四日目(2)

「大丈夫? ほんとにごめんね……望を傷つけるつもりなんて全然なかったのに」


 鳥肌が立ちそうなほど気味の悪い綸の猫撫で声。錦野の死体に跨り、狂ったような金切り声を上げていた彼女からは想像もつかない、穏やかな口調である。


 全身に夥しい量の返り血を浴びた綸は、錦野の部屋を出るとすぐ自分の部屋に戻り、一時間以上もかけてゆっくりシャワーを浴び、服を着替えてリビングに戻ってきた。錦野の血は綺麗に洗い流され、鼻をつく鉄の臭いもすっかり消えて、綸の体からはボディーソープとシャンプーの柔らかい香りが漂ってくる。乾きたての綸の髪は、まるで何事もなかったかのようにつやつやと輝いていた。

 さっきまではボーダー柄のパジャマ姿だったが、今は黒いタンクトップとデニムのショートパンツを身に着けている。血まみれになったパジャマは、おそらくそのままゴミ箱にでも突っ込まれているのだろう。人を殺して返り血を浴びたパジャマを再び着る人間などいないはず、それが殺したくなるほど生理的に嫌悪感を覚える相手の血ならば尚更である。


 綸は戻ってくるなり、望の顔の傷の手当を始めた。包丁を振り回して暴れていた際、それを止めようとした望に誤ってつけてしまった頬の傷である。

 望の頬の傷は長さ五センチほど。あまり深くはないようだが、なにしろ目立つ場所のため、非常に痛々しい印象を受ける。綸はリビングのチェストから救急セットを取り出し、中にあった消毒液を傷口に吹き付けると、その上に滅菌ガーゼを被せ、サージカルテープで貼り付けた。


「はい、これで大丈夫なはず……望のきれいな顔に、傷が残らないといいな……」


 綸は望の頬を撫でながら、うっとりとした表情で言った。狂気じみた視線はどこか虚ろで、綸の精神状態の危うさをその声色以上に物語っている。不安のためか必要以上に接触したがる綸を、望はややけむたがっているように見えたが、今の綸を刺激するのは得策ではないと考えたのか、黙って綸のされるがままになっていた。

 疲労困憊の仄香は、リビングの大きなソファにぐったりと凭れていた。朝起きてすぐ霞夜の遺体を発見し、そのショックも癒えぬうちから、仄香の目の前で錦野が綸に殺された。その巨体は無惨にもズタズタに切り裂かれ、臓物が露わになっていた。嬰莉や霞夜の場合とは違う意味で、極めて凄惨な殺害方法だったと言っていい。

 乙軒島に到着した直後の錦野の愛嬌のある笑顔が思い起こされる。状況的に最も疑わしい人物だったとはいえ、死んでしまうとやはり悲しいものだ。仄香には既に泣く気力すら残されていなかった。

 おそらく望も仄香と同じ心境で、昨日より一層重い表情で押し黙っている。元気なのは綸だけだった。寧ろ躁状態と表現したほうが的確かもしれない。二日続けて友人の死体の第一発見者となった綸だって、神経は相当衰弱しているはず。だからこそ、その恐怖に耐え切れずに凶行に走ってしまったのだ。

 しかし、錦野が犯人だったという証拠はどこにもない。もしも錦野が犯人でなかったとしたら――その恐怖と罪悪感がせめぎ合い、無理にでも明るく振る舞っていないと正気を保てないのであろう。それが理解できるだけに、仄香もあまり綸を責める気にはなれないのだった。


 昼間は一瞬のうちに過ぎた。

 朝が遅かったせいもあるが、皆気分が優れず、リビングでただただぼうっとするばかり。グロテスクな姿になった錦野の姿が脳裏に焼き付いて、食欲も湧かない。朝食も昼食も摂っていなかったが、全く話題に上らなかった。

 風と雨の勢いは、昨日と比べると幾分弱まっているように感じられる。このまま天候が予報通りに推移するとすれば、明日には雲も晴れるだろう。昨夜から今朝にかけて、新たに二人もの命が失われた喪失感はもちろん大きかったが、天候の回復にある程度の見通しが立ったことは、微かな安堵感を齎した。

 台風が過ぎ去れば、近くの島から助けが来るはず。具体的にこの惨劇の終わりが見えてきたことは明るい兆しだった。こんな状況で不謹慎だとは思いつつも、仄香は少しほっとしていた。口にこそしなかったが、おそらく望も同じ心境だろう。もし錦野が嬰莉と霞夜を殺した犯人ならば、既に脅威は取り払われているのだし――いや、錦野が犯人でなければ困るという、それは願望に近いものだった。


 その日の昼から午後にかけては、暗黙の安堵と拭いきれない不安、その二つが綯い交ぜになった、極めて曖昧で気怠い空気がリビングを支配していた。


 そして夕方になると、さすがに空腹を覚え始めた。朝から何も口にしていないのだから無理もない。しかし、管理人兼シェフであった錦野も、昨日の夕飯を作った霞夜も既にこの世の人ではなく、残されたメンバーの中に料理が得意な者はいなかった。


「どうする……? 仄香、料理とかできる?」


 望が苦笑しながら尋ねたが、仄香も苦笑を返すことしかできない。


「……だよねえ。どうしようか。まあ、正直そんなに食欲あるわけでもないけど……」

「あたしがやるよ、ご飯の支度」


 と、綸が努めて明るい口調で名乗り出た。

 しかし、仄香と望の顔には苦笑が浮かんでいた。錦野を相手に包丁を振るっていたときの綸の手つきは非常にたどたどしく、料理と殺人が全く異なるものであるとはいえ、綸が包丁の扱いに慣れているとはとても思えなかったのだ。それに、今の綸に刃物を持たせるのは危険かもしれない、と仄香は考えた。気分が不安定なときほど思わぬミスが起こるものだし、そもそも料理が不慣れならば尚更だ。

 望が心配そうに声をかける。


「……大丈夫? いや、無理しなくていいよ、別にわざわざ料理しなくたって、あと二、三日ぐらいだったら食べるものはあるはずだし……」

「大丈夫だってば。料理ぐらい、あたしにもできるんだから。じゃあ、少しここで待っててね」


 綸は快活にそう言うと、軽い足取りで台所に向かった。

 本当に大丈夫だろうか――仄香と望は何とも言えない表情で再び顔を見合わせる。


 そして数分後。案の定、キッチンから綸の悲鳴が聞こえてきた。


「いっっつっ!!」


 ああ、やっぱり。

 望は『それみたことか』と言わんばかりに口辺を歪め、救急セットを持って台所へと走って行った。仄香もすぐに望の後を追い、台所へと向かう。


 台所に着くと、キッチンのワークトップには、まな板の上に乗せられたゴーヤと、その近くに投げ出された包丁(当然、錦野の殺害に使われた出刃包丁とは別のものである)。そしてまな板の上に点々と、トマトケチャップのように赤いものが落ちている。台所に立つ綸は、ひどく狼狽えた表情で左手の人差し指を押さえていた。


「痛い……痛い……血が……血が出て……」


 言われるまま綸の人差し指を見ると、指先には確かに小さな切り傷があり、僅かな血がたらりと赤い舌を垂らしている。とはいえ、さっき綸が浴びた錦野の返り血の量と比べれば、それは微々たるものだったが――。


「血……血……! いやあああ! あああああああああああああああああ!」


 綸はパニック状態と表現しても過言ではないほどに取り乱し始めた。金切り声を上げ、髪を振り乱しながら激しく首を横に振り、崩れ落ちるようにしてその場に座り込む。

 やはりまだ彼女に刃物を持たせてはいけなかったのだ。望は救急セットから消毒液とガーゼ、絆創膏を取り出し、手早く処置を施した。


「綸、落ち着いて、落ち着いて……。こんなの、大した傷じゃないよ。すぐに血も止まるから。まずは落ち着こう、ね?」


 望が声を掛け、背中をさすりながら優しく宥めると、綸は少しずつ落ち着きを取り戻した。しかし、とても料理を続けられるような状態ではない。望が仄香に目配せし、仄香もそれに頷いて、綸は望に肩を抱かれながらキッチンを出て行った。

 仄香は残されたゴーヤを生ゴミに捨て、こわごわとした手つきで包丁と血のついたまな板を洗い終えると、ひとつ大きくため息をついた。


 どうしてこんなことになってしまったのか――。

 家族との思い出が溢れるこの美しい館で。

 嬰莉と霞夜の命が奪われ、発狂した綸は錦野を殺めてしまった。彼女たちをこの島に連れて来たことを、仄香は激しく後悔していた。殺人事件が起こるなんて思ってもみなかった。高校生活最後の夏、みんなで楽しい思い出を作りたかっただけなのだ。それはいけないことだっただろうか? 


 シンクにぽたりと大粒の涙の雫が落ちる。涙はシンクの表面に張った薄い水の膜に溶け込んで、すぐに見えなくなった。

 ポト、ポト、ポト。

 最早耳を澄ませなければ聞こえないほど弱まった雨音の中で、仄香の涙は暫くの間、雨だれのエチュードのように儚いリズムを刻み続けた。


 そのままキッチンを漁っていると、乾物が置いてあるスペースに小さめのカップラーメンを見つけた。水や乾パンと一緒に置いてあったので、おそらく非常用に備えてあるものだろう。錦野や霞夜が作ってくれた料理と比べれば質素な、食事とすら呼べないようなものだったが、今の仄香たちにとっては有難かった。


 ただ湯を沸かすぐらいなら誰でもできる。仄香は人数分のカップラーメンを用意し、湯を注いで三分待って、涙の痕を拭いながら、望と綸が待つダイニングに運んだ。

 綸はもうだいぶ落ち着いたようだったが、胡乱な目つきで人差し指の絆創膏を眺めるその瞳はマネキンのように空虚で、心ここにあらずといった様子である。


「カップラーメンがあったから、作ってきたよ」


 しかし、仄香の声も綸の耳には全く届いていないようだ。望は小さく息をつき、『仕方ないよ』という表情をして見せた。


 その日の食卓は厭に寂しく感じられた。単に空席が増えたせいもあったが、夕食のメニューも、錦野や霞夜が作ってくれた料理には程遠い小さなカップラーメンのみ。昨日までの食事と比べれば塩分はかなり濃いはずなのに、まるで輪ゴムを啜っているみたいに全く味が感じられなかった。

 誰一人言葉はなく、ラーメンを啜るズルズルという音だけが広いダイニングに虚しく響く。


 仄香は、初日の楽しい食卓のことを思い出す。嬰莉と霞夜がいて、キッチンからは錦野が料理をする音が聞こえていた。それが、昨日は嬰莉の姿が消え、今日は霞夜と錦野が――。

 みんなをここに連れて来て良かった、心からそう思えていた三日前の賑やかなあの朝が、今では随分昔のことのように感じられる。あれから一人欠け、二人欠け、三人欠け。味気ないラーメンを啜る音が、空席の目立つ食卓の物寂しさをさらに増幅させた。


 カップラーメンだけの夕食を済ませると、綸と望は疲れた様子で自室へと引き上げて行った。カップラーメン一つだけでは空腹は満たされなかったはずだが、二人とも食事の少なさに不満を漏らすことはなかった。

 時刻はまだ午後七時を回ったばかり。カップラーメンのみの食事では片付けるものも特になく、手持ち無沙汰になった仄香も、そのまま部屋に戻ることにした。

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