真夏のメモリー:3



 九鳥大学の敷地面積は、控え目に言っても広い。

 キャンパスの中心部には文系の建物がずらりと並び、東は理系の領域だ。西側には文化系サークルの部室棟があって、南に行けば農学部の所有する畑と森林が広がる。

 生憎、その全てを周るのは時間的に不可能だ。そんなことをしていれば夜になってしまう。そのため今日のツアーでは、最初の二つに絞って巡る予定になっている。


「え――、この建物は九大最大の中央図書館です。蔵書数はなんと……」


 それにしても暑い。

 行列の先で解説する先輩の姿を眺めながら、そんなことを思った。

 殺人的な暑さとはこの事を言うのだろうか。立っているだけでも汗が吹き出してくる。七瀬の役目は、最後尾から参加者の体調などに目を配ることだったが、下手をすれば自分が熱中症になりかねない。あまり洒落にならない。



 ※



 ツアーが始まってしばらくすると、参加者はなんとなく二つのタイプに分かれていることに気付いた。

 片方は、大学というアウェーな環境だからか、少し緊張した感じで解説に聞き入っている者。そしてもう一方は、解説を聞き流しつつ辺りを見て友達同士でしゃべっている者だ。人によりけりで個人差はあるけれど、大抵このどちらかに分かれている。

 だから。そのどちらでもなく、少し様子のおかしい人は、すぐに七瀬の目に留まった。

 最後尾近くにいる、おとなしそうな女の子だ。ツアーを嫌がっていたり、つまらないと感じている風ではないものの、どことなく。雰囲気が陰を帯びている。

 騒がしきこの場において、七瀬にはそれがやけに目に留まって感じられた。


 この炎天下、体調が悪かったりする可能性だってある。七瀬は彼女に声をかけることにした。


「ねえ、そこの君」

「は、はい?私ですか」


 彼女が七瀬の方を向く。


 一瞬七瀬は言葉を失いかけた。振り向いた彼女の顔に、見覚えがあったのだ。

 他大勢の高校生と同じように、白い上着に紺色のスカートという制服姿。襟元には翼を広げた鷹の校章。褐色がかった肌は淡く火照り、肩までかかる黒髪があるかなしかのそよ風に揺らぐ。


「―――君は」


 まさしく。午前中に出会ったあの子だった。


「あの時……の?」


 彼女もまた、七瀬を覚えていたらしかった。短い返事には、思いがけない邂逅への驚きと戸惑いが入り混じっている。

 自然と数時間前の出来事を思い出す。不意に出てきた幽霊のせいで、気まずい沈黙が流れたあの時。


「どうか……しましたか」

「いや、たいしたことじゃあないよ。ただ体調でも悪いのかなと思って。後ろから見てて、様子が変に見えたからさ。具合は大丈夫?」


 彼女は慌てて首を横に振った。


「大丈夫です。…………ただ、その……いえ、なんでもありません」

「?………そう。今日は暑いし、無理はしないでね。気分が悪くなったりしたら、僕か前の人に遠慮なく言って」


 前にいる先輩の姿を指して、そう言う。しかし彼女はそちらを見ることなく、小さく頷いただけだった。その身体は、微かに強張っているように見えた。まるでその方向に、視線を向けたくない何かがあるかのように。


 もしかすると。


 ――――


 荒唐無稽だと笑われてしまう妄想かもしれない。だが、時に事実は小説より奇なり。ありえない事とも言い切れない。

 どうとでも取れるような言葉で、七瀬はアプローチを試みる。


「ねえ、もしかして」

「何ですか?」


 彼女の傍らで、彼女にだけ聞こえるように、その耳元で静かに囁いた。


「あれ、見えてるの?」

「―――――っ!」


 鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、彼女は七瀬の方を見つめてくる。

 ビンゴ。と、内心で呟いた。もしあれが見えていないとするなら、普通浮かぶのは疑問符のはずだ。

 そして自分以外の『見える』人に初めて出会えたことに、静かな喜びが湧き上がってくるのを七瀬は感じた。

 自分にだけ見える世界というのは、言いかえれば自分にしか見えない世界だ。それは良いことばかりではない。見たくないものでも、強制的に見えてしまうのだ。

 だから、それを共有出来る誰かの存在は、何よりも捨てがたい。


「………あなたにも、あれが見えてるんですか」


 おそるおそる、彼女が訊いてきた。七瀬は小さく頷き返す。


「はっきりと見えてるよ。貞子みたいに長髪を垂らした女性の姿が、ね」

「女性」

「あれ、違う?前にいる、先輩の肩に乗っかってるやつ……の事だよね」

「ええ、それは合ってます。合ってるんですけど……」


 彼女は一瞬だけ視線を前の方に向けた。


「やっぱり。私にはそこまではっきりとは見えないんです。ただぼんやりと、『黒い影』という風にしか」

「黒い影?」

「はい。あの人の顔を、すっぽりと覆っています」

「波長の問題、なのかなあ。合う合わないってあるものね」


 生ける人にもそれぞれに個人差や個性があるように、幽霊にもいわゆる見える見えにくいといった違いがある。

 それは単にその霊魂の強さによる時もあるが、大抵の場合、観察者との相性の問題だ。七瀬はそれを、波長が合う、と呼んでいる。個人的にだけど。


「あれは、何なんでしょうか」

「さあ。僕にも分からない。三日前に廃墟に行ったと言っていたし、多分その時憑いて来たんじゃないかな。肝試しがどうこうって」

「廃墟………納得がいきました」


 頷く彼女の横顔を見ながら七瀬は、この大学の近くにも心霊スポットと称される場所があったことを思い出した。


「廃墟って言ったら、このすぐ近くにもあるんだよね」


 キャンパスのすぐ裏手。山のふもとにひっそりと建った、小ぶりの一軒家……の残骸だ。以前は三人家族が住んでいたそうだが、彼らはある日唐突に行方をくらましてしまったのだという。夜逃げしたとか、凄惨な殺人事件があったとか、実は黒魔術にはまっていて呼び出した悪魔に連れていかれたとか、眉唾モノ噂には事欠かない。しかし本当のことは、七瀬は知らない。知ろうとも思わない。

 七瀬も遠くから見たことはあるが、無論入ったことはなかった。


「―――――いつも思ってるんだけど」


 おもむろに口を開く。


「何でみんな、廃墟とかに行きたがるんだろうね」

「……前に、同級生の男子が話していたんですけど、度胸試しらしいですよ。あとは、気になる人を連れていったりもするらしいです。私も一度誘われたことがあります」

「吊橋効果ってやつかな?……というか、誘われたんだね」

「勿論、断りましたよ」

「廃墟は危ないからね。行こうとなる人の気がしれないよ」

「………きっとお化け屋敷のような、アトラクション感覚なのではないでしょうか?心のどこかで、自分は大丈夫だろうという謎の安心感があるんですよ。そもそも幽霊なんて見えてないですから。……そこに、いてもいなくても」

「なるほど………ああ、その答え、真理を突いてるかもしれないね。適格。………ちなみに僕は、心霊スポットだけじゃなくてお化け屋敷にも行かない人だよ」

「本物なら気配で分かるけれど、作り物はどこから来るのか分からなくて逆に怖い………というわけですね」

「正解。何でそこで当ててこれるのさ。ひいらぎみたいな人だね」


 おどけた風に七瀬が肩を竦めると。


「ふふっ」 


 不意に彼女の固くなっていた顔がほころんで、春先の白スミレのような柔らかい笑顔に変わった。


 ――――あ、可愛い。


 どきりと心臓が跳ねた。咄嗟に七瀬は彼女から視線を逸らした。

 一体何を考えているんだ。相手は高校生だというのに。生じかけた思いを理性で振り払う。


「私を柊に例えた人なんて、生まれて初めてですよ。どういう意味合いで?」

「花言葉だよ。“知見”という意味の」

「それなら、誉め言葉なんですね」

「うん。花言葉、僕の癖なんだ」


 七瀬は頷いた。 


「そういえば、先輩の名前はなんて言うんですか?」


 彼女が訊いてきた。七瀬は右手の人差し指で、自分の名前を空に描いてみせる。


「七瀬。七瀬 俊。俊足の俊って字」

「じゃあ、七瀬先輩、ですね。私は上川 渚といいます」

「分かったよ。………えっと、上川さん」

「下の名前でいいですよ。いつもそれで呼ばれているので」

「じゃあ……渚ちゃん」


 一息の間を置いて、七瀬は言った。さすがに呼び捨てにするのは気が引けた。

 渚はもう一度、可憐に微笑んで答えた。


「はい。七瀬先輩」




 見上げてみれば、そこに広がるのは真夏の澄み渡った群青の空。

 さんさんと輝く太陽は、まだまだ沈みそうにはなかった。

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