第11話 囚人番号960 パトカーの騎士

 これは囚人番号960の正式な記録ではない。


 談話室の扉をノックすると、「どうぞ」と返ってきた。「おう」でも「開いてる」でもない。戸を開けると、960が椅子には腰かけず、その隣に背筋を伸ばし、手は後ろに、足を軽く開いて立っていた。ぼくが席についてから初めて彼も腰かける。


 960は黒い髪とそれより幾らか明度の高い目を持った、四十二歳の男性だ。今日その額には微かな生傷があった。

「どうしたんです」

と、ぼくは自分の額をペンの頭で叩くと、昨日食堂でいざこざがあり仲裁に入ったとき負っただけで暴行を受けたわけではないという。整然とした答え方に、ここで彼が制服を着て警棒を提げる方でなく、手錠と囚人服を身に着けている方にいるのが不思議になる。

「ここの囚人たちは元警察官を見ても報復には走らないのですね」

 960が目を伏せてそう聞いた。ぼくは、ここの囚人は警察に度々世話になった常習犯は少なく、初犯で収監される者が多いと説明した。

「それに毎日生首が届く冷蔵庫や犠牲者が増える爆弾を持っている人間にとって、警察は大した問題ではないでしょうから」

 ぼくが付け加えると、彼は義務的に口角を上げた。


 960は元々犯罪者ではなく、それを取り締まる側、警察官だった。

 警察の騎馬隊だった祖父と殺人課の刑事の父という家系で厳格に育てられた彼は、警察に入った後も同僚や上司の不正を許せず、地位は上がらなかったという。それでも、業務であるパトカーでの警邏活動も真面目に行っていた彼が、事故を起こしたのは今から一年前だ。


 雪の降るクリスマスに巡回をしていた960は、チェーンを巻いていたはずのタイヤが滑り、通行人を巻き込んで電柱に衝突した。すぐに職場の警察へ連絡してわかったことは、煙を上げるパトカーの下で、溶けた雪に流れ続ける血を混ぜるこの犠牲者が、逃亡中だった連続強盗殺人犯だということだった。事故はパトロール中に遭遇した犯人が逃げようとして転倒し車に巻き込まれたと処理され、彼への責任は不問になった。

 その後、960は一年間で聖夜の件を含め、パトロール中に五件事故を起こした。犠牲者はいずれも指名手配犯や逃亡犯や、少年法によって実刑を免れた殺人犯などの犯罪者だった。彼の逮捕が決まった後、マスコミは「法で裁けない犯人にタイヤでの裁きを下した影の騎士」だと960を持ち上げた。


「私は毎回、自分が撥ねたのが犯罪者だと後で知ったのです。事故の、いや、事件というべきか、その瞬間はいつも避けようと必死でハンドルを切って、次にはタイヤの下に生々しい感触がある」

 960は沈鬱な表情で祈るように手を合わせた。

「不謹慎な話ですが、あなたの事故のお陰で救われた被害者も多いでしょう」

「先生も仰いますか。私を影の“騎士”だと」

 彼は目尻に皺を寄せて苦笑し、続けた。

「法は犯罪者を裁くだけでなく、過剰な私刑から加害者を守り、正当な罰で留めるためのものでもあります。その意志はなくとも、私がしたことは法に反した、ただの交通犯罪です」


 ぼくは気に病みすぎないよう宥めながら、彼がここへ輸送されてきたときについての噂話を思い出していた。雪の降る日で、白く固められた路面を電灯が黄色く照らす夜だったという。960を乗せた輸送車は、後少しで到着というときに大きくスリップし、この刑務所の壁へ衝突した。輸送車は大破しブルドックのようにひしゃげたが、みな軽傷で死者も出なかったという。何も不思議はない。

 ここには法を適用しようがない犯罪者が、四つのタイヤでは殺しきれないほどいるのだから。

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