真夏のメモリー:7

 周りに細心の注意を払いながら、二人はリビングへつながる扉を開けた。

 赤茶けた絨毯に革張りのソファ。埃をかぶった薄型テレビに枯れた観葉植物の鉢。壁に掛けられた時計は、四時四十四分を指したままの状態で沈黙を保っている。


 そして男の子の霊が言った通り。窓から差し込んでくる太陽の光で一面黄金色に照らされたその部屋の中心に、霞のような人影がこちらを向いて浮かんでいた。

 その体は透き通っていて、向こう側の壁が見えている。風が吹けば今にもかき消えてしまいそうだ。それ程までに頼りない。

 女性の幽霊。二階で遭遇した子の母親だろうか。

 二人の闖入者を見つめるその表情はまさしく能面の如く。時間の流れに感情の全てを擦り減らし尽くしてしまったかのような、感情の無い冷淡な微笑を浮かべている。

 七瀬はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。緊張で唇が乾く。


「二階で出会った男の子に、ここに行くよう告げられました。………おそらくは、貴方の息子さんに」

『ああ…』


 吐き出すような囁き声には、何もかもに疲れ果てた気だるさが滲み出ている。


『いかにも、それは私の息子です。………私は別に、貴方達を呼んで欲しいといった覚えはないのですがね。それにしても』


 幽霊はテーブルを突き抜けて、ゆっくりと二人の方へ歩いてくる。


『驚かないのですね、私を見ても』

「……幽霊なら毎日のように見てますからね。慣れたんですよ」


 部屋の中、埃めいた空間に独特の緊張感が満ちてくる。七瀬は努めて冷静に答えた。相手に害意は無さそうだが、それでも慎重に言葉を選ぶ。


『成る程、貴方は幽霊が見えるのですか』


 幽霊が息を吐くと、部屋の中は急に肌寒くなる。渚が意を決した様子で口を開いた。


「私の同級生―――高校生を知りませんか。この中に入った筈です。私たちは彼らを探しに来ました」

『高校生………ああ、彼らなら今、建物の裏で気を失っています。……大丈夫です、無事ですよ』

「外に?」


 七瀬が言う。


『ええ。外に出てもらいました』

「どうやって」

『言う必要がありますか?』


 つまり、教えないということだろう。まあそれでもいい。それにしてもよく喋る幽霊だ。


「………やけに、新切ですね」


 互いの視線が交錯する。彼女の視線からは、微塵の悪意も伝わってこない。七瀬は不思議に思った。幽霊、特に彼女のような自縛霊には、普通大なり小なり悪意を兼ね備えているものなのだが。


『私は、普通の幽霊とは違います。恨みも未練もありません。誰かに危害を加えるつもりもない。そして私は、ずっとこの部屋から出られない』

「出られないと?」

『そう。魂そのものが風化して無くなってしまうまで、私は死んでからずっとここに縛られている。私が死んだこの場所に』


 そう言うと、彼女は長い息を吐いた。冷たい瞳の奥に微かな哀愁が垣間見え、白い煙のようなものがその口から漂っている。差し込む夕日に照らされてそれが微かな煌めきを帯びる様はまるでダイヤモンドダストのようで、不謹慎ながら幻想的とさえ思えた。


『―――呪われているのです』

「………随分と、穏やかでなく聞こえますね」


 だが幽霊はそれに答えず。二人の方を見て尋ねる。


『貴方達二人は。怪奇を信じますか』


 意味が分からない。

 怪奇を信じるかどうかなら、勿論イエスだ。現にこうして目の前に怪奇がある。だが幽霊の質問には、それ以上の何かが隠されている気がした。

 七瀬が答えに窮していると、渚が隣で口を開く。


「その質問は、ここが廃墟になった訳と関係がありますか」

『質問に質問で返すのですね』


 幽霊は、彼女の方をじっと見た。


『貴女の推測は、合っています。だけど答えは知らない方がいい。知らない方が幸せです。怪奇を遠ざける唯一の方法は………関わらないこと、ですから』


 意味深過ぎる。意味深過ぎて、何と返していいか分からない。


『もう出て行きなさい。高校生たちを連れて。そしてもう、此処には来ないことです』


 幽霊が冷たく言った。七瀬と渚は互いに顔を見合わせ、小さく頷き合う。モヤモヤが残るが、とりあえずここは退くのが正解、そう判断したのだ。


『二人とも』


 リビングの敷居を跨ぎかけた直前、幽霊が呼び止める。


『これから先、“少女”にはお気をつけて』

「少女……って」


 問い返したが、幽霊は背中を向けて口を閉ざす。もう話は終わりだと、暗に伝えてきていた。



 ※



 不穏な予感を携えたまま、二人は廃墟を後にした。

 件の高校生たちは、幽霊の言うとおり建物の裏で気を失っていた。

 何となく上を見上げれば、ヒビの入った廃墟の窓が目に入る。

 ふとその奥で、何かが蠢いたような気がした。

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