第11話 青い心

「無理です。ムリムリムリ」


 ぼくは最小限の声で、なおかつ人目を気にしながら抗議した。いくらNOと言えない日本人でも限度がある。こればかりは、ゲタ姉さんの強引さをもってしても覆せない。いや、意地でも覆させない。


「恥をかいてればって思ったんだろ? かいとけ、ここで。なにか変わるかもしれないぞ」

「それは一年生のころの話で」という抗議は、当然ながら無意味だった。


 ゲタ姉さんは、ぼくが持つギターの弦を軽く撫でた。我が家にあるギターは、ひょっとして偽物なのではないかと疑いたくなるような、澄んだ音が出る。店のインテリア化としていたギターは、ぼくのお小遣い一年分を費やしても到底買うことのできない高級品だった。落とすわけにはいかないし、地面に置くのはもってのほかだ。

 ようやくギターの置き場所を見つけて安堵したころには、客席は満員になっていた。


「あんた好きなグループは?」

 なすすべもなく固まっているぼくに、ゲタ姉さんが突然聞いてくる。


「なんでですか?」

「それ歌うから」

 ちょっと胸が躍りかけた。が、それで納得するぼくではなかった。そもそも、こちらが弾けて彼女が歌えるなんて都合のいい曲あるだろうか。いや、あるわけがない。

 ぼくは半ば挑発するように、九十年代に一世を風靡したロックバンドの名前を伝える。すると間髪いれずに、グループの代表曲を返された。ぼくも大好きなナンバーだった。


 曲は、歴史上、虐げられたインディアンを背景に、「僕」の心情を歌い上げている。強者や、それに阿諛追従する人間。そんな奴らに、外見や出生が違うだけで虐げられるいわれわないという悲痛な叫びが、ボーカルを通して胸を打つ。根強い人気のある曲だ。


「知ってるんですか」

「そりゃ、あたしの青春だしな」

 あなた一体いくつですか。ぼくが呆れていると横で聞いていたマスターが口を挟んでくる。

「お、いいねえ。俺もよくコピーしたもんよ」

 そう言ってしみじみとした。それから俺の若い頃はな、と続きそうになったので、ぼくは慌てて口を開いた。

「そもそも、楽譜ないと弾けませんよ」

 挑発したはいいものの、そこが問題だった。ぼくは、どんな曲だろうと楽譜がないと弾くことができない。アドリブなんて夢の夢。へっぽこギタリストなのだ。

 なら仕方ないと話が流れることを期待した。


「俺が使ってたのがあるぞ」

 マスターの一言で作戦は、ものの数秒で霧散する。おまけに楽譜が「あれば」弾けると、暗に肯定する結果になってしまった。


 腹をくくるしかないのか。現状打破のヒントはないかと辺りを見回すが、何も見つからない。賑わう客席を目の当たりにして、ますます腰が引けるだけだった。

 いよいよ逃げ道はない。観念すると、照明が暗くなり、雑談もピタリと止まる。

 とうとう『うたうたいの集い』が始まってしまった。


 

 演奏は、バラエティ豊かだった。定年退職後、バンドを始めたらしいおじいちゃんバンドもいれば、ママ友同士オカリナ合奏をする人、はたまた音楽を流しながらエレキギターをかき鳴らすお兄さんもいた。ピアノで弾き語る性別不詳のオペラ歌手みたいな人もいるから実に幅広い。

 中盤には、なんとマスターも現れ、八十年代のフォークソングを熱唱していた。なかなか板についていて、ギターの腕前もかなりのものだった。

 まさかプロだったりして。ぼくが伝えると「バレたか」と言って笑っていた。


 音楽が途切れるたびに、落ち着かなくなってくる。心臓はボタンを突き破って飛び出すのではないかと思うくらい激しく鼓動した。

 早く演奏を終わらせて楽になりたい。頼む、早く止めをさしてくれ。幾度も思うが、何の嫌がらせか、ぼくとゲタ姉さんはトリだった。おかげで、終始生きた心地がしない。


「ちょっとトイレに」

「逆方向だぞ」

 そんなコントみたいな試みも失敗に終わる。逃げるつもりはなかったけれど、この見えない重圧から避難したい気持ちはあったけど。

 誰かが演奏しているときだけは、緊張も葛藤も忘れてしまうから不思議だった。


「それでは皆さんお待ちかねの」

 司会のおばさんが誰かの名前を口にした。途端、会場は拍手喝采の嵐に包まれた。人気者がいるんだなと感心していると、隣のゲタ姉さんがおもむろに立ち上がる。なんと、もうぼくたちの番なのか。いやそれより、さっきの名前はゲタ姉さんだったのか。出番よりそちらのほうが驚きだった。


 心臓は、今まで手加減していたのだと言わんばかりに、いっそう強くはね動いた。くらくらしてくる。

 エネルギーが足を通して、床に吸い上げられるようだ。油断すると倒れてしまいかねない。いっそ緊張もまとめて吸い上げてくれればいいのに。


 客席から視線が集まる。気がする。案外、みんな好き勝手な方を向いているものだが、確認する勇気はなかった。実行すれば、体が爆発四散しそうなので上だけを見つめる。天井で呑気に回り続けるファンが、妙に恨めしかった。


「学校みたいに知り合いがいるわけでもない。おまけに、あんたを笑うやつもいない。だったらもう好き勝手やってやれ」

 ゲタ姉さんが耳元で言った。舞台に生徒を送り込む先生のような物言いに違和感を覚える。だってあなたも一緒に歌うのでは。



「えー、トリを飾る前に、新進気鋭の中学生シンガーに歌ってもらいまーす」

 ゲタ姉さんは、司会のおばさんからマイクを借りるなり信じられないことを言い放つ。よく見ると、うっかり客席に置いてきたギターは、彼女が持っていた。


「おー、いいぞ坊主」

 マスターの歓声を皮切りに、またしても拍手が起こった。驚いて客席を見てしまうが、照明の明るさで目が眩んでしまう。


 戸惑うよりほかなかった。全員がぼくを認識している。それも悪意を持たずにだ。

 顔は見えずとも、そこには人を馬鹿にするような下卑た笑みも、無関心を装う冷たい仮面もない。

 正真正銘、ぼくという人間に興味を持って、拍手を投げかけてくれている。信じられない光景だった。


 拍手が止む。

 それから遅れて、アコースティックギターの軽妙な音が響いてきた。イントロだ。


 ギターは、ストローク一つとっても腕前がわかる。ゲタ姉さんのギターは上手かった。相当練習したのだろう。強弱もしっかりしている。音の粒を意識した繊細なストロークは、おいそれと身につけられるものではない。

 いつもイヤホン越しで聴いている演奏が、間近にあるような錯覚を覚える。

 

 体が熱くなる。羞恥心ではない。体の奥底から湧き起こる何かが、解放を求めて暴れ回っているのだ。初めての経験だったが驚きはなかった。むしろ懐かしいとさえ思える。


 ぼくは、音を確かめるように歌いはじめた。徐々に順応するように、声はマイクに馴染んでいく。

 どこか意識が飛び、ぼくと曲の「僕」が重なるのを感じていた。



「お前もう来るなよ」

 あいつらの声が聞こえた。

「一緒に頑張ろうぜ」

 そうして差し出された手を思い出した。

「俺たちのメッセージを」

 電話口で聞いた笑い声を忘れなかった。



 ぼくは、運動神経もないし、成績も群を抜いて良いわけじゃない。はっきり言って変な奴だ。話して面白いとも限らないし、気の利く一言も満足に言うことができない。けども、だけども。

 


 それだけで、一体ぼくの何がわかるというのだ。

 


 自分をインディアンに重ねるのはおこがましいかな、とチラリと思った。

 関係ないと、すぐに開き直る。バカにする人は、ここにはいない。だったら全てを吐き出してやろうじゃないか。

 

 声が伸び上がる。


 今まで生きてきて、こんなに大きく、長く声を出していたことがあったろうか。客席は、もう気にならなかった。ぼくは、感情をマイクにねじ込むように歌い続けた。



 届け。届け。

 ぼくは、願っていた。何に? 何を? 

 わからない。

 とにかく。とにかく空の彼方にでも届けばいい。

 何でもいいから届いてくれ。


 届けば、きっとぼくは。


 

 気づくと、ギターの音は止んでいた。室内は冷房が効いているはずなのに、ワイシャツの内側は、汗でびっしょり濡れていた。呼吸を整え、ぼくはなんとかお辞儀をする。


 音が変わった。そう思わずにいられなかった。ぼくは、拍手にも音があるんだと、初めて知った。始める前とは明らかに質の違うそれを聞いて確信する。


 やり遂げたらしい。

 自覚すると、また体が熱くなってきた。今度は、羞恥だ。急に恥ずかしくなってしまうのだから、我ながら情けない。自分ごときに、こんな拍手もったいないとさえ思う。

 そもそも、ぼくは何をやっていたのだっけ? 歌った自分すら、急に夢の産物に思えてきた。


 現実を確かめるように、おずおずゲタ姉さんの方を見やる。彼女は、腕を組みながらニヤニヤ静観していた。言ったとおりだろ? 口はそう動いた。それから腕をほどき、親指を立てて笑ってくれた。


 尻が床についた。足に力が入らない。脱力。

 だけども、心は満たされている。なんともアンバランスな状態に、かつてない達成感を覚える。ぼくは笑い、親指を立てた。

 


 恥なんてとんでもなかった。これは、ぼくにとって誇りだ。一生忘れない。

 一生。

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