その日、ヘレンは両親と共に、家から離れた廃墟で必死に逃げ道を探して走り回っていた。

祖国の民兵と敵国の正規兵が入り乱れ、弾丸が飛び交い土ぼこりが舞う中、混沌とした町の裏通りを縫うようにして三人は逃げ道を探っていた。建物の陰から少し出ると流れ弾に当たり、当たり前のように地面に放置された死体の仲間に加わるだけだ。そんな光景を当たり前に見てきた。近隣の知り合いが、または親戚が、友達が、次々に赤い血を地面に染みわたらせて目をむいたまま死んで行った。

この町ではもう、安らかに死ねる場所などない。

せめて、一日、一時間、そして一瞬でもいいから生き抜いて、この戦争が終るのをどこかで待ち続けるほかはなかったからだ。

両親と共に裏路地を抜けて様々なところを走った。

何日も、眠らなかった。眠らずにただ、ひたすらに身を隠していた。そんなことを続けていたある日、戦闘が突然止んだ。

敵国が勝ったのだ。

勝利の砲声が宙に轟き、いくつもの車輌が町の中を占拠した。所々に敵国の旗が掲げられ、この国の人間は一人残らず暗闇から引っ張り出された。抵抗するものはその場で殺され、抵抗しないものは幌のついた車輌に乗せられてどこかに連れて行かれた。民兵の大半は殺された。武器を捨て、投降したものもいたが、彼らもまた、幌のついた車輌に押し込められてどこかへ連れて行かれた。隠れていた場所からそっと、その光景を見ていたヘレンとその両親は、暗闇の中でひそひそと話し合った。

「投降した兵士はおそらく、ずっと北の極寒の地で労役に着かされるんだわ。町の人たちは、殺されなくても、収容所送りにされるのでしょう。男はそこで食べ物もろくに与えられず、ひたすら死ぬまで働かされる。女は兵士たちの慰み者」

母は、そう言って嘆息した。

「3年前、マリンゴートにできた、あの強制収容所」

「その名前は言うな!」

母の言葉に、父が激しく怒った。

この国で生まれ、この国をずっと愛してきた、この土地の先住民である父は、人並み以上にこの国を愛していた。

小さいけれど、独立を保って、三年前に都市国家連合に定められた民族差別の法律を受け容れなかったこの小国家。そのプライドを何よりも賛辞していた。

だからこそ、力で法律を押し付けて侵略してきた大国「マリンゴート」が許せなかったのだろう。名前を聞くだけでもひどく怒った。

「でも、今にここも見つかってしまうわ。いつまでもここに隠れているわけには行かないし、何よりもこのままでは三人とも飢えて死んでしまう。ここ数日、私たちは水一滴も口にしないで耐えてきたのよ」

「じゃあ、どうするのさ」

ヘレンが問うと、母は黙ってしまった。

「投降だけはしないぞ。投降するくらいなら、私は飢えて死ぬ」

父は父で、そう言ったまま譲らなかった。

そのまましばらく、三人は暗闇で沈黙を続けた。

その間にも、外では降伏を呼びかけるマリンゴートの兵士の声と車輌が土煙を上げて道路を行き交う音が響いてきていた。

「出て行ってみようか」

沈黙を切ったのは、ヘレンだった。

「あたしはさ、原住民の父さんと移民の母さんのハーフだから、マリンゴートの人間から見ればすぐにはこの町の人間だって分からない。ちょっとごまかしてマリンゴートの人間の振りをすれば、食べ物だって分けてもらえるかもしれない」

「何を言っている!」

ヘレンの提案に、またもや父が怒った。

「あの鬼畜どもに分け前をもらうくらいなら、死んだほうがよっぽどましだ。あれにそんな情があるわけはない」

「でも」

でも、そうしないと皆飢えて死んでしまう。

どうせ死ぬのなら、精一杯のことをして、生きるために命を使って、使い切ってから死にたい。つまらない意地を張ったままで飢えて死ぬのを待つのは耐えられなかった。

ただでさえ、敵国の兵士に周りを囲まれた四面楚歌の状態で、暗闇の中、狭い地下室で三人もの人間が息を潜めているのだ。

このままではもう、気が狂ってしまう。

少しでも、たった少しでも希望があれば、それにすがってみてもいいのではないか。

現に、ヘレンの赤い髪は原住民のそれとは違っていた。一目見ただけではこの国の人間とは分からない。

黒い髪に黒い瞳、褐色に近い濃い色の肌を持った原住民。その姿とはまるで違っていた。

「仮に」

答えに窮して考え込んでいるヘレンに、母が言った。

「仮にお前が食糧を手に出来たとして、それをどうやって私たちのところに持ってくるんだい?」

「それは」

「お前はよくても、ここにいるお父さんは原住民なんだよ。見つかったら殺されてしまう」

「それはそうだけど、でも、こんなところでこんなことしていたら、死ぬ前に気が狂うよ!」

そう言って、ヘレンは暗闇から飛び出した。

飛び出して、地下室から、今は瓦礫の山になった民家を出て、広い道に出た。

何日かぶりに浴びる陽の光は彼女には強く、一瞬、めまいがした。それでもあの暗闇の中にいるよりは遥かにましだと考えて走った。

走って、街を歩いているマリンゴートの兵士のもとへ駆け寄り、その腕を強く掴んだ。

「今思えば、そのとき、もう、私は気が狂っていたのかもしれないね」

いったん話を切って、ヘレンは煙草に火をつけた。

「兵士は私の言ったデタラメを信じたよ。マリンゴートから両親と一緒に旅行に来ていて戦闘に巻き込まれ、いままで避難していたってね。両親は今にも死にそうで動けないから食べ物をくれって言ったら兵士は、私の体と引き換えに食べ物をよこすといった。その兵士は、私の足元を見ていたのさ。でも、そのときの私は飢えで気が狂いかけていて、そんなことを考えることも出来なかった。とにかく陽の当たる広い場所に出て、空腹を満たすものが何か欲しかったんだ。そうして、私は体を売った。少しのパンと引き換えにね。時には一度に何人もの兵士を慰めたよ」

「何人もの兵士? それって」

「ああ」

ヘレンは、頷いて、煙を吐いた。

瞳を天井に向け、天井よりも遥か遠くを見ていた。

「輪姦(まわ)されたんだよ」

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