02 乙女の胃袋は無限大だけど

「成長期の味方は天丼でごじゃいましょう。たんとお食べくださいまし」


 オーナーが蓋を開ける。

 ボワリと出てきたのはランプの精ではなく良い香りを纏った湯気。

 キャーッまさにガッツリ!


「おおーっ!」


 あたしは用意された天丼に釘付けになった。

 岩肌のような穏やかな狐色の衣から立ち上っている陽気な湯気。

 それが油と食材の凝縮された香ばしさを運んできて、口内にどっと唾液が大量分泌される。いまからあたしの口の中で揚げ物でもする勢いで溜まっていく揚げ物油ではなく涎を飲み込んで、あたしは両手を胸の前で揃えた。


「いただきます」


 箸を掴み、くっ……!

 なにから食べようか、迷う。


 丸みが可愛い蓮根か。半月型のカボチャか。存在感溢れる海老か。サクサクのかき揚げか。大葉は絶対に途中で。

 となると、うーんうーん……。


「ここは素直に、海老からよ!」


 あたしは海老を箸で捕まえ、親の敵に刃を突き立てる力強さで齧り付いた。


 さくっ、と。

 いいえ。しゃくっ! と。

 厚すぎない衣は影の主役。

 歯から、顎関節から脳髄に駆け上がってくる心地良い食感。

 背筋が一瞬粟立ち、しかしそれに悶える前にやってくる油分と、ぷちゅ、と爽やかに噛み切れた海老の断面から溢れる旨味が絡み合った風味に「んんっ……!」思わず声が出た。


「あふっ、ッ!」


 あたしは大袈裟に足をばたつかせる。

 天使なオーナーさんが「ああっ! 大丈夫にごじゃいますか?」とお冷やを差し出してきてくれる。

 あたしはマフラーでそれを受け取った。


「ら、らいじょぶです。んっ、……おいしくて! つい!」


 別にそこまで熱すぎはしません。

 おいしさのあまりの、オーバーリアクションと言うやつです。すみません!


「はふあふ……」


 お冷やを受け取りつつ、あたしはお口の中の重くない油と食材の後味を堪能したくて水は飲まなかった。

 マフラーに水を持たせたまま、戦闘態勢を取るように唇を舐める。リップクリームを塗るより潤う感覚だわ。


「なにかごじゃいましたらお呼びください。ごゆっくりどうぞ」

「はい! ありがとうございます!」


 微笑ましく一礼をして踵を返したオーナーに軽くあたしも会釈を返してから、食べかけの海老と再度向かい合う。


「……よっし!」


 次は意気込み、丼をちゃんと手に持った。

 海老にかぶりつき、それを飲み込む前に――そう! 飲み込む前に、下から白米を拾い上げて一緒に口へとぶち込んだ。


「んー……っ!」これよ! これっ!


 天ぷらだけでも美味しいけど、これはあくまで天丼。

 甘辛いタレの染み込んだ白米を同時に食べることにより、天ぷらと白米が舌の上ですべてを巻き込んでいく。

 上質な油を使った揚げ物は胃を刺激しすぎない。

 羽毛の枕で殴られている気分だわ!


「あぐ、っむぐぐ……」


 あたしは海老と白米を同時に食べ進めていく。

 散々悩んでいたくせに、一口食べてしまえばあとは濁流。

 どれもこれも美味しいから、たたただ味わうことだけに夢中になって急か急かと箸を動かし――――女子男子関係なく、丼一杯など成長期にはあっという間に平らげられるのです!


「んああーっごちそうさまでしたー!」


 最高に美味しかったです!

 あたしは唇を舐める。しばらくはリップクリームは不要ね。


「ありがとうございます。食後のお茶です」

「へ?」


 オーナーが両手で差し出してきたのは小さな茶色い紙袋。

 まばたきを繰り返すあたしにオーナーは内緒話をするみたいにコッソリと言った。


「お茶なら遠慮なくたくさん飲めるでしょう? お二人でお楽しみください」


…………バレて、ましたか。

 あたしは受け取った紙袋で顔を隠す。「ありがとうございます」

 オーナーは、本当に優しい。


「応援しております」

「あ、ありがとうございます」

「しかし、アタクシはたくさん食べる方は好きですよ」

「お、乙女心……なんです」

「そうでごじゃいますか」


 ニコリと声で笑うオーナー。あたしは熱くなった顔を隠し続けた。

 それから、お茶をもらったあたしはすぐに店を出た。

 オーナーのご厚意に甘え、あたしはお茶を持っていつもの場所へと向かう。



 約築七十年の木造建築の一軒家。

 古いけど質の良い、一人暮らしをするにはやや広すぎるお宅はあたしの大好きな王子様が住むお城。


魚住うおずみさん!」


 あたしは縁側に座っていた、このお宅の家主である魚住さんへ猪になった気分で一直線に駆け寄った。

 つるんとしたまん丸ボディはいつでもどこでも目立つ。人魚のモデルたる麗しき美貌は今日も輝いていますね魚住さん!


「先日は焼き芋ありがとうございました。全部きれいに食べました!」芋は勿論、包んでいた銀紙も。


 とは、言えないのでそこは飲み込んで、あたしは魚住さんに頭を下げる。


「それは良かったですね」


 魚住さんの瞳が柔和に細まる。なんて愛らしい!

 縁側に腰掛ける魚住さんは両ヒレに持つ湯呑みを右隣に置いた。


「おかえりなさいですね」

「ただいまです!」


 学校帰り、魚住さんのお宅で一緒にお茶をするのがあたしの日課となっている。今日は学校帰りに寄り道してからきたけど、あの店のある場所は時間が止まっているからいつもと同じ時間に魚住さんのお宅に来れた。


「今日のおやつは大学芋ですね」

「わあっ、ありがとうございます!」


 魚住さんの左隣――大学芋のお皿を挟んであたしは縁側に腰を下ろす。


「ひとついただきます」

「一子さんは少食ですね」

「こ、これでも女の子ですから」


 食後のデザートは別腹で。

 実は余裕で一皿食べられるけど、あたしはフォークでひとつだけ刺して、ひとつだけ口に含む。


 パリッ、と表面の糖蜜が砕ける爽快感。

 開花したようにサツマイモの柔らかさと糖蜜の欠片が口の中で混ざり合う。

 歯につくこの粘つきすらたまらない!


 ガツンとした天丼を食べてきて本当に良かった。

 食べてなかったら、この誘惑にはきっと勝てない。


「おいしいです」

「良かったのですね」


 魚住さんも大学芋を手に取る。両ヒレにふたつ。

 あたしはひとつをちまちま齧る。

 魚住さんはふたつを交互に。

 好きな相手と美味しい物を食べるのは幸せだけど、好きな相手の前でガッツリ食べ過ぎるのは……なんだか恥ずかしい。


 気にしすぎかもしれないけど、こればかりは仕方がない。

 好きな相手には見た目も振る舞いもひとつひとつ、全部が全部可愛く見られたいんだから。


 乙女は厄介。

 けど、その厄介で面倒で放り投げたくなる女心を、いちいち細かく針の穴に糸を通すように真剣に気にしてしまうのも。


 好きな相手の隣でなら、幸せに感じるのだから不思議だなあ。


「…………」


 あたしはみっつ目の大学芋を食べている魚住さんを横目で窺う。

 自然と頬が緩みそうになり、大学芋を一気に口に突っ込んで表情筋を誤魔化した。


「すごくおいしいです」

「それはそれは、よかったのですね」

「あ! お茶あるんですけどいかがですか? 【幻想料理店】のだから味は保証します」

「おや、それは是非いただきましょうかね」

「はい!」


 あたしはマフラーに持たせていた茶色い紙袋を魚住さんに渡した。

 いつもはおやつだけだけど、今日はお茶の分も長く側にいられる。


 それはほんの少しの延長時間だけど、あたしにはその少しすら愛おしい。



【END】

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幻想料理店 彁はるこ @yumika_ka

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