第12話 囚人番号310  パティシエ

 これは囚人番号310の正式な記録ではない。


 この刑務所にいる囚人はほとんど死刑囚と同じ扱いだ。だから、労役はほぼ存在しない。それでも特殊な仕事が舞い込む場合もあれば、自主的に何かの手伝いを申し出る囚人もいる。310もそのひとりだが、彼は少々事情が違う。


 厨房に入ると、目に染みる甘い煙が充満し、その中央で逆さにした一斗缶に310が座っていた。

「デザートは作るのを禁止されていたのでは?」

 声をかけると、彼は眠たい子どもがするように、首を傾けた。

「僕の本分はこれなんだけどな」

 ぼくが何も言わずに肩をすくめると、310は口元だけで笑みを作った。

「大丈夫だよ、別の囚人が鍋を焦がした片づけを手伝ってただけだから」

 ぼくは近くにあったパイプ椅子を引き寄せて座った。


 310はまだ二十代前半、肩にかかる程度の栗色の巻き毛の青年だ。細身だが、898のような骨と筋の目立つ痩せ方ではなく、少女のように華奢だ。子どもの頃からパティシエという夢もあって、同級生にからかわれることもあったという。

「先生は、男がケーキ作りを、なんて笑わないからいいね」

「作るのがただのケーキだけだったらもっといいと思いますけれどね」

 ぼくの言葉に310は曖昧に笑った。彼は望んだ通りパティシエの称号を手に入れ、同時に殺人犯の汚名も獲得した。


 310はある有名ホテルの厨房でデザートの担当をしていた。彼の作るものは味も見た目も高い評価を受けていたが、あるとき食事中の客からクレームが入った。ケーキに歯が混入していると。給仕を含め、挿し歯が抜けた者は誰もおらず原因は不明だったが、そのクレームは二十八件続いた。ちょうど人間の歯の本数と同じだ。

そして、最後の歯が見つかった翌日、ディナーの最中に悲鳴が上がった。理髪師がある朝食べていたパンから鼻が出てきた、と書いたのはどこの国の文豪だったろう。給仕が悲鳴の元に直行すると、テーブルに乗った皿の上、フォークで崩されたメレンゲの間から出てきたのは、挑発するように天を指した、腐敗しかけの人間の中指だった。


 警察の調べによって指の持ち主は、そのホテルのレストランで雇われ、310の若さと容姿を揶揄して何度も揉めていたが、最近行方不明になっシェフだと判明した。310は警察に身柄を拘束されても黙秘を続けたが、ついに彼を殺してホテルの裏の山に埋めたと供述した。土地全体をブルドーザーで掘り返しても遺体は見つからなかったが、あの日用意されていたデザートで彼の作ったケーキからは他の指や耳、内臓の一部まで見つかり、DNAはすべて一致した。


310はさらに恐ろしいことを自白した。あとふたり殺していると。埋めたのは同じ山だというが、死体がないのは実証済みだった。行き詰った警察は、310に成人男性の体重分の重量のケーキを作らせた。作り終えた彼の目の前で、何人もの警官がスコップやシャベルを手にケーキを解体する。グロテスクな光景だったよ、と彼は語った。


「食べるでもなく、ただぐちゃぐちゃにされるなんて。自分の子どもが悪戯に殺されたらあんな気分かな」

「そのケーキからは何も出てきませんでしたね?」

「当たり前だ。僕はいつもひとに食べてもらうために作ってるんだから。それ以外の目的で何を作らせたって、僕の本質が現れるわけがない」

 310は勢いよく立ち上がると、座っていた一斗缶を持ち上げた。下から、かけられた布巾がテントのように中央でせり上がった皿が現れる。彼は高級ホテルのパティシエらしい手つきで、布巾を外すよう示した。ぼくはそれに倣って布の端を摘み、一気に引いた。


「看守の目を盗んで余り物で作ったから、簡単なものだけど」

 皿の上には質素だが整った形のパウンドケーキが、ひと切れ横たわっている。

「あなたが作ったのですか」

「先生なら食べてくれると思って」

 310は少女のような微笑みをのこして去った。

 薄暗い厨房にはまだ煙が薄く、亡霊のように渦巻いている。換気扇の音がやけに大きい。ぼくは引き出しを開け、小さなフォークを取り出した。

 本当は味わって食べるべきだろうが、ひと口ずつがガラスの埋まった砂を噛むようで、味まで気が回らない。やっと鼻の奥に抜けるバターの香りがし出したとき、あるはずのない固い感触にぶつかった。ぼくは舌先で注意深くそれは取り出し、手の平に吐き出す。正体は、溶けたアラザンのような、くしゃくしゃに潰れた小さな金属の塊だった。ぼくは唐突に、親知らずを入れれば人間の歯は三十二本だったことを思い出す。

 310と不仲だったシェフは、生前銀歯があっただろうか。

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