最後の夜に見た夢は

美坂イリス

最後の夜に見た夢は



 私は死ぬらしい。それも、そう遠くない未来。明日になるか、一週間後か、それとも一月先かは分からない。でも、確実にそれは近づいている。


 夜十時。私は、近くの公園に向かっていた。特に用はない。でも、もうこの世界が見られなくなると思うと、無性に外に出たくなった。

点滅する赤信号を通り過ぎて、コンビニの前。明かりのもれる窓ガラスの前には、高校生ぐらいだと思う少年たちが数人話をしていた。

 きっと、彼らの「猫」は明日も生きているのだろう。二分の一、でも「生きている」と観測される可能性の高い世界。でも、私の世界はどちらが観測されるか分からない。

 楽しげに笑いあう彼らを横目に、私は歩き続きける。この世界を、目に焼き付けるために。



 僕は、夜のコンビニにいた。まったく、酒のつまみぐらい自分で買えばいいのに。明日からまた学校だし、父さんは本当に人使いが荒い。第一、僕が補導されたらどうするつもりなんだろう。……笑うだろうな。豪快に。

 ある意味いやな想像を振り払うためにふと外を見ると、誰かが歩道を歩いている。まあ、よくあること。気にはしないことにしよう。そう思ったけど、背中のなかほどまで伸びた髪の毛でそれが女の子だとわかった。歩いていく方向は、民家の少なくなる方。最近はこの辺りも物騒になってきてるけど、でも僕には関係ない。

 コンビニを出て、家へ向かう。きっと明日も、変わらない日常なんだろう。出来ることなら、明日はもっと変わったことが起きてほしい。




 私は、カーテンから漏れる光で目を覚ました。

 今日もこの世界が観測されたんだ。私が生きている世界。私の「猫」が、生きている世界。そんなことを考えながら、私は大きく伸びをした。

 階段を降りてリビングへ。朝ご飯を食べているお父さんとお母さんに挨拶をする。二人とも、笑顔で返事を返してきたけれど、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。

 少し居心地が悪い。早く朝ご飯を食べて、学校に行こう。



 うるさい。

 僕は、枕元で鳴り続ける目覚ましに悪態を吐いて布団から這い出た。もちろん、目覚ましは止めて。これ以上うるさいのは我慢できない。少し勢いよく叩きすぎて、手が痛いけど自業自得だ、うん。

 障子を開けて、窓の外を見る。今日も、きっと変わらない一日なんだろう。

 台所に顔を出すと、母さんが朝ご飯を作っていた。卵とフライパンが出ているところを見ると、目玉焼き。

 母さんに声をかけて、居間に。誰もいないから、父さんはまだ寝ているみたいだ。

 さっさと朝ご飯を食べて、学校に行かないと。この時間なら遅刻はしないだろうけど、余裕を持つに越したことはない。


 車で送っていく、と言うお父さんの申し出を丁重にお断りして、歩いて学校に向かう。この道を歩くのは、何ヶ月ぶりぐらいだろう。そして、あと何度歩けるだろう。

 何気ない風景。変わらない街。終わりが見えてくると、そんな風景でさえ愛おしく思えてくる。

 学校に近づくにつれて、同じ制服を着た人たちが増える。まあ、当たり前のことなんだけど。みんな、友達と楽しそうに話をしながら校門をくぐっていく。その中を、私は一人で歩いていた。

 教室に入ると、クラスメイトが数人、私の方を見ていぶかしげな顔をする。この教室に入るのも、いや、この学校に来たことさえ数度しかない。誰も覚えてなくても当然かな。

 近くにいたクラスメイトに私の席を聞いて、鞄を置く。今、誰かに話しかけたら返事を返してくれるだろうか。周りを見回すと、少し、距離があった。心理的にも、物理的にも。

 ため息を吐いて、鞄から本を出す。しょうがないから、これ、読んでよう。もう何度も読んだけど、結末が好きだから。



 見慣れた通学路を、少し走って学校に向かう。

 何気ない風景、変わらない街。明日も、明後日も、これから先もきっとこのままなんだろう。いつまでも、いつまでも。

 学校が見えてくると、少しスピードダウン。ふう、ここまで来れば後は歩いても大丈夫だな。

 教室に入って、自分の席に着くと同級生が僕の席の周りに集まる。そして、他愛のない会話。内容は、昨日見たテレビの話題や、最近出たゲームのこと。僕が進めない所があるというと、友人にアドバイスがもらえた。早速、今日帰ったらやってみよう。そんなことを話していると、先生が教室に入ってきた。さて、今日の授業が始まるな。




 昼休み。僕は同級生と学食でお昼を食べていた。安いのはいいん。でも、もう少し美味しいと嬉しいなと思う。でも、みんな文句を言わずに食べている。話しているのは午前中の授業について。僕の周りにはいないけど、学食に教科書とノートと参考書を持参して食べながら予習をしている学生もいる。ちなみに、僕の周りにいるのはほとんどが勉強よりも話の方が楽しいらしい。

 食べ終わって、僕は一人で教室に向かう。その途中、ゆっくりと階段を上っていく女子生徒を見つけた。手には、コップ一杯の水。

 もしもぶつかって水がこぼれたりしたら面倒だし、すこし距離をとって二段飛ばしで階段を上る。階段を上りきれば、教室はすぐ。そう言えば、午後一の授業って何だったかな。



 お昼休み、私は教室でお弁当を食べていた。他の人から見れば、少し小さいかもしれないけど私にとってはこれぐらいがちょうどいい。

 食べ終わると、保健室に。体調を聞かれたあと、教室に薬を忘れたことに気付いた。しょうがないし、先生に紙コップをもらって、それに水を入れて教室に戻る。

 その途中で、二段飛ばしで階段を上っていく男子生徒が私を追い越していった。私の手にあるコップに気付いたらしく、追い越していくときに少し間をとって階段を上っていった。

 教室に戻って、鞄の中に入れていた薬を飲む。だんだん増えてきて、もう薬とお弁当とどっちがお昼か分からない。

 薬を片付けて、一息。そして、さっき私を追い越して行った男子生徒を思い出した。

 うらやましい。もう、私はあんな風に走ることすら出来ない。出来るならば、私の「猫」が生きているうちにもう一度だけでもあんな風に走りたい。いや、やりたいことはいっぱいあるけど、きっともう無理だろう。




 今日の授業が終わって、私はクラスメイトがみんないなくなるまで自分の席に座っていた。でも、誰もいない方が私としては嬉しい。私と仲良くなったら、辛い思いをするだけだ。だったら、私なんか忘れ去られてた方がいいんだろう。……何だか、自虐的だなぁと思う。

 うーん、と伸びをして、席を立つ。屋上にでも行ってみようかな。



 放課後。僕は屋上に向かっていた。特に理由はない。単に眺めがいいから、よくそこにいるだけ。

 重い鉄扉を開けて、屋上に。そこに広がるのは、夕暮れに染まる街。

 フェンスに寄りかかって、下を眺める。うん、やっぱり高い。ここから落ちたら、多分ぐずぐずの肉塊になるんだろう。考えて、浮かんできた映像を振り払う。モザイク必須だよ、これ。



 屋上への階段を、私はゆっくり上っていく。体に負担がかかるから、あんまり激しい運動は禁止されている。

 鉄で出来た扉を開けて、外を見る。そこには、一人の男子生徒がフェンスに寄りかかって下を眺めていた。そして、頭を振って。

 その光景を見て、不安がよぎる。そして、思わず私はこう声をかけていた。

「あなたの『猫』は、明日も生きていますか?」



「あなたの『猫』は、明日も生きていますか?」

 不意に後ろからそう声をかけられる。驚いて後ろを見ると、髪の長い女子生徒がそこに立っていた。

「え?」

 意味が分からず、僕はそんな言葉を口にした。

「あ、気にしないで。あんまり意味は無いから」

 そう言って笑う女子生徒。最初見たときは夕日を浴びて色が違うのかと思っていた髪の色が、染めているのか銀色だということに気付く。

「ところで、そこから飛び降りる気、ないよね?」

 笑っている表情を崩さず、彼女は続ける。

「な、何で?」

 そう尋ねると、彼女は少し真剣な声を出す。

「いや、ずっとそこで下見てたから、ひょっとしてこれから飛び降りるのかな、って思ってさ」

 まさか。そう僕が言うと、彼女はやっぱり、と言ってまた笑った。

「さっき想像したんだけど、ここから落ちたらもはや人の形をとどめるか疑問だよ。そんなスプラッタな物体を見てみたいなら別だけど」

「うわ……。そ、それはきついね……」

 笑い顔をひきつらせて、彼女は言う。そのまま、数分沈黙が続いた。

「そういえば、キミの名前は?」

 沈黙を破って、唐突に彼女が聞く。そういえば、名乗ってもないし名乗られてもない。

「そういうのは自分から言うもんじゃない?」

「あ、そうだね。ごめんごめん」

 僕がそう言うと、彼女は納得したらしかった。

「私の名前は玲佳・アイゼンベルガー。玲でいいよ」

 そう言って、彼女――玲はまた笑った。

「じゃ、次はキミの番。キミの名前は?」

「……アオ。四葉碧」

 少し考えて、答える。玲は何度かその名前を呟いて、僕の頭をなでた。

「いい名前じゃない。アオ。私はこう呼ぶから、よろしくね」

 そういえば。僕はさっきから気になっていることを尋ねた。

「ところで、ハーフ?」

 玲は手を止めて、あごに手を当てた。

「うーん、おばあちゃんがドイツ人だから、ハーフじゃなくてクオーターだね」

 でもよく分かったね、と彼女は言う。

「そりゃ、名字で分かるでしょ。それに、髪の色。銀色だし」

「それもそっか」

 また笑う。さっきから話していると、外見と話し方にギャップがある。見た感じは儚そうな、まるで深窓の令嬢みたいな雰囲気だけど、話し方は人なつっこい感じがして、よく分からないと言ったらちょうどいいんだろう。

「ところでさ、アオはここで何してたの?」

 玲に聞かれて、少し考える。

「いや、特に何も。ただ、ここって眺めがいいから」

「……高い所、好き?」

 声のトーンを落として、聞く。

「……馬鹿?」

 失礼な。そう言うと、玲は笑った。

「冗談だよ。ごめんね」

「冗談にも程があるよ」

「ごめんごめん。さらっと流してくれるかと思ったんだけど」

「……そうすればよかった」

 ため息。僕は額を押さえる。

「でも、よかった」

「何が?」

 心底ほっとしたような言い方。僕は、思わずそう聞き返していた。

「いや、ね。いろいろと。アオは飛び降りようとしなかったみたいだし」

 そんなに危なく見えたんだろうか。

「飛び降りないよ。……と、こんな時間か。ごめん、先に帰るけど」

 気をつけて、と言って何に気を付ければいいのか悩む。まあいいか。そのまま、僕は屋上を後にした。



 アオが扉を閉めて、私はその場に座り込んだ。深く息を吸って、吐く。

 アオは、私のことをどう思ったのだろう。きっと、普通の女子生徒だと思っただろう。思わず、笑いがこみ上げる。それと同時に、涙も。楽しいのか、悲しいのかも分からない。

 何で、私は話しかけたんだろう。誰かの中に残りたくない。そうすれば、私も、誰かも傷つかなくてすむ。そう思っていたはずなのに。

 ……やめた。考えたくなくなって、私はフェンスの向こうを見つめた。暮れていく、茜色の街。明日、私の中の「猫」はどちらだろう。

 風が冷たくなって、夜が近づく。笑いも涙ももうおさまって、もう凪の状態に戻っていた。もう帰ろう。私は、扉を開けて校舎内に入った。



 ベッドの上で、私は今日のことを思い出していた。変わらない通学路、孤独な教室、放課後の屋上。そして、アオの声。

 明日は、どんな一日になるのだろう。楽しかった一日は、その分だけ終わるときに寂しさを連れてくる。

 

 明日、私の「猫」はどちらと観測されるのだろう。



 僕は机に向かって、一向に進まない課題をしている。まったく、微積分なんて実社会に出たって使わないだろうに。頭をかいて、誰にともなく悪態を吐く。

 やめた。僕は布団の上に転がって天井を見上げる。今日屋上で会った少女は玲、って言ったか。そういえば、「猫」ってどういう意味だろう。僕は猫を飼っていないし、第一、飼っていたとしても玲が知っているはずもない。

 ま、いいか。寝よう。明日は確か一限から体育じゃなかったか。おそらく持久走。逝けるね、うん。





 目が覚めて、まず最初にしたことは確認。目。見えてる。耳。聞こえてる。手。自分の顔をぺたぺた触る。うん、大丈夫。今日も私の「猫」は生きている。

 階段を降りながら、ふと、違和感に気付く。何かは分からないけど、どこかがおかしい。でも、お父さんやお母さんに言えばきっと病院、よくても部屋にこもることになる。出来るなら、もうちょっと、この世界を心に刻んでおきたい。……黙っておこう。



 やばい。何がやばいって、昨夜目覚ましをかけたはずなのに鳴らなかったと言うこと。おそらく、昨日の殴打で拗ねてしまったのだろう。

 そのせいで、始業まであと十五分程度。そして、ここから学校まで走っておよそ十分。歩けば十五分を越えることは確かだ。遅刻してしまえば、罰として校庭十周らしい。そして、遅刻しないようにするには走るしかない。どちらの選択肢も心臓と呼吸器に悪い。さらに言うと、一限は体育。持久走。……死ねる。

 別にそれはかまわないけど、明日の新聞に間抜けな死亡記事が載るのも避けたい。しょうがない、走るか。

 あきらめて見上げた空は、今日も変わらない青空だった。




 教室に入って、窓際の自分の席に座る。ふと窓の外を見ると、男子生徒がすごい勢いで走っている。それであることに気付いて、時計を見ると始業まであと三分。……心の中で、誰とも分からないその生徒にエールを送る。

 視線を教室に戻して、周りを見る。やっぱり、私の半径数メートルに人はいない。まあ、私が望んだことだけど。

 もう時間はないし、本も読めないな。



 ……し、死ぬかと思った。下駄箱まで五百メートルダッシュ、その後急いで階段を三段飛ばし、そして持久走。結局、僕はどれだけの距離を走ったんだろう。喉がぜひぜひ言ってるよ。

 机に突っ伏しているところを、同級生が笑いながら肩を叩く。陸上部に入ったらどうだ、とか。無理だって。そう言うと、そいつは笑ったまま、納得して自分の席に戻った。いや、そこで納得されても困るけど。

 もうちょっと、回復のための時間が欲しいけど、先生がもう入ってきた。まだきついんだけどなぁ……。




 お昼になって、私は購買に向かった。お母さんがお弁当を作ると言ったけど、たまには購買で買ってみようと思って。それに、もう出来ないかもしれないから。

 んー、どれがいいだろう。メロンパン、カレーパン、クリームパンetc...。うん、チーズクリームが入ったのにしよう。



 四限が終わって、僕たちはすぐに学食に向かった。今日は何にしよう。いつもしょうゆラーメンだし、たまには……塩で。と、思ったら隣から友達がボタンを押す。なになに……担……々麺? しかも、堂々と「激辛」と書いてある。どうしようか。辛いの苦手なんだけど。友達の顔を見ると、やっぱり意地の悪い笑い顔。しょうがない、これでいいか。カウンターに食券を持っていく途中、ふと学食の中にある購買を見ると、見知った銀色の長い髪が見えた。

「玲?」



「玲?」

 後ろから声をかけられて、驚く。

「あれ、アオ?」

「何買ったの? あ、パン?」

「うん。たまにはね。いつもはお母さんが作ってくれるんだけど」

 その言葉に、アオは少しうらやましそうな顔をした。

「うちなんか、お金渡されて『これでお昼なんとかしてね』だよ? もう自分で作ろうかな……」

「あはは……」

 苦笑い。

「あ、ごめん、友達待ってるから。じゃ」

「うん、あ、放課後、待ってるから」

 手を振って、アオはカウンターの方へ。私も、パンを持ってレジに向かう。



 みんなの所に戻ると、寄ってたかって玲のことを聞かれた。どこであんな美人とお近づきになったんだとか。てか、そんな言い方は今の学生はしないと思うんだけど。

 そんなことを考えながら、玲の最後に言った言葉をふと思い出した。放課後、待ってると。と、言うことは。放課後に屋上に行けばいいんだろうか? まあ、行ってみればわかるか。それよりも、今はこの目の前の担々麺をどうにかしないと。おそらく時間ぎりぎりで食べられるかどうかも疑問だ。



 放課後、私はゆっくり屋上への階段を上っていた。そして、鉄扉の前で少し考える。……もし、アオが来ていたら。そして、来ていなかったら。自分でもどっちが本当に望んでいることかが分からない。意を決して扉を開けようとしたとき、後ろから誰かが扉を開けた。

「あれ、アオ?」



 扉から差し込む夕日の中、玲は少し驚いたような顔で僕を見ていた。

「……何で驚くのさ?」

 僕の言葉に、玲は笑いながら言う。

「いや、来るとは思ってなかったからね」

 失礼な。でも、実際に『待ってる』としか言われずに場所の指定もないなら来る人は少ないかも。

「でしょ?」

 僕の考えを見透かしたような言葉。反論は出来ないかな。

「とりあえず、行こっか」

 玲に促されて、屋上に出る。そのまま、僕はフェンスに、玲は扉の隣の壁に寄りかかる。

「で、何だっけ」

「知らないよ……玲が呼んだんじゃん」

 それもそっか、と玲は笑う。

「じゃ、改めて自己紹介、かな。私は二年九組。理数科だよ、一応ね。アオは?」

「二年、五組」

「じゃあ、人文コース?」

「あ、うん、そう。昔から本読むの好きだったから」

「そっかそっか……」

 うなずきながら何かを呟く玲。そういえば、気になることがあった。

「そういえばさ」

「ん、何?」

 首を傾げる玲。

「昨日言ってた、『猫』って何?」



「昨日言ってた、『猫』って何?」

 アオの質問に、私は少し考え込む。言っても分かってもらえるかな。



「あのね、『量子力学』って分かる?」

 玲の言う単語自体が分からない。む~っ、と悩んでいると、玲が補足してくれる。

「うーん、これ、って言うかその中の『シュレーディンガーの猫』っていう思考実験なんだけど、中の見えない密閉した瓶に猫と一時間に五十パーセントの確率で放射線を出す放射性元素とガイガーカウンターにつなげて放射線を感知したら青酸ガスを出すようにしてある機械を入れてて閉じるの。それで、一時間後に見たときに猫は生きてるか死んでるか、っていうことなんだけど」

 ……ぜんっぜん分からない。てか、もっと難解になった気がする。

「まあ、そうかもね。それで、実験の結果は、どうだと思う?」

 そんなの聞かれても、分からないと思う。

「答えはね、『生きているし、死んでいる』だよ」

「……何それ。どっちかじゃないの?」

「この場合はね。重ね合わせ、って言うんだけど、結局は観測してみないと分からないんだ。そして、私たちは『分岐する世界』にしか存在しないの。例えば、『猫』が死んだ世界ならその観測の時点で死んだ世界に進んでるだけだし、生きてる世界ならそっちに進んだってこと」

 もっと分からない。それが、昨日の言葉とどう繋がるんだろう。

「単純に言うとね、人も同じ、ってこと。そしてね」

 その瞬間、ひときわ強い風が吹く。思わず目を閉じて、次に目を開けたとき、彼女は今までと全く違う笑顔でこう言った。

「私は、もう、死ぬと観測される可能性が高いの」




 布団に転がって、僕は放課後の玲の言葉を思い出していた。今日、玲が話したことの意味も分からなかったけど、一番分からないこと。

 あのとき、玲は一体どんな思いであんな表情をしたのだろう。全てを受け入れて、そして諦めたような笑顔。少なくとも分かったことは、最初の儚いイメージの理由だけ。

 でも。分からなければ分かればいい。聞かなければ分からないのならば聞けばいい。屋上で、明日も、明後日も、玲の『猫』が死ぬまで。

 視線を天井から机の隣の本棚に向ける。そのまま、僕は目を閉じた。



 ……少し、キツいかも。自分の部屋に戻って、うずくまる。いつもならじっとしてれば少しは大丈夫なんだけど、今日はどうにもならない。言うことを聞かない体を動かして、枕元の薬を飲む。

 そのまま、ベッドに横になる。心臓の動悸はまだ速いままだし、動こうにも動けない。電気もつけられないけど、窓から月明かりが差し込んでいる。

 アオは、私のことをどう思ったのだろう。もし、明日屋上に行ったら、アオは私をどう思うだろう。避けられてしまうだろうか。私のクラスメイトみたいに。だったら、もうそれでいい。嫌われるより、避けて、忘れて、私なんかいなかったことにすればいい。

 一人で。ずっと一人で。それが私の望んだこと。きっと誰かと関わってしまえば、私も、誰かも傷つくから。

 明日。最後に屋上からあの風景を見て、それで終わりにしよう。『猫』が死んだと観測されるのも、おそらく時間の問題だ。

 ……まだ、苦しい。今日はもう寝た方がいいかも。私は、ゆっくり目を閉じた。




 次の日の放課後、私はゆっくり屋上の階段を上っていた。幸いなことに今日も綺麗に晴れていた。最後の風景が綺麗なことは少しはいいことだと思う。

 そして、いつも通り重い鉄扉を押し開ける。その先に、誰かのシルエットが映る。思わず、私は声を出した。

「……アオ?」



 放課後、僕は屋上のフェンスに寄りかかって街を眺めて、いや、玲を待っていた。今日も来るって確証はないけど、それでもここでしか話せないと思ったから。

 腕時計を見る。ここに来てから、大体四十分ぐらい経っていた。今日は来ないかな、そう思ってフェンスから体を離したとき、鉄扉の開く音がした。そして、声が聞こえた。

「……アオ?」


 驚いた顔、そしてそれをすぐに笑顔に戻して玲が声をかけてくる。

「どうしたの? こんなところで。もうすぐ日も暮れちゃうけどね」

 いつも通りの笑顔。でも、それはどこか無理をしている、そんな風に見えた。

「……玲こそ、大丈夫なの?」

「ん、まあ……ね。まだ、今のところは」

 そして、無言。お互いに何を言うべきか言葉を探しているようだった。

「あの、さ」

 先に言葉を発したのは僕。

「何?」

「昨日、玲が言ったことはほとんど分かんなかったんだけど、それでも一つだけ、思ったことがあるんだ」

 笑顔のまま、玲は何も言わない。そのまま、僕は続ける。

「玲の中の『猫』は、死ぬことを許容してるの?」

 その瞬間、玲の表情が変わる。



「……やっぱり、来なきゃよかったかな」

 私は、そう呟く。

「うん、もう……どうしようもないことだから」

 そして、私はアオの問いにそう答えた。そして、次の言葉を紡ぐ。

「許容も何も、もう、どうしようもないの」

「嘘」

 アオの言葉に、私は一瞬身をすくませた。

「どうしようもないって諦めてるなら、何でここにいるの?」

「え……」

 私の方をまっすぐ見ながら、アオは続ける。

「諦めてるなら、無理に学校にも来る必要はない。それなのにここにいるってことは、まだ未練があるんじゃない? 諦めきれない、何かが」

 かぶりを振って、アオは言った。



 やっと、玲の表情の理由が分かった気がした。誰だって死にたくない。それは、彼女も同じなんだ。でも。うつむいた玲は、絞り出すような、震えた声を出した。

「……諦めないと、駄目なんだ」

「……え?」

 その言葉の意味が一瞬分からなくて、僕は聞き返した。

「もし、私が諦めなかったら、ありえない希望を持っちゃうから」

 それは、今まで以上に悲しそうな声だった。



 そう。昨日の朝からの違和感は、徐々に強くなってきている。でも、それを言ってしまえば、お父さんたちにいらない心配をかけてしまう。

「私なんていなくなってしまえば、誰にも迷惑なんてかからないんだよ」

「玲……?」

 いぶかしげな声で、アオが訊ねた。私の言葉は、もう、誰にも向けられてはいない。

「だったら、誰の記憶にも残りたくない。残ってしまえば、それは枷になる」

 私は、泣きながら笑っていた。

「知ってる? ヒトの存在って、結局その人の認識だけなんだよ。認識できなければそこに『いて』も『いない』の。だったら、忘れて、認識できなくなれば私は最初から存在しないの。そうすれば、誰も悲しまないでしょ?

 だから、友達も作らずに、ただ一人で死んでいく。私は、それを望んでるの」



 それは、きっと玲の本心なんだろう。でも、同時に彼女はそれを望んでいない。

「じゃあ、何で今僕の前にいるの? 誰かの中に残りたいからじゃないの?」

「そんなことない!」

 強い言葉。もう、玲の顔からは笑いは消えていた。残っているのは、悲しそうな表情だけ。

 そのまま、しばらく時間が過ぎた。太陽は、半分ほど沈んでいる。もう数分もしたら完全に沈みきるだろう。

「私は」

 やがて、僕の耳に届くか、という声で玲は呟いた。

「私には、はじめから生きる意味なんてあったのかな」

 その言葉に、僕は少し考える。

「生きる意味なんて、誰も持って生まれないよ」

「じゃあ」

 泣きそうな玲に、笑いかけながら僕は言う。

「意味なんて、結局は後付けなんだから。何かのために生まれた、って言うよりは生まれたから何かをするんだよ。

 それに、ないんだったら作ればいい。自分のためでも、人のためにでも。だから、意味があるのか、って考えるよりは意味を見つける、の方が建設的かもね」

 そこまで言って、息を吐く。玲の方を見ると、ちょっと驚いたような顔をしていた。実際、僕の方がびっくりだよ。こんなに長い説得も、こんなことがすらすらと頭から出てきたことも。

「……アオは、強いね」

 微笑んで、玲は言う。

「そんなことないよ。それを言うなら玲の方でしょ? 僕なら自分が死ぬって分かったら、きっと泣きわめいて引きこもっちゃうよ」

「ううん、私だってただ逃げてるだけだよ。どうしようもない、って」

 そう言って、僕の頭を撫でる玲。少し、くすぐったい。

「じゃあ、そろそろ帰ろっか、アオ」

「あ、うん」

 玲はくるっとターンして、扉の方へ。そして、扉の前で立ち止まる。

「……ねえ、アオ?」

「どうしたの?」

 表情は見えない。でも、真剣な声だった。

「アオは……友達でいてくれる? 私が、もう死ぬって分かってても」

 そんなこと。僕は、玲を追い越して扉を開ける。

「当然。それに、玲が言ったじゃない」

「何、を?」

 いぶかしげに聞く玲。

「『人は自分の認識したものしか存在を認めない』だったっけ」

「うーん……細かいところが違うけど、まあそんな感じ」

「だったら、玲が死んでも僕が『認識』してたら存在するんじゃない?」

 そう。さっき玲が言ったことを逆さまにしただけのこと。でも、僕は確かにそう思った。

「……迷惑、じゃないかな」

「何で?」

「だって、もういなくなる人間に囚われても大変じゃない」

「自分が好きでやってることで後悔するのは構わないんじゃない? 僕は、自分の意志でそうするって決めたんだから」

 昨夜、布団の中で出した結論。まあ、正確には結論が出る前に寝てしまって今この時までに出した結論だったりはするけど。だから、今の会話も踏まえてこう思う。

 玲は、今まで一人で過ごしてきた。なら、せめて最後ぐらいは誰かといてもいい。

「……そっか。じゃあ、よろしくお願いします」

 振り返る。そこには、今までで一番の笑顔で笑う玲の顔。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 そして、僕も一番の笑顔で笑いかけた。




 ……もう、限界が近いみたい。部屋に戻った私は、崩れ落ちるようにベッドにもたれ掛かった。手足の先はしびれて、あまり感覚はない。おそらく、しばらく身動きはとれないだろう。

 さっきの音で、お父さんとお母さんが私の部屋に来た。慌てて枕元の薬を取って、私に渡したけれど、掴むことが出来ずにそれは床に転がった。

 二人とも、もう病院に戻った方がいいって言ったけど、もう少しだけ、この世界を見ていたい。私の、『猫』が見る世界を。



 机に向かって、僕はパソコンを開いていた。一応、『シュレーディンガーの猫』を調べて。「猫の生死は観測されたときに決まる」とか、「生きているのと死んでいるのが重ね合わせになっている」とか、やっぱりよく分からない。て言うか、物理学って一番苦手な教科なんだよね。むしろ、哲学とかの方が僕にはしっくりくるんだけど。

 やーめた。一応課題は終わってるし、寝よう。それでは、おやすみなさい。




 朝、違和感は少し悪化していた。でも、多分、まだ大丈夫。

 階段を下りて、リビングに。お父さんとお母さんが体調を聞いてきた。昨日のことはあるけど、昨日よりはよくなった、って言っておく。きっと、本当のことを言えば学校にも行かせてもらえないから。そうなれば、友達に会えなくなるから。

 一応、学校へはお父さんが送っていくことになった。私は大丈夫、って言ったけど、念のためと押し切られた。

 今日は、『猫』はどうなるんだろう。



 やばい。また目覚まし時計の機嫌を損ねてしまったらしい。昨日は鳴ったのに。その結果は、走らないと間に合わない、といったところ。しかも、走ってもぎりぎりな辺り。……こんなことなら、陸上部にでも入っておけばよかったかも。

 必死に走って、校門が視界に入る。よし、ラストスパート……と、思ったところで車が一つ先の交差点から出て来て、止まる。ぶつからないように、スピードを維持したまま隣を通り過ぎる。

 そして、開きかけた車のドアの端の方にすねをぶつけた。悶絶しそう。

「だ、大丈夫?」



 車から降りようとしたときに、走ってきた人影にドアをぶつけてしまった。よく見ると、アオ。

「だ、大丈夫?」

 車から降りて、駆け寄る。アオはと言うと、涙目ですねを抱えていた。



 い、痛い……。すねを抱えたまま、駆け寄ってくる人影を見る。

「あ、あれ、玲?」

 特徴のある長い銀髪。それは どこからどう見ても間違えようもなく玲だった。

「あ、大丈夫……そう?」

「かなり痛い……」

 ぶつかったときに、すねが白くなった感じがした。おそらく、青あざぐらいにはなってると思う。



「ちょっと、見せてもらってもいい?」

 アオの返事を待たずに、私はアオのズボンをまくり上げる。あ、やっぱり青くなって腫れてる。

「これ、痛いでしょ」

 そう言いながら、青いところを指先でつつく。その度に、アオがよく分からない声を上げる。

 車の中から、お父さんがその光景をいぶかしげな顔で見ていた。私は、新しい友達、とアオを指さして言った。お父さんは、嬉しそうな、それに少し寂しそうな複雑な顔でそうか、と言った。



「で、歩けそう?」

「一応はね……」

 多分、骨にまでは行ってないけどすごく痛い。そう言うと、玲は僕の肩を担いで、立ち上がる。

「な、何するのさ」

「ほら、保健室まで行くよ?」

 でも、かなりゆっくり。おそらく、身体に負担がかかっているんだろう。

「だ、大丈夫だって」

「いや、原因は私だし……」

 玲の乗ってきた車はもう帰ったし、僕のことで玲に負担をかけるわけにもいかないし。

「じゃあ、何とか一人で歩くから一緒についてきてくれる?」

 ちなみに、もうチャイムは鳴っている。先生に会ったら……まあ、本当のことを言おう。

 保健室の扉を開けて、声をかける。少ししてから、先生が出てきた。どうしたのか聞かれて、すねを見せる。気のせいかさっきより腫れている。

 一応教室には先生が連絡を入れて、処置。原因を言うのはかなり恥ずかしいと言うか馬鹿らしかったけど、正直に。幸い、玲もフォローはしてくれた。

 骨に異常がないかどうか、先生が触って確かめる。その度、痛みをこらえるために顔がひきつる。だんだん、痛みがひどくなっている気がするんだけど。



 ちょっと、面白いかも。アオが先生に処置をしてもらっている間、何度も顔がひきつるのを見て、私は笑いをこらえるのに必死になっていた。きっと、私の顔もひきつっていただろう。

 処置が終わって、アオと一緒にお礼を言って出ていこうとしたとき、私だけ引き留められる。……きっと、昨夜のことだろう。アオに手を振って、扉を閉める。そして、差し出された椅子に腰掛ける。

 先生は、やっぱり昨夜のことを訊ねてきた。きっと、お父さんたちから連絡が入っていたんだろうと思ったんだけど、それだけじゃなかったみたい。どうやら、顔色がちょっと悪いのと呼吸が浅いらしい。確かに、少し、息をするのが苦しい。

 それだけ言うと、先生は少し休むよう言った。今は、そうした方がいいかもしれない。そう思って、私はベッドに腰掛けた。



 授業をしている教室の横を、痛む足をかばいながら僕の教室へ向かう。時々、教室の中から僕の方を見る視線が刺さってくる。

 ようやく自分の教室にたどり着いて、後ろの扉から静かに入る。うう、同級生の視線が痛い……。先生は、一応連絡が来ていたかららしく何も言わなかった。ただし、何をしてるんだ、と言った目はしていたけど。

 ほとんど出ていなかった一限目が終わって、休み時間。みんなが僕のすねを見ては笑っている。と言うか、痛いから、つつかないで欲しいんだけど……。いや、痛い痛い突かないで。




 お昼休み、私はいつも通り一人でご飯を食べていた。家から持ってきたお弁当。でも、今日はいつもよりも食欲がない。二十分ぐらいかけて、ようやく三分の一ぐらい。しょうがないから、片付けて薬を飲もう。そう思って立ち上がった瞬間。

 視界が歪む。平衡感覚もなくなって、床に倒れ込む。そのまま、私の意識は遠のいていった。



 昼休み。僕は、いつもと同じように学食でお昼を食べていた。ちなみに、痛みは少しひいたけど、足の腫れはまだ治ってない。時々友達が足を踏んできて、その度に妙な言葉が飛び出してくる。

 隣では、食べ物を口の中に入れたまま猛烈な勢いで友達と喋る男子生徒。物が飛びそうなんだけど。前の方に。一応は、気にした方がいいと思う。

 食べ終わって、教室の方へ戻る。その途中の教室から何やらざわめきが聞こえてきた。ふとクラスのプレートを見ると、二年九組。


 まさか。


 教室の扉が開いて、中から先生が出てくる。そして、運び出される人影に僕は見覚えがあった。


 それは、紛うことなく玲佳・アイゼンベルガーだった。




 ゆっくりと、目を開ける。白い天井、少し遠くで響く足音。……ああ、病院だ。それに気付くと、さっきまでの記憶が戻ってくる。確か、教室で倒れたんだっけ。

 少し焦点の定まってない目で、周りを見回す。あ、右腕に点滴。痕、残りそうだよね。もう何度もしてるし。

 そして。

「……アオ?」

 ベッドの横には、私を心配そうに見ているアオがいた。



 病室。点滴を受けながら、玲は眠っていた。……今、何時だろう。腕時計を見ると、六時、三十二分。あれから、六時間ぐらい経っていたみたいだ。

 玲が倒れて、それでも僕は授業に出た。今急いで玲の所に行っても、きっと会えないだろうと思ったから。そして、学校が終わるとすぐにここに来た。

 不意に、布団が動いた。ベッドを見ると、周りを見回している玲。

「……アオ?」



「今……何時?」

 私がそう訊ねると、アオは腕時計も見ずに答えた。

「六時三十四分ぐらい……かな」

「……よく分かるね」

 ちょっと感心。

「いや、玲が起きる直前に見たから。時計」

「……そっか」

 感心を返して欲しい。……そう言えば、何でアオがいるんだろう。

「いや、学校終わってすぐに来たら玲のお父さんに頼まれたんだけど。見てて欲しいって」

「お父さん……?」

「うん。今朝、車運転してたから覚えてたんだけど。あと、電話番号も交換したよ」

 あ、あの時に見たのか。

「ところで」

「何?」

 アオは、私の言葉に少し姿勢を正す。

「大丈夫?」

「何が?」

 私は、自由な左手をゆっくり動かしてアオの足を指さす。

「すね」

 その言葉に、アオは少し考えて、手を叩く。

「かんっぺきに忘れてた」

「あれだけの痛みを忘れるって、結構すごいと思うんだけど……」

「え、だって忘れてた……し……」

 とん、とアオが床を蹴る。その瞬間、表情が何だかよく分からないような動きをする。

「思い出したら痛い……」

 思わず、笑いがこみ上げてきた。アオはと言うと、何やら憮然とした表情で私を見ていた。

「そんなこと言えるなら大丈夫だね。玲?」

「あはは、ごめんごめん」

 でも、実際アオが来てくれたことは嬉しかった。最期ぐらいは、孤独じゃない方がいい。

「……アオ、聞いてくれるかな」



「……アオ、聞いてくれるかな」

 さっきまでとは違う、真剣な声。

「私、きっと、長くない」

「……え?」

 その言葉に意味が分からなくて、聞き返す。

「きっと、私の『猫』が死ぬって観測されるのは、もう遠くないよ」



「きっと、私はこの病室から出ることも出来ない。……ううん、もうベッドから降りることすらも出来そうにない」

 さっきから気付いていた。足に力が入らない。腕も、動かせるけどかなりだるい。むしろ、今動かせたのが不思議なぐらいだった。

「だから、最後に聞くよ? きっと、辛い思いすると思うけど、それでも……」

 けれど、その言葉はアオの言葉で最後まで言えなかった。

「構わないよ。自分で決めたことだから」



 僕は、何のためらいもなくそう答えた。たとえ辛い思いをしても、後悔だけはしたくない。

 だから、僕は笑顔でこう答えた。

「だから、大丈夫」




 机に向かって、考えごと。そのおかげで、ただでさえやる気の出ない課題がさらに進まない。

 自分の終わり。それは、玲にはどんな風に見えているんだろう。今まで考えたことがなかったけど、僕ならきっと泣きわめいて閉じこもるかもしれない。でも、『かもしれない』でしかない。結局は、そうならないと分からないと思う。



 夜の病院は、静かすぎて少し怖い。何度も、何度も入院しているけど、今回ほどそう思ったことはない。

 終わり。『猫』の死んだ世界。それが観測されたとき、私は一体どう思うのだろう。いや、もう何も思わないのかもしれない。


 でも。


 出来ることなら、まだ、生きていたい。生きて、この世界を、ずっと見ていたい。

 でも、奇跡でも起きない限りそれはないだろう。それに、起きないから奇跡だし。

 ……とりあえず、寝よう。そうすれば、明日になれば、また、何かあるかもしれない。




 次の日。僕は、適当に授業を聞き流していた。いや、頭に全然入らなかった、って言った方が正しいかも。それでも当てられて答えることが出来たのが驚きだ。



 玲がいなくても、何も変わらない。みんなからしてみれば、きっとそれは日常の範囲外なんだろう。考える必要のない、別の世界。

 ……でも、それは重なった世界の一方がずっと観測されているだけ。誰にだって、いつ来るかは分からない。




 放課後になって、僕は玲の病室に向かう。少し病院まで遠いのが難かも。

 扉をノックして、中に声をかける。

「玲?」



 何だか、する事がない。と言うか、何も出来ないって言った方が正しいかも。点滴はずっと刺さったままだし、そもそもで体が思うように動いてくれない。

 それで、結局は本を読むだけ。一応、ほとんど頭には入ってるんだけど。

 そして、その本の最後のページを読み終わったとき、扉を叩く音が聞こえた。

「玲?」

 アオ、だ。

「入っていいよ」

 扉を開けて、アオが病室に入ってくる。

「大丈夫?」

「あ、えっと……、普通に本が読めて話が出来るのを大丈夫って言うのなら」

「……大丈夫じゃないのは?」

「……体が思うように動かなくて、点滴じゃないと栄養がとれないこと?」

 笑顔でそう言うと、アオは黙ってしまった。冗談っぽく言ったんだけどな。



「……それって、今の状態?」

「……うん」

 それって、大丈夫じゃないよね、絶対。

「だって、頭はすっごい冴えててさ。なのに何にも出来ないんだよ? だから、精神的には大丈夫。肉体的にはちょっと駄目かもだけど」

 でも、笑いながら言う。

「とりあえず、寝てた方がいいと思うよ?」

「それがね……ちょっと、怖くてさ」

 玲は少しうつむいて、そう呟いた。

「怖い?」

「うん。もうこのまま目が覚めないんじゃないか、とかね」



 今までは、それもいいと思っていた。でも、今はそれがとても怖い。何て言うか……うーん、どう言えばいいか分からない。

「とにかくね、何だか怖いんだ。何がどうとかわかんないけど」

「……そっか。実際僕もよくわからないけど、何となくはわかるよ」

 そして、二人とも口をつぐむ。でも、少し安心できるような気がする。

「そう言えば、学校」

「何?」

 私の質問に、アオが聞き返す。

「何か、変わったことあった?」

 アオは、腕を組んで考え込む。

「変わったことがないことが変わったことかな?」



 結局、人ひとりいなくても学校なんか変わらないんだよね。でも、それはあまりにも不自然な自然。

「きっと、誰も私に興味ないんだろうね。まあ、誰がなってもそうなんだろうけど」

「興味って……」

 その一言で片付けていいのかな……。あんまりにも軽すぎる気がするなぁ。

「そんなもんだよ。気にならないことは気にしないから、誰だって」

「でもさ、人ひとりがそこまで軽くてもいいの?」

「うーん、きっとそうなんじゃないかな。アオも、そんな人いるでしょ? クラスメイトだけど、特に気にも留めない人」

 そう笑顔で言う玲。考えて、少し嫌な汗が流れた。

「……いる、かも」

 実際、同級生でも気にしない人が半分ぐらいかも。いや、何だかもっといそうな気がする。

「だから、そんなもんだよ」

 何となく、無理に納得させられた感はあるけど、でも事実なんだよね……。これからは、同級生の顔と名前ぐらいは一致させるべきかな。

「でもね」

「え?」

 悩んでいた僕に、玲の言葉が聞こえた。玲を見ると、優しい笑顔。

「きっと、それはどこかおかしいんだろうね」



「人が人に興味を持たない、ってことが?」

 アオが聞き返す。

「うん。興味云々じゃないとは思うんだ。それは。まあ、この話はこれでおしまい。じゃないと、アオも頭痛くなっちゃうでしょ?」

「もうすでに痛いよ……」

「あはは……」

 こめかみを軽く叩きながらアオが言う。どうもアオは感情がすぐに表に出て来るみたい。

「それより、のど、乾いてない?」

「あー、ちょっと。さすがに学校からここって遠いしね」

「そっか。実はそこの冷蔵庫にジュースがあるんだけど……飲まない? 私ちょっと今飲めないし」

 お父さんたちがお見舞いに来たときに持ってきたけど、もうそれもきつい。でも、このまま飲まれずに捨てられるのも何だかジュースがかわいそうだし。それなら、飲んでもらった方がいいかも。

「じゃあ、いただきます。何があるの?」

「確か……グレープとグレープフルーツとアップルとオレンジ?」

「あ、だったらもらうね」

「どうぞどうぞ。セルフだけどね」

 冷蔵庫を開けて、アオがジュースを探す。ごそごそと。

「どうでもいいけどさ」

「何?」

 ジュースを飲みながら、アオが話しかけてくる。

「何だか見てて痛々しいよね、腕」

 ああ、点滴のことかな。

「看護実習生の人なんかもっとひどいらしいけどね」

「……どんな風に?」

 目線を上に向けて、思い出す。

「採血やって内出血?」



「……うわ」

 想像したくない。痛いのも苦手なんだけど。

「ちょうど、そのジュースみたいな色になってるらしいけど」

 指さしたのは、僕の持ってるジュース。グレープ味。

「……飲めなくなりそうなんだけど」

「あはは……ごめん」

 乾いた笑い。……何だか、ジュースが内出血みたいに見えてきた。

「えーと、痛いのとか苦手?」

「最高に苦手だよ……」

 うう、味まで鉄っぽく思えてきた……。話、変えよう。どうもこの調子だと飲めなくなりそうだし。代わりの話を探して、病室の中を見回す。……あ、そうだ。

「そう言えば、玲ってどこからそんな知識得てるのさ?」

 量子物理学とか、普通の高校二年生は知らないと思うんだけど。

「んと……。ほら、私家でおとなしくさせられてた時間長かったからね。暇なときにお父さんの持ってた本片っ端から読んでたんだ。だからかな」

「ちなみに、お父さんの職業は?」

 僕がそう聞くと、玲は厳かにこう告げた。

「大学教授」

 ……なるほどね。それは知識も増えるよね。

「まあ、後は自分の趣味かな。曖昧なものって好きだったし」

「好きだった?」

「うん。もう時間もないだろうしね。私には」

 諦めたように笑う玲。

「絶対に治らないの?」

「うーん……奇跡、でもあればだけどね。でも」

 そこで玲は言葉を区切る。そして、また笑いながら言った。

「起きる可能性が一パーセントにも満たないから奇跡って言うんだ、って私は思ってるから」



 奇跡なんて起きない。起きたらそれは奇跡なんかじゃなくて単なる事実に成り下がるから。

 だから、私は奇跡なんて信じない。

「だから、もう治らないよ」

 そして、私は事実を見据えなきゃいけない。ありえない希望なんて持っちゃいけない。それを表に出してもいけない。例え、それが怖くても。

「んとね、だから奇跡なんて願っちゃいけないの。そうすれば、私は……」

「でもさ」

 そこまで言って、アオに言葉を遮られる。

「何?」

「一パーセントにも満たなくても起きる可能性があるから奇跡なんじゃない?」

 逆の見方だね。確かにそうかもしれない。でも。

「でも、そんなに低い可能性はないと一緒じゃない?」

「まあ、そうなんだけど……」

 アオは困ったように頭を掻き始めた。



 うーん、やっぱりこのジャンルで玲を言い負かすのは無理かな。でも、それでも僕としては彼女に生きていて欲しい。自分から生きることを諦めずに。

「まあ、この話もこれでおしまい」

 うう、何だか変なところで話を止められたからもやもやする……。

「ほらほら、変な顔しないで。何だか胃の中にいろいろ詰め込んで消化不良って感じの顔になってるよ」

「いや事実そんな感じなんだけど」

 消化不良になってるのは言い返せなかった言葉だけど。

「あ、点滴終わってる。ごめん、ナースコール押してくれるかな」

「いいけど……ほんとに大丈夫?」

「うーん……やっぱり、動かないかな。あんまり」

 ってことは、起きてるのもきついんじゃないかな。

「無理させてるなら帰った方がいいかな。僕」

「あ、えーと……実はさ」

 玲がそこまで言うと、看護師さんが代わりの点滴を持って入って来た。面会時間が終わるらしく、やんわりと帰れって言われた。うん、ほんとにやんわりと。




 アオが帰って、私はベッドに横たわった。本当のことを言えば、起きてるのも結構きつかった。でも、心配をかけたくない。……いや、気付いて欲しいのかも。どうなんだろうか。ちょっと、自分がよく分かんないな。

 うん、よく分かんないのは最近ずっと。相反するような考えがずっと頭の中をぐるぐるしてる。何なんだろうね、これって。

 息を大きく吐いて、右手を天井に向けて伸ばす。……やっぱり、だんだん力が入らなくなってきてる。きっと、私の『猫』が消えるのは時間の問題。そう思うと、この一週間の思い出が頭に浮かんでくる。そして、涙が頬を伝っていることに気付いた。

 ……そうか。私は、まだこの世界にいたいんだ。終わるときになって、初めてそれに気付くなんて。

 まだ動く右手で涙を拭って、私は初めて願い事をしながら目を閉じた。


 どうか、明日も「猫」が生きていますように。




 家に帰っても、僕は玲のことを考えていた。もし僕が同じ立場だったら、きっとどんな希望でも願うと思う。どんな奇跡でも、起きて欲しいと思う。

 ……だめだ、何か頭がぐるぐるしてきた。やっぱりこういうのは苦手かも。こんなんじゃ玲に勝てないよね、絶対。

 でも、何とかして答えを出さなきゃいけない。じゃないと、玲が生きていく望みを作れないから。

 まとまらない考えをまとめながら、僕はゆっくりと目を閉じる。


 どうか、玲の「猫」が生き続けますように。明日も、明後日も、ずっと先も。




 次の日、僕は補習をほとんど上の空で聞いていた。友達に話しかけられても、当たり障りのない返事で。その状態を見て友達は恋の悩みかと聞いてきたけど。いっそそんなのだったら楽だったのに。



 放課後、もういつものように玲の病室に向かう。急変とか……してないよね? 何だか怖いんだけど。

 病室の前で、立ち止まる。一つ息をして、ノックをする。

「玲、入るよ?」

 ドアを開けると、ベッドの上で玲が本を読んでいた。……ふう、容態が悪化してなくてよかった。

「あ、アオ。どうしたの? 何だか顔色悪いよ?」

「いや、もし玲の容態が急変してたら、って思って」

「大丈夫だって。まあ、右手しか動かないのに変わりはないけどね」

「それは大丈夫じゃないよ……」

 僕は額を押さえてうめいた。それって、もう体のほとんど動かないってことだよね。



 額を押さえているアオ。前から思ってたけど、アオのこれって癖なのかな。よくやってるけど。

「まあ、頭と口もよく動くけどね」

「そりゃあ、それだけ話せればそうでしょ……」

 あ、何か心配して損した、って顔してる。

「ほらほら、そんな顔しないで。ジュース飲む?」

 ため息をついて、アオは冷蔵庫の方に歩いていく。

「……じゃあ、アップルもらうね」

「うん、いいよ」

 どうやらグレープは昨日の話で飲む気がなくなったみたい。それはそうかもね。あの内出血の話の後じゃ。

「ほらほら、病人の私よりも顔色悪くなっちゃったら駄目だって」

「そうなんだけど……」

 苦笑いを浮かべるアオ。でも、顔色は悪くても何とか笑ってくれた。よかった。

「で、今日の学校は?」

 どうだった? と言外に聞いてみる。アオはそれに気付いたらしく、少し考える。

「うーん……誰も玲のことを覚えてないみたい」

 ちょっと言いにくそうに、アオは言う。



 ちょっと、言いにくかった。それはそうだ、目の前の人間に対して「忘れられてる」なんて言うのは心苦しいに決まってる。玲もそれを分かってるはずなのに、いつもの笑顔でこう言った。

「まあ、みんな自分が一番だから」

 だから、人のことなんて誰も気にも留めない、そんな風に僕には聞こえた。

「知ってる? 人ってね、覚えてるから何かを知ってるんだよ」

「……?」

 いきなり、意味の分からないことを言う。

「だからね、覚えてないことは知らないこと。そして、自分のことが一番の人は他人のことを知ろうとしないんだよ」

「それって、誰も玲のことを『気に留めようとしていない』って言うこと?」

 僕のその言葉に、玲はやっぱり笑顔でうなずく。

「そうそう」

 ……笑顔で言うことじゃないよ。

「だってね、もうどうしようも無いじゃない。『自分のことをどうしても覚えてて』なんて言ったってそんな人には関係のないことじゃない?」

「まあそうだけどさ……」

 答えに悩んだことを当人がそんなにあっさりと言うのはどうかと思うんだけど。



 長いため息を吐くアオ。

「それでも、誰かには気にしてて欲しいとは思うけどね」

「どっちが本音なのさ……」

 また額を押さえてうめく。

「どっちも本気。でも、どっちもジョークかな」

「こないだの『重ね合わせ』?」

「うーん、それとはちょっと違うかな。えっとね、本気とジョークの境目がないの。私は。だから、どっちでもあってどっちでもない」


 それが私の本心。本当も嘘も全部混ぜて、誰にも知られないように。そんな私の気持ちを見透かしたかのように、アオは口を開く。

「本当に?」

 その言葉に、私はどう答えるべきか少し悩む。でも、きっと誰かに分かってもらいたい、って言うのもあるのかもしれない。それこそ、どっちでもあってどっちでもない、だ。

「……うん、私の本当の気持ちは、さっき言ったとおりどっちでもあってどっちでもない、だよ」



 玲の言葉に、僕は少し考える。

 玲は、きっと自分でも分からないうちに気持ちを抑えている気がする。誰にも迷惑をかけないように。だから、どれだけ本心を見せても最後に「ジョーク」って言う仮面を被せて誰にも知られないようにしているように見えた。だから、僕はこう尋ねた。

「本当に?」

 僕のその言葉に、玲は少し悩んでこう答えた。

「……うん、私の本当の気持ちは、さっき言ったとおりどっちでもあってどっちでもない、だよ」

 やっぱり。

「玲ってさ、本心を見せても最後に「ジョークでした」っておどけて全部嘘にしてるよね」

 僕の言葉を聞いて、玲はやっぱり黙り込む。

「……ホント、アオってよく分かんないな」

 そして、ぽつりと呟く。

「何が?」

「私のこと分かんない、って言ってるけど私の分かってない部分まで分かってるから」

 その言葉に、僕は答える。

「考えただけだよ。それに、自分じゃ分かんないところも他の人から見たら丸見え、ってコトもあるし」

 それを聞いて、玲はまた考える。

「ジョハリの窓?」

「何それ」

 玲の言葉に、今度は僕が黙り込む。

「えっとね、ジョーさんとハリーさんって言う人が作った物なんだけど、四角を書いて、それを四等分するの。で、横軸に自分、縦軸に他人を置いてそれぞれ「自分も他人も知っている」、「自分は知っているけど他人は知らない」、「自分は知らないけど他人は知っている」、「自分も他人も知らない」、ってその窓に名付けるの」

「何か……名前、単純すぎない?」

「私もそう思うけどね」

 ジョーさんとハリーさんだからジョハリ、かぁ。で、それがどう関係してるんだろう。



「単純なことだよ。この「自分」と「他人」をそれぞれ「私」と「アオ」に置き換えればいいだけ。この場合は「私は知らないけどアオは知っている」って言う窓を言われた、ってことかな」

「はあ」

 私はアオにそう言う。何となく納得してくれた、かな。

「で、この「自分は知らないけど他人は知っている」ところと「自分は知っているけど他人は知らない」ところを「自分も他人も知っている」部分に広げていったら最終的には「自分も他人も知らない」部分が減っていくっていうこと」

 そこまで言って、私は説明を終える。

「てことは、今僕が言ったことが「玲の知らない」ところで、さっき玲が言ったのが「僕の知らない」ところ?」

「ご明察」

 アオの言葉に、私はまだ動く右手で親指を立てた。

「でも、もう世界が終わるのに自分の心の中を広げても意味はない気がするけどね」

 自分で分かっている。もう、あんまり時間が残ってないことも。それでも、昨日気付いてしまった「生きていたい」と言う気持ち。いっそ気付かなければ、このまま世界から消えられたのに。

「そんなこと、ないよ」

 不意に、その言葉で私は現実に引き戻された。



「そんなこと、ないよ」

 思わずそんな言葉が口から出ていた。自分でも驚いて、でも、口からはどんどん言葉が出ていく。

「心の中を広げたなら、そのことを誰かに言えばいいんじゃない? 『私はこんな人間でした』って。第一、玲は誰かに覚えててもらいたいんでしょ? それなら、僕が覚えてるから。例えもう玲の世界が終わっても、玲がいたことは絶対忘れない。だから……」

 そこで、言葉が途切れる。気付いたら、涙が頬を流れていた。

「……うん、そうだね」

 ゆっくりと、玲が僕の頬に手を伸ばす。そして、涙を拭く。

「さっきの言葉、多分嘘。私はきっと、ううん、きっとじゃない。誰かに覚えててもらいたい。誰も覚えてないなんて、それじゃ私の存在までなくなっちゃう。だから、アオ?」

「何?」

 自分で涙を拭いて、僕は玲に聞き返す。

「最期まで、私を覚えてて」




 帰り道。僕はふと空を見上げた。そして、考える。……誰だって、消えるのは怖い。きっと僕も同じ状況になったらそう思うだろう。……考えすぎて、頭パンクしそうになってきた。



 アオが帰ってから、私は窓の外を見つめていた。その視界が揺らいで、私は自分が涙を流していることに気付く。

 自分でも分かる。きっと、もう私に残された時間はほとんどない。この間までは、それを受け入れていたのに。でも、今は。


 誰かの記憶の中に、残っていたい。それが残酷なお願いでも。




 次の日、日曜。天気は雨。いつもならゆっくりと寝ているはずなのに、何故か早起きしてしまった。枕元の目覚ましは壊れたまま、鳴る気配もないのに。そう考えたとき、不意に目覚ましではなく携帯電話が鳴る。画面には「玲父」。おそるおそる出てみると、玲のお父さんの慌てた声。そして、その言葉に僕は呆然とした。



 玲が、危篤だと。



 点滴と心電図の音が響く部屋の中、僕はベッドの横に座っていた。玲のお父さん曰く、『もう限界が近いだろう』と言うことだった。そのこともあって、僕が部屋の中に入ることも許してもらえたみたいだった。

 窓の外を叩く雨粒は、まるでノイズのようで。でも、こんな三重奏は聴きたくなかった。

 不意に、玲のまぶたがゆっくりと開く。

「……アオ……?」

「……うん」

 弱々しく、玲は僕の名前を呼ぶ。

「私、幸せだったよ。きっと明日、私の『猫』は生きてはいないと思う。でも、私はキミと会えて同じ時間を過ごした。それでキミの中に私が残れば、私は消えないから」

 そういって、玲は僕の手に触れた。よわよわしく、けれど、力強く。

「ほら、笑って。最後の記憶は笑顔にしたいよ」

 微笑んで言う玲。そう言われて、僕は笑った。きっと、泣いているか笑っているか分からない顔なんだろう。でも彼女は、玲佳・アイゼンベルガーは満足そうな顔をして、まぶたを閉じた。

 もう開くことのない目。聞くことの出来ない彼女の声。

「ねえ、玲の最後に見た夢はどんなだった?」

 僕は、その手を握ったままたずねた。答えなど、聞けるはずもない。でも、それでも。僕は、聞かずにはいられなかった。





 白。白い世界。


 僕は、真っ白な病室にいる。


 私は、真っ白な世界にいる。


 白い世界で、今までのことを思い出していた。


 玲と過ごした一週間を。


 キミと過ごした記憶を。


 一緒に過ごしたこの時間は、きっと、一瞬で。そして、永遠のような時間だったのだろう。


 でも。


 もう二人の世界は重なり合うことはない。


 それでも、きっと。


 僕は。


 私は。


 この時間を、幸せだと感じていたのだろう。




 だけど。


 本当に、それでいいの?


 そんな言葉が。


 僕の。


 私の。


 耳に、確かに届いた。





 病院の中庭、車いすを押す僕に玲は話しかける。

「奇跡、起こっちゃったね」

「そうだね。誰だっけ、奇跡なんて起こらないって言ったの」

 笑いながらそう言うと、玲も笑って返す。

「私だね」

 そして、玲はまぶしそうに空を見上げる。

「ねえ、もしも自分が物語の登場人物だったら、って考えたことある?」

「え?」

 唐突なその言葉に、僕は戸惑ってしまう。それにかまわず、玲は続ける。

「それでね、その物語を創った人は、ハッピーエンドが大好きで、人が死んだりするような物語は嫌い。だから、この物語もみんなが幸せな終わりにしたい、って考えたんじゃないかな」

 そんなことを思ったんだけど。そう言って、玲は空に手を伸ばす。

「……だとしたら、とんでもなくメンタルが弱いのかそれとも優しすぎるのか分かんない人だね」

「そうだね。でも、そのおかげで私は今ここで生きている。そう考えたら奇跡の理由も説明が付くかな、って思って」

「……そうかもね」

 そう呟いた僕の手に自分の手を重ねて、玲は小さく笑う。


「だから、最後まで笑っていたいんだ。私がいなくなる、最期まで」

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最後の夜に見た夢は 美坂イリス @blue-viola

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