわけ低い部類に入る。仄香にはもっと柔らかい声をかけたかったのに、数年ぶりにまともに使う喉からは、掠れ気味のぎこちない声しか出すことができなかった。





 私の姉が死んだのは、私が九歳の時だった。

 姉は当時中学生。容姿端麗、才色兼備。都内でも指折りの進学校でトップの成績を収め、気分転換に始めたバドミントンでは国体に出場。幼い頃から習っていたピアノでは、ショパン国際コンクールにまで出場した。

 姉はどこから見ても完璧な人間だったし、そんな姉に、両親も大きな期待をかけた。その一方で、成績も学校での授業態度も決して良好とは言えず、全てにおいて姉より劣っていた私は、疎まれこそしなかったものの、姉と同じようには愛してもらえなかった。両親の愛情の比重は明らかに姉へと偏っていたのだ。

 だが、そんな家庭環境の中でも、姉は誰より私に優しかった。不器用な私を蔑むことも、理不尽な理由で怒ることもない。だから、幼い頃の私は、姉のことが本当に大好きだった。しかし、何かにつけて姉と比較され、周囲の大人に落胆されるたびに、私の姉に対する感情は少しずつ変化していったのだ。

 内心では憧れつつも、劣等感が憎しみの芽を育て、素直に甘えることができなくなって、最愛の姉との間に距離が生まれてゆく。姉が悪いわけではない。頭ではそう理解しつつも、どうしたらいいかわからずに、私は姉に対しても冷たく接するようになった。


 そんなある日、姉がトラックに轢かれて死んだ。

 学校からの帰り道、居眠り運転の大型トラックが、赤信号の交差点に猛スピードで突っ込んできたのだ。運転手は労働法で認められている範囲を遥かに超えた超過勤務。姉の遺体は損壊の度合いが激しかったらしく、私が次に姉と会った時には、彼女は既に火葬を終え、小さな骨壺の中に納められていた。

 両親は期待をかけていた姉の突然の死に嘆き悲しんだ。そしてある時、私の母は、泣き腫らした目で私を睨み付けながら、ぽつりとこう言った。


「あの子じゃなくてお前が死ねばよかったのに」


 父親はすぐに母親のその言葉を咎めたし、後日、母親も『あの時はどうかしていた』と私に謝罪した。しかし、私の心にはこの一言が癒えぬ生傷となって、絶え間なく血を流し続けているのだ。


 私が姉の代わりになろうと決めたのは、姉の死後一週間ほど経った頃。

 きっかけはほんの気まぐれだった。ふと思い立って、姉の部屋に入ってみたのだ。

 姉の部屋は、帰らぬ主を待ち続けているかのように、生前と全く同じ状態で保たれていた。通っていた中学の制服や参考書、鏡のように磨かれたアップライトピアノ、使い込まれてところどころ傷がついたバドミントンのラケット。

 そこにあるもの全てに姉の匂いや痕跡が染み付いていて、私の脳裏には、優しかった姉の記憶がまざまざと蘇ってきた。姉に対して劣等感を抱くようになってから、素直に姉と接することができず、時には激しい言葉をぶつけたりもした。だが、大人げない私の態度にも、姉は怒ることもなく、優しく、時に悲し気な眼差しで私を見つめるだけ。何を言っても全く動じない姉の態度に、私は見下されているような気がして、さらに劣等感を抱いたのだ。

 私は激しく後悔した。どうしてもっと素直に姉と接することができなかったのだろう。姉は何も悪くないのに。そして、それを謝罪し仲直りする機会は永遠に失われてしまったのだ。


 主のいなくなった部屋に入り、何気なく姉が使っていた化粧台に座ると、そこには、私も姉もまだ幼かった頃の、数年前の家族写真が立てられていた。母に抱かれて微笑む私と、父に手を引かれて佇む姉。偶然にも当時の私と同じ年頃、髪型も同じショートカットで、写真の中の姉は、私と瓜二つだった。


 最初はほんの思い付きだった。私は姉のタンスから、姉が普段よく着ていたワンピースを取り出し、袖を通してみたのだ。

 いくら顔が似ていても、中学生の姉と小学生の私とでは体の大きさが違う。肩幅は合わないし、スカートの裾は長すぎて、歩くと床の上を引き摺ってしまった。しかしそれでも、鏡を見れば、姉の服に身を包んだ私は、生き写しと言っていいほど昔の姉によく似ていた。

 当時の私は精神的にも普通の男の子だったし、女装にも全く興味がなかった。でも、姉の服を身に着けることで、もう永遠に会うことのできない姉が、鏡の向こうに確かに蘇ったのだ。私は滂沱の涙を流しながら、鏡に向かって謝り続けた。

 以来、私は度々姉の部屋に入って姉の服を着るようになった。それを何度も繰り返すうち、ついに、偶然姉の部屋の前を通りかかった両親に、女装した私の姿を見られてしまったのである。


 姉の服を着た私の姿を見て、父親は渋い顔をしていたが、母親はまるで本当に姉が生き返ったかのように、涙を流して喜んだ。それは、姉の死後精神を病み始めていた母親が久しぶりに見せた笑顔だった。

 身を屈めて私の小さな体を抱き、姉の匂いが染み付いたワンピースを涙で濡らす母。私は少し困惑しながらも、心の底から沸々と湧き上がる喜びを自覚していた。ずっと姉を偏愛していた母が、ようやく私の方を向いてくれたのだ。


 それから私は、度々姉の服を着て過ごすようになった。母はそれを大いに喜んだ。

 父は当初私の女装をあまり良くは思っていない様子だった。が、姉の死後ふさぎ込むようになり精神に変調をきたし始めていた母が次第に回復していく様子を見て、渋々ながらも黙認することにしたらしかった。

 母は、捨てずにとっておいた姉の昔の服を何着も物置から引っ張り出してきて、とっかえひっかえ私に着せようとした。私もそれを拒まなかった。私がそれを着ることで、もはや記憶の中にしか存在しないはずの姉に会うことができたし、何より、母が喜んでくれるのが嬉しかったからだ。


 姉の死後一月ほど経った頃には、家では毎日姉の服を着て過ごすようになっていた。姉と同じように髪も伸ばすことにした。そして、ついには学校にも姉の服を着て通うようになった。当然クラスメイト達からは奇異の目で見られたが、私は全く気にならなかった。

 少しでも姉に近付こうと勉強も頑張ったし、授業態度も改めた。それまで全く縁がなかったピアノを習い始め、姉のラケットを使ってバドミントンにも取り組んだ。いずれも姉のレベルには遠く及ばなかったものの、それなりの成果はあった。たとえば、テストの成績に関しては、クラスの上位5人ぐらいには安定して入れるようになったのだ。

 私が女装して学校に通うようになって、担任の教師も初めは訝しむような目で私を見ていたが、私の変化を目の当たりにして、態度は少しずつ変わっていった。


 この頃から、姉の代わりになること、全てにおいて姉と同化することが、私の生きる目的になった。クラスメイトからの虐めなどの些細な問題はあったものの、それは概ね上手くいっていた。

 だが、私が小学校高学年に進んだ頃から、破綻が始まった。


 姉と同じように髪を伸ばした。

 姉と同じ服を着た。

 姉と同じように、とはいかなかったが、テストの成績は確実に向上していた。

 しかし、努力だけではどうにもならない変化が、私の体に起こり始めたのだ。


 それは、声。


 変声期を迎え、私の声は急激に低くなっていった。いくら姿形を姉に似せようと努力しても、声を発すると、途端に姉とは別人になる。体の変化は勿論それだけではなかったが、声以外のことは自力でどうにか克服できた。しかし、声だけは、やはりどうしようもない。

 私が喋ると、母は夢から醒めたように悲しい顔をする。父は私の声変わりをいい機会と捉え、この歪な状態をやめるよう、私と母の説得を試みた。だが、母の精神は未だ姉の死という重い現実を受け止めることができていなかったし、私自身も以前の自分に戻りたいとは思わなかった。私が姉の代わりになることで、全てが上手くいっているのだ。


 声を出すのが怖い。

 だから、私は唖になった。


 当初はただ声を出さずにいるだけだったので、心因性の失声症と診断された。だが、種々のストレスが少しずつ私の心身を蝕み、また自分の声が怖くなった私は、心因性の難聴を併発し始めた。クラスメイトからのいじめもエスカレートし、周囲とのコミニュケーションが難しくなった私を、両親は聾学校に転校させた。止むを得ない措置だったとはいえ、それは姉を目標にして生きてきた数年間を全否定されたようなものだった。


 不本意な転校だったとはいえ、聾学校での日々は決して悪いものではなかった。周囲に理解を求める必要もなく、いじめに遭うこともない。私の失声と難聴が心因性のものであると教師も同級生たちも理解してくれていたし、性同一性障害――診断上はそういうことになっているらしい――についても寛容だった。本来ならどの社会でも当たり前であるはずのことが、私にとっては天国のように思えた。


 仄香と出会ったのは、去年のことだった。仄香は、私が通っていた聾学校に、NPOのボランティアの一人として訪れたのだ。

 私はボランティアというものが嫌いだったし、今でもそれは変わらない。親切ぶった顔で近付いてきては、憐れむような目で私を見下し、頼んでもいない善意を押し付けて悦に入る。だから、それらNPOと共に仄香が私たちの学校にやってきたときも、私は彼女の方を見ようとすらしなかった。適当に相槌を打って感動ポルノの善意レイプをやり過ごしながら、さっさと家に帰りたいと思っていたのだ。

 だが、仄香が私のところへやってきて口を開いた瞬間、全てが変わった。


「あなたが、海ちゃん――?」


 私の名を呼ぶ彼女の声が、生前の姉の声と完全に同じだったから。

 そう、私は仄香の声を聞くことができたのだ。心因性の難聴が悪化し、その頃には既に周囲の音がほとんど聞こえなくなっていたはずの私の耳に、彼女の、まるで蟋蟀のように優しく、そして儚げな声が、川のように流れ込んできた。

 驚いて顔を上げると、そこには、それまでに見たこともないほど可憐な少女の笑顔があった。とても美しい、と私は思った。しかし、何よりも私の心を射貫いたのは、その健康的に整った顔立ちではなく、あの優しかった姉を連想させる、向日葵のように屈託のない笑顔だった。顔の造形が似ているわけではない。それなのに、仄香の微笑みは何故か、瞼の裏に焼き付いた在りし日の姉の笑顔と重なっていた。


 それから、私と仄香の距離は急激に縮まっていった。彼女からも積極的にアプローチを受けたし、私も彼女のことをもっと知りたかったから。

 仄香が聾唖学校にボランティアに来たのは結局その一度きりだったが、私たちはLINEで毎日連絡を取り合って友情を深め、時々会って遊んだりもした。仄香自身、あれが初めてのボランティア活動だったそうだが、あのNPO団体の空気に馴染めず、それっきりになったらしい。だから、私が性同一性障害であることを彼女は知らされずにいたし、私から積極的に明かそうともしなかった。私は純粋に同性の友人として仄香を見ていたし、これからもずっとそのつもりだったからだ。


 女として生きるようになってから、初めてできた親しい友達。聴力をほぼ失っていた私の耳でも、仄香の声だけは、明瞭に聴き取ることができた。しかし、私はそれを誰にも明かさなかった。覚えたての手話でどうにかコミニュケーションを取ろうとする彼女の姿が、たまらなく愛おしかったから。

 仄香と接するようになって、私の耳に驚くべき変化が起こり始めた。彼女の声が刺激になったのか、失われていた聴力が少しずつ回復し始めたのだ。だが、私はそれも、誰にも話さなかった。聴力や声が回復したら、私の体が男であることを知ったら、仄香との関係が壊れてしまうのではないか。それが怖かったのだ。


 これらの小さな嘘の積み重ねが、結果として、この惨事を引き起こしてしまった。自分の中で起こり始めていた変化に、私自身気付くことができなかったのだから。


 仄香はよく仲の良い友人たちの話をした。望、嬰莉、霞夜、綸。今回乙軒島に招待されたメンバーである。そして、仄香は私にもっと友達を増やしてあげたい、と言って、私と彼女達を引き合わせようとした。それが、私が四人と共にここに招かれた理由だ。

 だが、沖縄本島への直行便に乗るため羽田空港で合流した際、仄香が私を紹介した直後の、四人の若干気まずそうな空気。私は、こいつらは仄香が思っているほどいい友人ではないと確信した。無理だったのだ、私に仄香以外の健常者の友人を作るなど。

 そこですぐに帰っていればよかった。でも、そんなことをしたら、きっと仄香は悲しむだろう――そう思い、多少の居心地の悪さは我慢して、ついてくることにした。


 乙軒島に着いて他の四人が部屋割りを決めている最中、私は仄香に、私の部屋はどうなるのかと手話で尋ねた。すると、彼女は屈託のない笑顔でこう答えたのだ。


『海は私の部屋で一緒に寝ることになってるよ。部屋も足りないし――それに、何か起こった時、手話を使える私が近くにいた方がいいでしょ? 大丈夫、私の部屋のベッドは広いから、二人で寝ても全然平気』


 仄香と同じベッドで眠る。彼女の提案に驚きはしたものの、その時はそれ以上深く考えなかった。どちらかといえば、彼女と一緒に過ごす夜を楽しみに感じていたかもしれない。よもや彼女を異性として、性の対象として意識することになるなんて、思ってもみなかった。


 今更こんな後悔を述べたところで、どうにもならない。私は仄香の四人の友人たちを殺してしまった。望を除く三人に対しては、極めて残忍で悍ましい方法で。

 警察が来れば、私の罪はすぐに露見するだろう。だが、せめてもう少しだけ、彼女と二人だけで過ごしたい。


 だから私は、それまで隠し続けてきた秘密を一つ打ち明けるかわりに、新たにまた一つ嘘をついた。気味の悪い自分の声ではなく、これまでと同じように手話を用いて。


『今まで黙っててごめん、仄香。私、生まれた頃から、性同一性障害なんだ』

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