4

 やって来たのはあの円形広場、ではなく。そこからすぐ近くを流れる川だった。

 ギレルの真ん中を流れる川。川幅はあまりなく、おそらく深くもない。近くに看板もないので川の名前もわからない。


 宿や円形広場がある側から木製の橋を渡り、向こう側、橋のたもとにあるベンチがコランの選んだ場所だった。座ると円形広場の賑やかな灯りが見え、歓楽の声が小さく聞こえていた。それなりに遅い時間になりつつあるのだが、まだ落ち着きそうもない。もしかすれば何かの行事なのかもしれない。


 隣同士に並ぶベルナとコランだったが、ベンチの端と端とでその間は離れている。その真ん中にコランは持っていた紙袋を置き、中から簡易な蓋のある木箱を出し開けた。中には切ったパンとパンとで具材を挟む簡単な食べ物が数枚入っていた。レメリスのどこにでもある珍しくないもの。木箱はコランの物で、洗って再利用できる。そこに買ったパンを入れてもらったのだ。


「食べ物に感謝を」


 コランは木箱に向かって指で円を描いたあと、自分の分を一つ取る。そして次に木箱をベルナに差し出した。

 ベルナは彼女の夕食であることと、先ほどの串焼き肉が腹に残っていることで遠慮する。すると彼女は木箱の蓋を閉じ、自分の膝上へと置いた。


 自分から何も話しかけることはできず、ちらりちらりとベルナは隣のコランの様子を伺うことしかできなかった。ベルナは人と話をするのが苦手だ。それもこのように会って間もない人ならなおさらに。パーティーに竜刺姫として出席し、色々な人に話しかけられるのはいつもいつも気持ちをやすりでかけられる気分になるくらいに。


 そんなときはいつも腰のフィンバル二世を触ると幾分落ち着くのだが、今はそれもない。心のよりどころもなく、偽名を使っているらしい不気味な相手。万が一があろうとも素手でどうにでもできるが。


 ひどく髪の短い女主人が、化粧の施された薄い唇を開けてパンをかじる。噛んでいる間はしっかりと唇を閉じ、ややベンチの背もたれに体重を乗せていた。その姿に下品さはない。

 飲み込むと鼻から少なく息を漏らし、手にパンを持ったまま、そして目をまっすぐ川の向こう側にしながらあまり覇気のない声を出し始めた。


「こんなハリエスタの田舎村にお忍び旅行ですか?」


 どきりとする。ベルナは頭をぽりぽりとかきながら、いつもの笑顔を作って否定の言葉を放とうとするも。


「最初からわかっていました、あなたがベルナ・ルーラーだと」


 先回りされた。

 もう一方の手を腹の前に持ってきて、それとなく構える。周りの様子を伺う。何か仕掛けてくるならば彼女一人でしてくるとは思えない。襲うならば複数人と考えるのが自然。なぜならベルナは北の剣ベルナ・ルーラーだから。


「変装もせずにその格好、わからないと思っていたのですか? プロテレイの流行服。田舎だから?」


 隣にエクセルがいたから同じように偽名を使ったのだが、彼女の言うとおりだ。ここはプロテレイでなくハリエスタで、さらに首都から遠い田舎だからとうかつなことをした。

 実際円形広場で彼女がベルナだと気づく人もいなかったからよりどこか安心しきっていた。いつものように堂々と名乗り、エクセルのことは付き人などと言っておいた方がおかしくはなかった。

 これでもし一緒にいたのがエクセルだと気づいてしまっているのならば。

 場合によっては彼女を。戦場の人でなかろうとも。異人と人に違いはない。「経験」もある。ベルナは責任を取る覚悟を深めていく。


「その目、やめていただけません?」


 向けられているものに彼女は気づいていた。顔をベルナの方に動かして。


「なぜ?」


 固く集まっていく覚悟がベルナの中にあり続けている。


「私はあなたにそのようなものを向けられる覚えがないからです」

「そう?」

「ええ。私にとってあなたが誰であろうと、お客様であることに変わりはないからです。お客様のことを他人に明かさないことが主人としての私の勤めですので」


 ここでベルナは彼女の手が震えていることがわかる。怯えているらしかった。表情はかわらないものの、確かに怯えている。


「だからやめていただけませんか?」

「信用に値しないって、あたしは思いますけど」


 まぶたを閉じ、黙り込む。震えは肩までやって来ていた。呼吸も乱れている。


「私はここの生まれではありません。別のところから流れてきました」


 ここで一度言葉に詰まるが、しかし弱々しく続きを。


「コランという名も、本当の名ではありません」


 ついに言ってしまったと、彼女の表情はそのようなものでいっぱいだった。唇を噛み、再び現れた瞳の奥はひどく怯えていた。

 はっとする。彼女の様子を見、ベルナは頭を冷まさせていく。偽名であることを明かすことは、おそらく彼女にとってかなりの覚悟がいることだったのだ。怯えているのもベルナに対してでもあるが、何か別のものに怯えているようでもある。今ではない何か。彼女のこれまでの何か。


 そう思うと目の前の女主人にこれまで抱いていた不気味さはあっさりと消え失せ、ようやくただの一人の女だと感じられるようになった。

 構えを解く。


「あたしに構わなかったら、そんなこと言わなくても良かったはずなのに。なんでですか?」

「私はあなたに良い感情を抱いておりません。ですが……」

「ですが?」

「あのような表情はいけません」


 食べかけのパンをベルナに向け、半ばヤケのように、これまでで一番芯の通った声が飛び出した。


「悲しそうに涙なんて流すから!」


 正直なところベルナにはどういうことなのか理解できなかった。食べかけのパンを向けられたまま、

「ぇへ?」

 気の抜ける返事をしてしまう。


 コランだがコランでない女はうつむき、残っていたパンを食べ始める。

 置いていかれているベルナは困惑しつつ、優しく彼女に向けて手を振った。


「あ、あの、その、なんですか? というか、泣いてないですけどっ」


 口に入れていたパンを飲み込むと、女はそれは大きく息を吐く。様々なものが混ざり合った吐息。


「何があったのですか? あのご一緒の方と」


 自分のペースを取り戻そうとする女。今度はその突拍子の無さにベルナは圧倒されてしまう。そしてどのように反応すれば良いのかわからず、先ほどよりつよく頭をかいて、せっかくある程度きれいに伸ばした髪を少し乱れさせてしまう。


「待って、一体どういう流れなのこれ」


 困惑していると、ぐいと顔を息が当たるくらいに寄せてきて言った。頬はこけているが、やはり整った顔。


「あなたに良い感情を抱いてはいなくとも、悪意を持たずただ話し相手にはなると言っているのです。あなたの涙を見てしまったから、私は去ることもできず、たまらくなってしまったのです」


 きょろきょろと辺りを見回す。北の剣のベルナの力をもってしても、辺りに人の気配はまったく感じられなかった。こういう風なことを言って油断させる罠というわけではない。

 彼女は本当にこの言葉通りの気持ちを抱き、そのために秘密まで明かしたのだ。


「は、はあ。それなら仕方ないかも?」

「ご理解いただけたのなら結構です。私は夕食を続けますが、お話をしましょう」


 実にベルナの調子が狂う。先ほどまであんなに悲しい思いをし、嫌な気持ちを募らせていたのに、もう今はそれがどこかへと行ってしまっていた。


「ベルナだと言わなければすんなり進んだと思うんですけど。こう、暗黙の了解というかそんなので話はできたはずで」

「私は確かなベルナ・ルーラーとお話したかったのです」

「そうですか」


 ひどく不器用だと思った。だからこそ彼女の本心だと感じられる。何らかの理由で彼女の中で目の前の少女が本当にベルナであるとはっきりとさせなければならなかったのだ。

 面白くなって、応えたくなった。


「まあ、そうです。あたし、ベルナ・ルーラーです」

「お国では竜刺姫(りゅうせきひめ)と呼ばれているのを聞いたことがあります」

「今でも慣れません、それ。恥ずかしくって。プロテレイに来たことがあるんですね」


 小さな顔をこくりと動かして、


「ええ。色んなところに行きました。あちらと、こちらと、どこにでも」


 指であちこちを差す仕草。そこにベルナは彼女の子供らしさを感じる。見た目ははっきりと大人であるが、彼女の中にはまだ幼い頃の彼女がどこかいる。


「気を悪くしないならですけど、元々はどこに住んでたんですか?」


 膝上の木箱に視線を落とし、彼女は固まる。そこで名前を変えているくらいなのだから、故郷で何かあったに違いないとベルナは今更ながらに気づき、慌てて発言を撤回しようとするも。

 夜風が吹く。コランの短い髪が流れるほどの。


「フラエール」


 そう明かした彼女の指先は震えていた。

 フラエール。そこはレメリスの西の方にある国の一つ。当時はハリエスタ、マーリア、プロテレイ、ルーレンシア、ケコといった大国に次ぐ力を持っていた。

 それゆえ長年異人勢力に抵抗し続けられていたが、とうとうエクセルたちが旅に出る数年前に首都が陥落、降伏し、国土ほぼすべてが異人たちの占領下になりフラエールという国は消滅していた。


「異人領フラエール時代」


 旧フラエール民たちによる抵抗運動はあったが、それでも異人による時代は続いた。

 だがその時代の転機となったのは、エクセルたちが旅の途中で国内にいる主な異人勢力に打撃を与え、支配体制にひびをいれたことだった。そののちにエクセルたちが異人の王を討ったことと、そしてレメリスの国々の連合軍によってついにフラエールは一つの国として復活を果たし、今はさらなる再興を目指しているとベルナは把握していた。

 しかし旅の途中で異人を倒したあとすぐに出ていき、それから一度も行ったことがないので、解放後の様子を自分の目で確かに見てはいない。


 エクセルは見たのだろうか。


「知っていますよ。勇者一行がフラエール解放の大きな力になったと。あれからフラエールに来たことは?」

「いや、ないです。先を急がなくちゃいけなかったし、終わったあともプロテレイにずっといたので」


 そう否定すると、コランは複雑な表情を見せた。悲しみ、怒り、やるせなさ、悔しさ、良いとは言えない感情のそれらが混ざりに混ざり合って本人も理解できないでいるような。


 一体故郷で何があったのか。

 国内の異人との戦いに勝利したあと、解放へと大きく前進し、喜びに満ちあふれていたあのときのフラエール国民の笑顔を覚えているベルナにはまったく想像ができなかった。考えの入り口さえ見つからない。

 国は蘇り、皆幸せになったはずではと。

 勝利を得た終戦後のプロテレイのように。


「それよりもあなたですよ。私は答えたのですから、何があったのです?」


 どこかで気を取り直し、コランは話を強引に本筋へと戻した。

 にへらにへらと作った苦笑いに、頭をかいて答える。


「ちょっと色々あっただけですよ」

 するとコランは眉間にしわを寄せ、

「その色々を尋ねているのですけど」

「そう……ですよね」


 一喝され、かわすような態度は失礼だと反省するベルナ。お節介といえばお節介なのだが、ここまで自分の明かしたくない事柄を明かしてすることを、簡単にお節介などと表現して良いものなのかどうか。


「晩ご飯を食べてくれなかったんですよ」


 足下に転がっていた小石を磨かれたロングブーツの先で蹴り、川の向こう側の円形広場の灯りを見たまま体を畳んで両手で頬杖をつく。落ち込んだり気に入らなかったりすることがあったときの、心落ち着く姿勢。

 コランと視線を合わせられなかったということもある。


「せっかく買ってきたのに、それが気に入らなかったと?」

「肉が好きなやつで、それもバカみたいな量を食べるやつだったんですよ。そんなに体が大きくもないのに見てるこっちが気持ち悪くなるくらいだったのに。それなのに串焼き肉を一本食べただけでもういらないって」


 コランがどのような表情で聞いているかベルナにはわからない。しかしきっとそんなくだらない理由だったのかと呆れているだろうと、彼女は思っていた。

 話は聞いてくれるが、それでも彼女はベルナに対して良い感情を抱いていないと言う。もっと大事かと思っていたのが、そんな理由では胸の中で苛立ちが生まれるはずだ。


「腹が立ちますね、それは」


 えっ、と思わずコランの表情を見てしまう。彼女もまっすぐ灯りの方を見ていて、手にはもう一枚目のパンがあった。


「色々考えて買ってきたのに、その態度は腹が立ちますね。あまり食欲がないなら、買いに行くときに伝えてくれれば良かったのです」


 ぱくりとパンを口に入れ、もぐもぐと租借しながら彼女は続ける。食べながら話すのは下品。そのような作法破りと発言内容にベルナは驚き、まぶたを大きく開け彼女から目を離せなくなる。


「私にも似た経験があります。異人領だった頃のフラエールは異人たちの食料を確保するため、私たちの分は配給制になっていましてね。ある日、その配給では手に入れることのできない食べ物、お肉を手に入れたのですけど、それを弟があまり食べなくて、ひどく腹を立ててしまったのです」


 ベルナが見ていても、彼女は視線をそちらへ動かさなかった。いつもならばぎょろりと瞳だけを動かしてくる。瞳は向こう岸ではなく、さらに遠くへ向けられていた。


「食べ盛りの十一歳の弟でした。それなのに配給は少なく、いつも腹を空かせていて。だから私は『あらゆる手を使って』お腹いっぱいになれるくらいのお肉を手に入れたのに、弟は少し食べて『いらない』と言ったので、私の中は考える間もなく嫌な気持ちでいっぱいになってしまっていましてね、気づけば平手で頬を叩いてしまっていたのです」


 ぎゅっと右手を左手で包んで握る。そのときの感覚、しびれが今でもはっきりと残っているのだろう。


「あのときの弟の表情は忘れられません。私のことをひどく怯えた目で見て震え、それはまるで異人に対するもののようで……。弟がお肉を残したのは、つまり、私にも食べて欲しかった、ただそういう優しさだったのに気づけずに、傷つけて。私が弟を思っていたのだから、弟も私を思ってくれていただけなのに」


 ふう、と一息吐く。熱がこもっていく声を静めるように。今の彼女は一人だ。あの宿に他の気配はなかった。つまり弟とは今一緒ではない。彼女が名を捨てたことに何か関係があるのかもしれない。

 途中でベルナはその考えを振り払う。今は彼女と会話する場であり、探る場ではない。もし探ってわかったとしてもどうなるというのか。悦に入れば良いのか。それは良くないことだ。


「いい弟さんですね」

「自慢の弟です。理由は同じではないかもしれませんが、しかしおそらくあなたのことを考えてのことでしょう」

「もしそうじゃなければ?」


 初めてだった。コランのこけた頬がやや上がり、円形広場の賑やかな灯りに照らされた。微笑んでいた。彼女本来の愛らしさがようやくそこに表れて、ついベルナは見とれてしまう。


「それは腹を立てるしかありませんね」


 ぷっと吹き出しベルナが声を出して笑うと、コランも声を出さずとも柔らかい表情を表し続けていた。


「私、お腹いっぱいなのでどうぞ」


 木箱に入ったパンをあらためてすすめてくる。先ほどはまったく食べる気が起きなかったものの、今はなんだか食べたい気分になっていた。小さな手の指で木箱の中にあるパンに向かって円を描き、断りを入れてパンを手に取る。

 パンを取った手は戦いを使命としてきた者とは思えないくらいにきれいなままだった。

 一口噛むと、パンに挟まれていた野菜やハムが口の中に飛び出してきた。

 野菜は収穫したばかりなのかというくらいにみずみずしく、変なにおいもなく、素直に味を示していた。ハムも雑で粗悪に作られたものではない。軽く炙られていて、腹を満たすだけではなく楽しませようとする意図が感じられた。


 そしてパン、野菜、ハム。それらすべてを繋ぎ合わせるためのソース。プロテレイではあまりない、ハリエスタのこの地方で愛されているのか、すこし酸味あるソース。

 ベルナは普段と違う味に驚きつつ、その面白くおいしい味に口が止まらなかった。


「あの方は恋人ではないのでしょう?」


 突然投げつけられたコランの質問に、ベルナは飲み込むタイミングを間違えてしまう。むせる。この夜で二回目のむせ。こちらはすぐにおさまりそうだが。


「けれどあなたはあの方に恋心を抱いている」


 さらなる言葉におさまりつつあったむせが戻ってくる。より強くなって。


「ごほっ! ごほっ! な、何っ!?」

「それなのにあの方はご一緒の部屋をああいう風に希望するあたり、お客様をやきもきと言うかどきどきと言うか」


 むせと戦い続けている間にも、コランは話を続けている。それのせいでベルナが苦しんでいるのにもかかわらず。


「でも、そういうお方だから目を離せなくなってしまう」


 ようやくパンが正しい場所を通っていくと、ベルナは両手を大げさに振って彼女の言葉を否定する。


「ち、違います。そんなんじゃありません」

「恥ずかしくて否定したくなる気持ちはわかります。私もあなたくらいの頃はそうでした」


 なんだなんだと頭をかき続けるベルナの髪はぼさぼさになっていく。コランの顔に微笑みはもうなかった。感情を表に出さない顔に戻っていた。そうして小さく弱々しく、


「恋はいつまでも近くにはいてくれないのです」


 彼女は鼻を動かした。懐かしい誰かの香りをかぐように。表情が弟ではないと物語っている。きっとその誰かと抱き合ったときに彼女はいつもそうしたのだろう。

 ベルナはその光景を想像し、やや顔に熱を持ってしかし弟と同じだ。その誰かは現在の彼女の隣にいない。

 気づけば。ベルナは彼女の手に自分の手を重ねていた。青白い手に血色の良い手。そこに暖かさを分けることができるならば。


「あたし、あなたのことしっかりとわかったわけでもないし、わからないかもしれない。でも、このお礼はちゃんとさせてもらいます」

「それは竜刺姫としてのお勤め?」

「そんなの、周りが勝手に言っていること」


 口を尖らせた、正直な気持ちの発露だった。彼女の前ならば少しくらい甘えを言っても良いという、自分勝手な発露。そしてそれを受け入れてくれる。


「……『大勢の力』をご存じなくて?」


 冷ややかな視線を浴びせられた。向こうの円形広場の灯りを嫌うような瞳がどこか浮かれていたベルナの心を叩く。

 しかし彼女の言うことに反感を抱くところはどこにもなかった。


「大勢の力」


 それはよくわかっていた。竜刺姫と呼ばれる自分と、なによりあのときのエクセルから今のエクセルでひどく痛感していた。剣を持つ、世界を長く脅かし飲み込もうとした異人の王を倒した五人を圧倒する力。


「疑問に思う人が少ない、もしくは気づいているけれど気づかないふりをしているだけかもしれない。けれど私は思います。どうして選ばれし剣の中でも『あなたたち四人が今も英雄』のように扱われ、『勇者だけが蛮者と呼ばれ蔑まれているのか』」


 手を組み、顔を下に向けて手をぐにぐにと揉むベルナ。


「ようやく話してあなたは仲間を売った人間ではないと感じました。本当にレメリスのためにあの人たち、異人と戦ったのだと。やりきれない気持ちはありますが、私はそれを捨てていかなければならないのかもしれません」


 パンの入っていた箱を置いて立ち上がり、彼女はスカートの裾を持って少し持ち上げる。カーテシー。


「あなたと、お仲間そして……」

 そのまま顔を上げ、視線をベルナの後ろへと向ける。

「『勇者』に幸があらんことを」


 ベルナが振り向くとそこにはフードを深く被った幽霊のような少年が立っていた。体の半分だけ灯りを受けているが、フードの下から覗かせる瞳には届いていない。

 エクセルだ。ベルナにはすぐわかったが、しかしその雰囲気にどきりとした。まるでもうこの世界のどこにもいないような雰囲気に。

 コランが彼のことを見て「勇者」と言ったことに気づかないほどに。


「なんでここに?」


 そう問われるとエクセルは近づき、マントの下から剣を一振り差し出す。鞘に小さな古き竜の装飾が施されたエストック。フィンバル二世。

 受け取って腰に差す。


「剣が寂しがっていた。そして俺も、言わなくちゃいけないと思った」


 コランに見られていることを彼は知らないはずがなかった。それでも彼はフードを取り、その素顔をさらけ出した。慌ててベルナが隠そうとするが、彼は必要ないと仕草をし、コランにお辞儀をする。


「礼を言います」

「そのように素顔をさらして良かったのですか? クレル・ローレン様」

「あなたもおそらく彼女に……敬意を表したい。そして私を見てもその名で呼ぶ、信じられる人だ」


 まるでどこかで話を聞いていたかのような発言に、ベルナは疑いの視線を向ける。それに気づいた彼は気まずそうな眉になるが、首を横に振る。


「そろそろ解散しましょう。私はまだあの灯りの中で仕事がありますので」

「仕事?」


 ベルナの疑問にエクセルが静かに重く口を開いた。


「色んな仕事がある。そうだろ?」

「え、あ、そ、そうだけど……」


 そんなやりとりをする二人にコランは「では」と言い残し、先に橋を渡り向こう側へ、円形広場の灯りへと溶けていった。ひどく小さい背中と短い髪があの灯りの中で一体どのような仕事をするのか、ベルナにはまったくわからなかった。


「遅れてごめん。俺たちも帰ろう」

「うん」


 フードを深く被りなおしたエクセルはあえて円形広場を通らない道を選んだ。どうやらベルナとコランがいた場所にたどり着くのにも、そこを探し選んできたようだ。人目につきたくはない。しかしそんな彼でも、何かしらの己の中のルールに従えばああいう風に素顔を見せる。


 ベルナはわからない。だからこそより知りたくなる。


 知りたいのならば、話をするしかない。

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