過黙な人魚たち

 鳥の鳴き声がよく響くビル街の一角にあるコンビニ。毎朝決まった時間に花子と待ち合わせをして学校に向かう。手を挙げて朝の挨拶をし、黙々と高校への道を歩いていく。騒音対策のされた車が静かに道路を往来し、通り過ぎる自転車に乗った少年は、小さく息を吐き続けて目的地を目指して走り去った。都会でありながら田舎のような静寂感に包まれている。道端には人が溢れかえっているのに、彼らは声を発しようとはしない。代わりに目配せやジェスチャーを使って意思疎通を図っていた。そのため、人の群れの中に居ても聞こえるのはアスファルトを鳴らす足踏みの音か散歩中のペットや野鳥の鳴き声だけ。言葉という便利なツールを誰一人として活用しようとはしなかった。この息苦しい状況に陥っているのはこの土地に限った話ではなく、全国何処かしこも同じ様相を呈している。

 きっかけは10年前に遡る。言葉による暴力が横行していた当時、被害を受けた人々の自殺が激増。国民の悲鳴が数多く、対処に頭を抱える政府は苦渋の末にとある法律を定める。その法律では、「ウザい」や「キモい」や「死ね」といった一部暴言を使用禁止語として定め、それらを使用した者は懲役1年又は10万円以下の罰金刑に処される。表現の自由や言論の自由などの観点から、法律を問題視する声が上がったが、その声を受けて実施された国民投票では賛成が7割を占めて、そのまま運用されることになった。施行された当初は穴が多く、インターネット上の匿名性を利用して法を破る者がいたり、偽りの親告で冤罪が起きたり、改善すべき部分が無数に存在した。行き過ぎた違反を防ぐには行き過ぎた対応を迫られることもあり、政府はその都度慎重に国民投票を実施して、国民の声に沿った法の改善を進めた。結果、政府部署でのインターネットの書き込み監視と人物特定が可能になり、定められた使用禁止語の数も激増。年々、法律の内容は過激化していき、数年前にはテレビ番組や小説、漫画など、使用禁止語を使用できた数少ない場所でも、「教育上問題がある」「違反行為の助長・教唆に繋がる」などの理由から規制がなされた。そのせいで、テレビをつけても映像が映し出されるだけで、文字や声は一切なく、漫画を開けばどの作品も台詞の無い無声作品ばかりとなっていた。法律の過激化は現在進行形で進んでおり、今年に入って新たに、「こんにちは」や「おはよう」といった日常で使う挨拶言葉が使用禁止用語に加えられた。提案者の意見としては、「会う度にいちいち言うのは面倒。声を掛けたら相手も返さないといけないので、それは無理強いになる。」とのこと。礼儀や相手への思いやりで掛ける言葉だと思うので、使用禁止にするのは間違っていると思うが、先日行なわれた国民投票では8割の支持を得ていた。そんなわけで、覚えるのも面倒な程に使用禁止用語が増えたため、人々は下手なことを言わないようにと口を噤むことにしたのだ。街中の至る所には監視カメラや盗聴器が仕込まれていて、それは一般家庭内という私的空間にさえ忍び込んでいる。この国の人間は24時間監視されているのだ。これも全て国民の大多数が望んだ結果である。異常な法律のおかげで確かに自殺者は激減して、犯罪件数も右肩下がりになっているみたいだが、それでも人間の尊厳と自由を脅かしているこの言葉狩りルールの在り方に疑問と不満は募るばかりであった。

 黙々と歩きながら高校に着く。校門を抜けて、昇降口に向かおうと校舎を目指して歩き出し始める花子の手を俺は掴んだ。花子は俺の顔を見て首を傾げる。彼女の手を掴んだまま、俺は校庭の脇に植えられた一本の楓の木の下に向かった。長い黒髪を小さく揺らしながら、俺に身を委ねるように引かれる手に抗うことなく彼女はついて来てくれた。木の葉がすっかり紅く染まった秋色の傘の下で、俺は花子に向き合うように立ち、彼女の両手をギュッと握った。俺が何をしたいのか、ようやく察した花子は、頬に楓を映しながら一度視線を逸らせて、けれどすぐに俺の目を真っ直ぐに見つめて、大きく頷いてくれた。俺は花子の手を離して、代わりに両腕で彼女の体を抱き寄せて、優しく包み込んだ。花子もまた、俺の背中に腕を回して、熱をその身に深く感じるように体を密着させた。

 いつの日かこの狂った世界が正常に戻って、今この瞬間伝えたい思いを声に出して君に伝えられる日が来ることを願って…。

 始業を急かす予鈴を聞き流し、俺と花子は紅い雨の下で、しばし冷め止まぬ熱に酔いしれた。


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