第12話 青い空

 マスターに抱えられ、客席に戻った。前後左右のおじさんおばさんにもみくちゃにされ、一息ついたころ、司会のおばさんが満を持して切り出す。


「それでは、皆さんお待ちかねの」

 話し終わる前に、拍手がわいた。もともとぼくが歌うことはイレギュラーだったわけだから、観客としては、ようやくといったところだろう。当然だが、ぼくが歌う前に起こった拍手とは比べ物にならないほど、大きな歓声だった。積み重ねられた実力と期待を肌で感じることができる。


 ゲタ姉さんは、緊張なんてまるで感じさせないくらい、飄々とした態度でマイクへ向かった。その後ろをさりげなくマスターの奥さんが続く。


「演奏はうちのカミさんがやるんだ」

 マスターが横から得意げに言う。

「ピアノですか」

 イメージを口にしてみる。

「その通りだ」なぜかマスターは偉そうだ。

「ひょっとして、いつも?」

「その通りだ」やはりマスターは偉そうだ。そのしたり顔から察するに、どうやら彼も、ぼくが歌う計画を知っていたらしい。最初から、ぼくのギター演奏は想定されていなかったということか。

 マスターは、取り繕うかのように背中をバシバシ叩いた。


「えー、この曲は、あたしが作ったものだ」

 ゲタ姉さんは、あまりMCが得意でないのか、ひどくぶっきらぼうに言った。

「別に何かを伝えようとか、誰かを想ってとか、そんな壮大なモンじゃなくて。えーと。とにかく! みんな気に入ると思う!」

 この自信を見習いたかった。披露する前に自らハードルをあげる行為は、ぼくからしたら暴挙に近い。

 しかし承知しているのか、客席も、その自信に呼応するかのように盛り上がる。ぼくも、とりあえず拍手をしておいた。


 一転。店内は、真夜中の公園のように静まり返った。出番は終わったはずなのに、ひどくドキドキする自分がいる。CDでは味わえない、ライブの緊張感というやつなのだろうか。


 ゲタ姉さんがマイクの前から、合図を送る。ピアノに座る奥さんは、いつでもオーケーと言わんばかりにニコリとほほ笑み、鍵盤に手をかけた。



 マイナー調の旋律が静かに広がった。物悲しいけど、どこか優しい。不思議な旋律だ。これに未知数なゲタ姉さんの歌声が乗ると思うと想像がつかない。いったい、どんな。


 周囲が明るくなった気がした。空気が変わったと言い換えてもいい。

 今日、会ったばかりだけれど、ゲタ姉さんの性格は、重々承知していた。表面上のイメージから言えば、パンクやメタルが似合う彼女だ。恰好で考えれば、カテゴリーエラーである。

 だけど目の前で紡がれる歌声は、それらとは、およそかけ離れたものだった。


 澄み切っていた。

 彼女の声には、反骨精神も何かに対する不満も、はたまた抑えきれず溢れ出たアナーキーな衝動も感じられなかった。ただただ、澄み切っている。だからといって、世界平和を訴えようとか、人々を幸せにしようという意図も感じられない。

 青空が、人々に幸運をもたらすために存在しているわけでないように。


 いつの間にか視線は天井を仰ぎ、空のかなたを見つめている。そんな歌声。


 歌詞の意味はよくわからなかった。今どきの曲っぽく英語が駆使されることもなく、全て純然たる日本語で歌いあげている。哲学的と言えば聞こえがいいけど、特に意味はないと言われたら納得できてしまう。だけど、耳に入ってくる。どうしようもなく、心が躍る。



 思えば長い一日だった。

 ぼくは、屋上に行き、自らの命を絶とうとした。


 そして助けられた。

 ――おっし。サボるぞ。

 その一言をきっかけに生まれて初めて学校をサボった。親にも、先生にも言わず。誰にも知られないままま、今日会ったばかりの見ず知らずの人と。

 刺激的というには、不安が多すぎた。ツッパルと言い張るには、度胸が足りていなかった。


 サビに入ると、脳が、鼓膜に合わせて振動するかのような錯覚を覚えた。決して、マライアキャリーも欠くやと言わんばかりのオクターブ音域が繰り出されているわけではない。声量でいうなら、先ほどの性別不詳のオペラ歌手の方が上のはずだ。それなのに、ひどく揺さぶられる。


 ――あたしもサボってんだ。イチレンタクショーだろ。

 そうやって笑いかけられたとき、ぼくの不安は消えた。同族を見つけて安心するなんて、我ながらみみっちい奴だと思うけれど、理由は他にもあった。

 とにかく別の誰かが同じことを言っても、きっとぼくは納得しなかっただろう。


 ピアノがソロに入る。奥さんの細長い指からは、想像できないような力強い音色が響く。ゲタ姉さんは、大人げないけど自己中心的ではない。強引に思えるのは不器用だから。

 それがわかれば、きっとみんな彼女といい関係を築けるだろう。奥さんの、のびのびとしたピアノの音色には、ゲタ姉さんへの信頼が、鮮明に聞き取れた。

 たった一日付き合いだけど、ぼくも彼女を信頼しきっていた。何を企んでいるのか、はらはらする時はあるけれど。


 ――生きろ。あの世でバカにされたくなきゃ、今を精一杯な。

 

 ひょっとしたら。ぼくは、思う。

 彼女に出会ってから、胸中を漂うモヤモヤした感情。不快じゃないけど、得体のしれない何か。これは、ひょっとしたら。


 改めて言葉を紡ぐ彼女を見上げる。何を考えているかわからないけど、行動は一貫していて、つい行動を共にしたくなる。ガサツで乱暴で大人げない。だけど不器用で優しい。


 ぼくは、この人のことが。


 ……いや、やめよう。ぼくは、思考を中断した。今はただ、この歌を聴いていたかった。それだけで充分な気がした。


 曲は、ラストスパートに入る。彼女の満ち足りた笑顔は、きっと純粋に音楽を楽しんでいることの現れだろう。その気持ちは、水面の波紋のように、小刻みに、だけど止めどなく伝わる。奥さんも微笑み、気づけば周りのお客さんも笑っている。


 今、この空間を邪魔されたくない。

 心底思った。

 それだけを思った。

 もう、あの世に行く気なんてない。だから頼む。神様。頼むから、お客を入れないでくれ。

 

 ぼくは、曲が終わるまで願い続けた。

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