2−4

 夜明けは、青白い薄曇りで始まった。

 ぼんやりと空を見上げて、大山は思う。夏コミの三日目が終わってしまった。あれほど楽しみにして、念入りにサークルチェックをして、女友達にまで買い物を頼んでおいた、二度と来ない夏が。

 うん、やっぱり関係者の全員に焼き土下座をしてもらおう。

 昨夜は、あまりの非常識さに否定してしまったが、細田が本当に隕石落としなんて魔法まで使えるなら、好きにやらせても良いのではないか? 心から、スカッと爽快な気分になるだろう。

 まあ、当面の目標は日本への帰還だ。世界を火の海にするのは、帰れないと判明してからでも遅くはない。

 ぐいっと伸びをして起き上がると、胸のむかつきとは別に下腹が張っている。手のひらで顔を擦れば、そろそろ無視できない長さの髭がザリザリと当たった。

 腹は空くし、トイレにも行きたくなるし、こうして髭も伸びる。電子機器が止まっていても、まさか召喚と同じ時間には帰れないだろう。本当にイラつくな。

 掛け布団代わりに使っていた着替えを畳み直して、大山はひとまず用を済ませる事にした。そのためには、自分たちを取り囲む透明な壁を取り払わなければならない。

 まあ、起き抜けに襲われる事も無いだろう。ラダーたちがその気なら、夜中のうちに騒ぎになっている。

 目に見える防護壁は床だけだが、大山は昨晩から別に、透明な防護壁も作っていた。雨の心配があったため地上十メートルには屋根を浮かせ、外部からの侵入を防ぐ円筒を直径五メートル、高さ二メートルで設置したのだ。地上から少し浮かせて、結露も付かないようにした。

 屋根にも円筒にも、水滴はまるで見えない。空模様は予想を外し、このまま晴れに向かいそうだった。

 ほっとして立ち上がった時、ふと目に留まった物に振り返る。

 近寄って見れば、それは小さな手形だった。光も屈折しない防護壁だが、触れば指紋や皮脂が付くようだ。汚れた手を広げてペタペタと触った痕跡に混じって、拳で叩いたような小指の跡もある。

 夜中に誰かが来たのか? 音は聞かなかったように思う。もっとも、小さな音なら気づかなかっただろう。自分たちは朝まで、ぐっすりと寝ていたのだから。

 顔を上げれば、いまはラダーが焚き火の番をしている小さなキャンプがある。ハンダと、例の少年はテントの中だろうか。

 防護壁に残る白っぽい汚れは、左右に二メートルほど広がっていた。高さはどれも、大山の腹辺りだ。あまり背の高くない人物だろう。

 あの少年かな。背の高さは、だいたい合う。

 突っ立っていると、焚き火を見下ろしていたラダーがこちらに振り向いた。軽く手を上げる彼女に、こちらも手を振り返す。

 もう一度、謎の手形を見下ろしてから、大山は円筒形の防護壁を解除した。木陰に向けて歩きつつ、不安を押し殺そうと努力する。

 あの中の誰かが、こちらの透明な壁に気づいた。

 その誰かは他の人物に、この事を報告しただろうか。



「よーそろー。もうちょい右ー。そうそう、山ちゃんその調子ー」

 黒い筏は、馬車を乗せて湖を渡る。

 目指しているのは、昨夜のキャンプ地から西南西の方角だ。朝日を背に受けて、大山は一心に木の枝を動かしていた。岸辺と違って枝の先が湖底に届かないため、先に小さな防護壁を固定した簡易オールにして水を掻いている。

 今朝は風が穏やかで、湖面も昨日のような波は立っていない。これなら、平らな筏でも転覆の心配は無いだろう。

「このまま、真っ直ぐ岸にぶつかる辺りで頼むなー」

「はいよー」

 ナビゲーター役の細田に、こちらも大声で返す。友人は昨日と同じく、筏の先頭で座り込んでいた。すぐ横にいる紅馬こうばの一頭が、彼の頭を興味深げに見下ろしている。

「ヤマ殿。いま、よろしいだろうか」

「はい、なんでしょう」

 良くないけどね、筏を漕ぐのに忙しいから。などと思いつつ、大山はラダーを振り向いた。彼女は今朝も、毛糸のポンチョを着たままだ。とても温かそうで羨ましい。

 いまの大山は、世界の力を借りて筋力と体力を維持しつつも、体ごと大気に溶け込むような使い方は止めていた。燐眼士などという異能力者を知っては、無闇に魔法を使うのも躊躇してしまうのだ。馬車の中の四人が、どんな人物かも謎であるし。

 湖上を吹き抜ける風は冷たく、体を動かしていても肌寒い。どこか人里に着いたら、一枚くらい防寒着を買おう。

「昨日の事と言い、私たちは貴殿らに心から感謝している。だが……本当に、このまま付き合わせて良いのだろうか。貴殿らにも、旅の目的があるのだろう?」

「あー。その辺、聞いちゃいます?」

 意地悪く笑えば、ラダーは困ったように唇を噛んだ。

「そりゃあ俺たちにも、目的はありますよ。とても重要な旅の目的が、ね。ただ、それはあなた方に関係ない。こちらから道案内を買って出たので協力はしますが、用が済めばさようならです。他人の事など、気にしないのが一番ですよ」

「そうだな……私にも、明かせない使命がある。すまない、詮無いことを聞いた」

 肉の薄い頬に笑みを浮かべて、ラダーは馬車の横に戻って行った。昨日から、彼女はそこを自分の定位置と決めいてるようだ。

 ハンダはすでに、御者台で待機している。最初のうちは筏を漕ぐのを手伝おうとしてくれたのだが、大山の豪腕ですいすいと進むのを見て諦めたようだ。こちらとしても下手に手を出されるよりは、大人しく座っていてくれた方が助かる。

「もうすぐ着くぞー。ぶつからないようになー」

 細田の声にはっとして、大山は前方を見た。出発時には水平線の向こうだった対岸が、あと五十メートルほどに迫っている。

「お、坂も崖も無いな。静かな湖畔、ってやつだ。このまま乗り上げられそうだぞ」

「そりゃあ良かった。じゃあ、少しスピードを落とすわ」

「おー」

 やる気の感じられない態度だが、細田の道案内には嘘が無いようだ。あれだけ警戒していたのだから、悪心があるならラダーたちを適当な場所に放り出してもおかしくない。あるいは、昨夜の内にボートで逃げるという手もあった。

 それをしないのは、好奇心だけが理由ではないだろう。

 根は真面目なんだよな、うん。敵認定した相手には、容赦が無いだけで。

 そんな事を考えていると、筏の先が湖底を擦る感触がした。慌てて手を止め、防護壁を軽く引っ張るようにしながら速度を落とす。上に乗った馬車が少し揺れたが、筏は無事に停止した。

 馬車がなだらかな浜に上陸すると、ラダーとハンダは目に見えて安堵した様子だった。少し休憩を取り、ハンダが紅馬に水と飼葉を与えて、丁寧に胴体を揉んでやるのを眺める。

 その後は、二頭の紅馬が馬車を引いて進む。今度は大山が先頭に立って、木々の間を縫いながら地面に防護壁を敷いての道行きだ。こうでもしないと、道も無い荒れ放題の地面では車輪が回らない。

 細田は御者台に座らせてもらっていた。機嫌良さげにくつろいでいる彼とは対照的に、ハンダは緊張した面持ちだ。もっとも彼は手綱を握っているだけで、素直な二頭の紅馬が大山の後を追ってくれている。

 動物は可愛いね。人間のように複雑な思惑とは無縁だからね。

 会話も無いまま歩き続け、太陽が頂点に達した辺りで目の前が開ける。湖の近くを通っていた物と同じ、幅の広い土の道だ。日本で例えるなら片側一車線の道路ほどもあり、しっかりと土が固められている。

「これがハタ街道です。ラダーさんたちも、この街道を南下して来たんでしょう?」

 細田の問いに、大山の横を歩いていたラダーが答える。

「ああ、そうだ。北から、直接ホウロ山へ向かう道は無いと聞いたのでな」

「あっても、地元の細い道ばかりですからね。で、ここからの予定ですが……ああ、左に向かせて下さい」

 ハンダが手綱で指示したようで、街道に出た紅馬たちはゆっくりと向きを変えた。しばらく進んでから、ぴたりと馬車が止まる。

「もう少し南下すると、街道沿いにユイダの里があります。夕方には着くかな? ハタ街道と南ジルイワ街道の交点で、宿もある大きな里ですよ。で、こっからが重要なんですけど」

 言って、細田は御者台から危なっかしく飛び降りた。

「南ジルイワ街道は、二本あります。行けばわかりますが、北側が湖沿いの旧街道で、南側が現在、主に使われている新街道ですね。どちらを進んでも、突き当りを北に行けば、またホウロ街道へ戻れますが……ラダーさんたちは、旧街道を行くといいでしょう」

「理由を聞いても良いかな?」

「どちらの街道も、抜けるのに一日じゃ無理だからです。途中に里は無く、新街道にも国の野営地が二つあるだけだ。ただし旧街道には、古い里の廃墟が手付かずで残っている」

 細田は首を傾げると、思わせぶりな笑みを浮かべた。

刃金道会じんきんどうかいから身を隠しつつ夜を明かすには、うってつけの場所だと思いますよ」

「なるほど……そこまでわかっていて、手助けしてくれたのだな」

 ラダーの声は穏やかだった。ひとつ息をついて、鋭い印象の目元を緩める。

 それは、これまでに見せた明るい笑顔よりも、ずっと彼女の素の表情に見えた。左の肩に右手の拳を当てて、細田に、そして大山にも深く礼をする。

「ダダ殿、ヤマ殿。貴殿らには、命だけでなく心も救われた思いだ。正直に言って、私たちはずっと、貴殿らの正体を疑っていた」

「ほう。奇遇ですね、俺たちもですよ」

 とぼけて返す細田に、ラダーが破顔する。

「そうか。では、お互い様だな。疑念は残るが、忘れるとしよう。ヤマ殿も言っていたな。旅の道行きに出会い、別れるだけの関係をお望みというわけだ……だがな、ダダ殿。私はまだ若く、そこまで達観できていない」

 ラダーが馬車を振り返ると、御者台のハンダが頷いて返した。

「どうか、礼をさせて欲しい。奥様の許可も出ている。金子か、なにか旅に入用の品で望みはないだろうか。我々も厳しい旅の途中だ。貴殿らが救ってくれたものに比べたら、決して見合う対価とは言えないだろうが、それでも受け取ってもらいたい」

 私のために、と頭を下げるラダーに、細田は目をぱちくりとさせる。口も薄く開いて、完全に困惑した様子だ。

「ええー……山ちゃんどうする?」

 丸投げかよ、と思ったものの、情けない顔で見上げてくる友人が不憫で、大山はため息ひとつで後を引き継いだ。まったく。素直に感謝されて困るくらいなら、無闇に人を疑わなきゃいいのに。

「では、この先の里……ええと、ユイダでしたっけ。そこで、飯でもおごってもらえませんかね。ダダもそれでいいだろ?」

「うーん?」

「なに、南に行くんじゃだめなのか」

「いや、まあ……いいけどな?」

「よし、決まりな。その後は、それぞれ別の道を行く、ってことで」

「あれえ? おかしいな……」

「おかしくありません。ラダーさん、今夜は俺たちも、ユイダって所で宿を取ることにします。ゆっくり休んで、美味い飯でも食って。それでチャラにしましょうよ」

「なんとも気前の良いことだ。だが、本当に遠慮は要らんのだぞ?」

 ラダーも、驚いたように目を丸くしている。大山は、まだ首を傾げている細田の肩を軽く小突いて、きっぱりと言った。

「じゃ、昼飯も追加で。俺たち、朝も抜きなんで腹が減ってるんですよね」

 今度こそ、ラダーは心からの笑顔を見せた。

 くしゃりと皺の寄った目尻が、少し濡れていたのは気の所為だろう。

「わかった。これ以上は失礼になるな……朝に焼いておいたマルムがある。好きなだけ食べてくれ」

「大したもんじゃねえですが、腹持ちはしますでな。なんなら、わしの分まで食ってくだせえ」

 ハンダもしきりに頷いて、最後に深くお辞儀をする。

 いやまあ、人様のご飯までは取りませんよ。

 それ以前に、マルムってなんだろう?



 マルムは、無発酵の小麦粉生地を焼いたパンの事だった。

 朝の焚き火で焼いたのだろう。樹皮を剥がした木の棒に生地を巻き付けて、間にハチミツと砕いた木の実を挟んである。所々に焦げ目があったり、薄く剥がれたように中空が出来ているところは、インドカレー屋で食べるチャパティに似ていた。

 噛みごたえのあるパンを一本ずつ頂いていると、荷台から顔を出したラダーが、木のコップを手渡してくれる。

 コップの中には、白く濁った液体が注がれていた。ひと口飲んでみると、甘く爽やかな口当たりだ。例えるなら、ぬるいスポーツ・ドリンクが近いだろうか。

「ありがとうございます。これ、なんですか?」

「ラカカ酒を水で割ったものだ。ヤマ殿は初めてかな? ドウリャでも、ラカカの実は良く食べられていると聞いたが」

「そうですか……なかなか美味いですね」

 うーん、説明をしてもらっても、いまいち疑問が解決しないな。果実酒の水割りと考えればいいか。

 大山と細田は、ハンダを挟んで御者台に座っている。ラダーが続けて差し出したコップをハンダに渡すと、彼は礼を言って美味そうに飲んだ。だが、細田は嫌そうな顔で自分のコップを睨み、中身をそっと捨てようとする。

「ダダ。飲まないなら俺にくれ」

「おう……」

 二人の間で小さくなっているハンダの頭の上から、細田のコップを受け取って中身を飲み干す。

 空になったコップを返せば、細田は自分で水を生み出し、一度それを道に捨てた。いや、そこまでしなくても。味はともかく、毒じゃないよ?

 新しく水を汲み、ようやくコップに口を付ける細田を見て、ハンダが感心したように声を上げた。

「こいつはまた、器用なこって。お前様は、火の精霊様だけでのうて、水の精霊様にも好かれておられるんですな」

「うん」

「それだけ術が使えりゃあ、この国で苦労はしませんでしょうに。なんだってまた、護衛と二人きりの旅なんぞ……」

「ああ、ハンダさん。そう言えば、この紅馬なんですが」

 大山は、慌てて口を挟んだ。

「これだけ大勢が乗っていて、よく元気に歩いてくれますよね。普通の馬とは種類が違うんですか?」

「へえ、紅馬はサ=クルガンの特産でございまして。ドウリャまで来ますと、北の山辺りで、いくらか育てておるくらいでしょうな」

 話に乗ってくれたハンダにほっとして、大山はいかにも興味がありそうな顔で頷き返す。

 細田は棒焼きマルムも、少し千切っただけで膝に置いている。この偏食をどうにかしないと、旅の行く先々で苦労しそうだ。不審な飲食を嫌うたびに魔法を使われては、堪ったものではない。

「南方の馬のように速くは走れんのですが、馬力もあって荷運びには重宝する馬でございます」

「へえ、小さいのに力持ちなんですね。確かに体格が良いし、脚も太い。毛が長いのは、北の馬だからですか」

「へえ。その代わり、暑い土地ではへばっちまいますんで、なんとか春までには馬を替えたいもんでございますな」

 おっと、新情報だ。この国はこれから、春になる季節なのか。

 その後も、ぽつぽつと当たり障りのない会話を続けつつ、馬車は街道を進む。軽快に歩く紅馬は、二度の休憩を取っただけで夕方まで元気に働いてくれた。

 途中、同じように馬車や徒歩で街道を行く人々と出会う。うちの一台は空荷で、駆け足ぎみに横を追い抜いて行った。野営地らしき空き地もあったが、里が近いためか閑散としており、大山たちものんびりと休憩が取れた。

 見かける人は誰も背が低く、例の宗教施設の住人に近い容貌だ。逆に馬は大きく、ちょっとゴツいサラブレッドに似ている。そうした馬と紅馬を見比べて、大山はようやく気づいた。

 紅馬は体毛が長く、特に脚先にはフサフサとした毛が生えているが、馬のようなたてがみが無いのだ。頭の上に少し長い毛があるくらいだろうか。だから、体格や体毛はまるで違うのに、ロバに近い印象があったんだな。

 ひとり納得して、大山は満足の笑みを浮かべる。疑問が解決するのは、いつだって気分が良い。

 それに、里にも無事に着いた。

 前方に見えて来たユイダの里は、低木の生け垣で始まっていた。

 街道との違いは、高い樹木がぽっかりと途切れているので一目瞭然だ。しばらく生け垣と畑が続き、やがて小屋や民家が見えて来る。

 馬車はのんびりと進み、やがて大きく開けた里の中央通りらしき道に乗り入れた。



 この異世界で初めて目にする人里は、のどかで明るい雰囲気だった。建物はどれも木製の柱と茶色い煉瓦作りで、石材は基礎と一部の柱に使われているだけだ。いくつか開いている窓から見えた屋内には、白い漆喰が塗られている。

 家の作りは長方形が多い。通りに面した側には宗教施設と同じ柱だけの解放部があり、地面から一段高い廊下の奥に扉と窓がある。多くは平屋か二階建てで、定規で測ったように整然と並んでいた。

 だが、そんな密集した作りも中央通りだけの事で、奥へ行くにつれ、広々とした土地に民家や木製の小屋が自由に建っている。大木で囲った庭付きの立派な家もあり、どんな人物が住んでいるのだろうかと想像力を刺激された。

 中央通りは、人通りも多く賑やかだ。夕刻とは言えまだ明るいので、老若男女が頻繁に行き交っている。通り沿いのいくつかの建物では、廊下の前を使って屋台を出していた。色鮮やかな布の庇の下に、生活雑貨から食べ物まで様々な売り物が並んでいる。

「そこの旅の人! まだ宿が決まってないなら、リッカ亭はどうだい? 安くしとくよ!」

「宿をお探しなら、うちにおいで! 馬車も停められるし、大部屋もあるよ。いまなら二食付きで、おひとり様、五リャクでどうだ!」

「こっちは、ひとり四銅三半だ! 今日はアド鳥のいいのが入ってるよ!」

 馬車が通りを進むうちに、商機と見た呼び込みが幾人も寄って来る。だが、ハンダは我関せずと前を向いているし、大山にも返す言葉が思い浮かばない。

 ええと、リャクと聞こえた通貨の単位が、脳内で銅と翻訳されたな。細田が小銭だと言っていた、円い銅貨の事だろうか? これは不味い。通貨の単位と相場が、さっぱりわからないぞ。

 戸惑っていると馬車が止まり、荷台から降りたラダーが前に来て、呼び込みと交渉を始めてくれた。

「四、五人が泊まれる大部屋は無いか? 風呂は無くても構わないが。それと、馬の世話を頼みたいので、鍛冶屋につてのある宿がいいな。ああ、蹄鉄を替えてもらいたいのだ……安売りはするなよ、こちらも相場はわかっている。手を抜かれたら、一半銅ダンも払わんからな……朝に湯を足してくれて、五半? ああ、それでいい」

 あれよあれよという間に、宿が決まったらしい。ラダーを囲んでいた呼び込みたちがさあっと引いて、残ったひとりがハンダを手招きする。どうやら、馬車を停める場所を指示してくれるようだ。

 大山は、ここが潮時だろうと御者台を降りた。反対側に座っている細田にも手を貸してやって、少し馬車から離れる。

「では、ラダーさん、ハンダさん。俺たちはここで失礼しますね」

「いや、だが……」

「こっちも宿をとって、また顔を出しますよ。そこの赤い屋根の……ええと、なに亭でしたっけ?」

「ヒージャの風亭だ。お前さんたちも、うちの宿にしなよ!」

 答えたのは、呼び込みの男だ。日焼けした肉付きのいい顔を笑いでいっぱいにして、盛んに手招きをする。横にした手を胸の前に引く形で、これがこの国での一般的な手招きらしい。

 衣服は大山と似たような物で、上着は鮮やかな赤色だ。呼び込みは誰もが、赤や赤茶の服を着ていた。男の上着は両の肩に、白で紋のような図柄が染め抜かれている。

「今夜の飯は、野豚の煮込みにコウジャ菜の汁だ。半銅で酒も付けるよ」

「そうですね……いや、こっちは二人きりなんで。馬も連れていませんし湯も要りませんから、もう少し気楽な宿を教えてくれませんか」

 出来れば、ラダーたちとは別の宿をとりたい。なにしろ、ヒージャの風亭とやらは中央通りの立派な三階建てで、いかにも高そうな宿なのだ。大山の問いかけに、男は得心顔で頷いた。

「なら、うちのカカアの妹がやってる宿がいい。小部屋ばかりで、通りからは外れるがね。安くて飯も美味いし、小さい宿だから色々と融通が利くよ」

「では、そちらを紹介して下さい」

「まいどあり! そこの路地の先にある、青シャワル亭だ。いま、案内に小僧を呼ぶから待ってな」

「ああ、それと。こういう場合に、紹介料などはいくらほどお支払いしたらいいんですかね?」

「あんた北の人だろうに、ずいぶんと気が利くねえ」

 呼び込みの男は、心底から感心したような顔になると、宿を振り返って大声を張り上げた。

「コージン! 手が空いたら、ちょっと表に来い!」

 宿の一階は正面玄関らしい扉の横の窓が開いており、そこから元気の良い声が、はい! と応える。

「いま、うちの小僧が来るから、そいつに二、三豆銅シダンもやってくれないか。あんまりやり過ぎると、味を占めるからな」

「わかりました。三豆銅ですね……」

 大山の発言した「まめどう」は、きちんと翻訳されたらしい。

 だが、豆銅とは、どのくらいの価値なのだろう。豆と言うくらいだし、ラダーの発言にあった半銅より安い通貨なのか? 例の円い銅貨は、半銅か銅なのだろうが……くそう、どこかに両替商は居ないのか。

 半銅で、宿の食事に酒が付く。平均して五銅で、ひとりが二食付きの宿に泊まれる。メモを! メモを取らせてくれ!

 大山が冷や汗をかいている間にも、ラダーは呼び込みと一緒に宿に入り、ハンダも脇道から馬車を裏手に進める。ぽつんと立っている大山の横では、細田が素知らぬ振りで中央通りの雑踏を見渡していた。

「おう、ダダさんよ。少しは協力してくれませんかね」

「俺は、お金の計算が出来ない子だからねえ」

「自虐ネタ止めて。それ言ったの、だろ?」

「さあね。お、なんか無難そうな肉が売ってる。ちょっと試しに買ってみるわ」

 細田は、とぼけた顔で屋台のひとつを指差すと、ひとりでふらふらと歩いて行ってしまう。その屋台は箱型のバーベキュー台に似た道具を使い、串焼きを売っているようだ。通りの反対側だが、ここまで香ばしい匂いが漂ってきている。

「大きいおじさん、あんたが案内を頼みたいってひと?」

 ぼけっと屋台を見ていた大山の腹の辺りから、戸惑いの感じられる幼い声がした。

 視線を向ければ、まだ小学校低学年くらいの男の子が、睫毛の濃い目をぱちくりとさせて大山を見上げていた。先ほどの呼び込みと同じ赤い上着を着て、頭には白い布を巻いている。

 大きいおじさん……まあ、自分の事だろう。

「ああ、そうだよ。さっき、この宿の親父さんに紹介されてね。ええと……その人の奥さんの妹さんがやっている、小さい宿に案内して欲しいんだ」

「青シャワル亭だね。二人って聞いてたけど、お連れさんは?」

「連れは、ちょっと買い物を……ああ、いま来るよ」

 ちょうど戻って来た細田は、肉の串焼きを一本だけ持っていた。それを大山に差し出して、反対の手も見せる。

 細田の手のひらには、小さな円い金属板が四枚乗っていた。大きさは一円玉ほどで、中央に穴が開いている。穴の開いた貨幣は初めて見たな、と大山は興味を引かれて、一枚をつまんで見た。

「これ一本で、六豆銅だった。豆銅って、このお釣りな。財布に入ってた小さい方の銅貨が半銅らしい。聞いたら、十豆銅で、一半銅。五半銅で、一銅になるんだと」

「おいおい、途中から十進法じゃないのか。ややこしいな」

 五十円玉みたいな物か? 現代日本ほど、細かな単位で硬貨があるとは思えないのだが。

 串焼きは日本の焼き鳥ほどで、小さな肉片が五つ刺してある。肉の種類にもよるが六十円だと少し安いだろうか。倍の百二十円なら、チェーン居酒屋の焼き鳥くらいかな。

 豆銅が二十円として、半銅が二百円。半銅が五枚で一銅なら、大きい方の銅貨が千円になる……宿泊料が、二食付きでひと晩五千円? 計算がおかしいかな。そんなもんか?

 いや、後でもう少し考えよう。この計算だと、案内の子に渡す小遣いが六十円になってしまう。いくらなんでも、それは安い。串焼きの一本も買えないじゃないか。

 大山は、ひとまず細田から残りの豆銅も受け取って、四枚とも大人しく待っていてくれた少年に渡した。少年の手は荒れているが清潔で、爪も短く切られている。良い環境で働いているようだ。

「これで、宿までの案内を頼めるかな。大人が二人で、食事は明日の朝だけでいい。ひとまず一泊で頼みたいんだ。部屋は一緒で構わないから」

「ありがとう! ミヤさんとこは、うちより飯が美味いからね。期待してくれていいよ」

「そうか。じゃあ、よろしくね」

 大山は少年の発言に、自分の勤める宿の食事を下げていいのかな、と思ったものの、口には出さず少年に付いて行く。青シャワル亭とやらは、先ほどハンダが馬車を進めた路地より、二本ほど先の路地を入った所にあるらしい。

 またこの宿に戻るなら、道を覚えておかないとな。

「山ちゃん、これ」

 横から、細田がしつこく串焼きを突き出してくる。大山は仕方なく、それも受け取った。

「あのなあ、自分で食わない物を買って来るなよ」

「全部はやらないぞ。毒味してくれ」

「お前、ひとを何だと思ってるんだ……」

「だから、毒味。肉の種類だけでも教えて」

 まったく悪気の無い顔で言われ、大山はどっと疲れを感じた。

 路地を歩きながら、木の串に刺された肉片をひとつだけ食べてみる。色は牛肉のような濃い茶色だったが、肉質は柔らかく、淡白で臭みも無い。甘い脂は豚肉が近いだろうか。味付けは塩と胡椒っぽい香辛料に、少しレモン果汁のような香りと酸味がある。

「どうだ?」

「どうって事のない、普通の焼肉だな。さっき野豚って聞いたし、豚肉かも。シシ・ケバブがいけるなら、味も問題ない」

「そうか、良かった」

 細田が期待するような顔で手を出すが、どうも気に入らない。大山は、串焼きの肉をもうひとつ食べた。

「おい。それ俺のだぞ」

「殿、まだ毒味が足りぬやも知れませぬ」

「二つで充分ですよ!」

「わかったよ、ほら」

 残った三つの肉を嬉しそうに食べる細田に、大山はため息しか出ない。

「お二人さん、ここが青シャワル亭だよ! いま、おかみさんに話付けてくるから」

 その声に顔を上げれば、少年はすでに宿の中に駆け込んでいた。

 青シャワル亭は二階建ての宿で、やはり道の側に廊下がある。しかし柱は三本だけだし、表通りの建物と違い、長方形の半分は玄関ホールでもあるのか、普通の煉瓦壁と扉になっていた。

 二階にも解放が無い。両開きのガラス窓が等間隔に四つ並んで、その内の二つからは明かりが漏れていた。屋根板は鮮やかな青色だ。

 そうだ、屋根が粘板岩スレートじゃない。少し艶があるので、おそらく釉薬を塗って焼いた平らな粘土板だろう。

 場所は、表通りから脇道を真っ直ぐに来ただけだ。わかりやすくていい。

 大山が宿を観察していると、玄関扉が開いて、四十代くらいの女性が現れた。赤茶色の上着には、肩に白抜きの紋。小柄だがふっくらとした体格で、ひっつめた髪と明るい笑顔が、いかにもおかみさんらしい。

 女性は、一緒に出て来た少年に小さな布の包みを渡した。

「コージン、ご苦労だったね。これ、後で食べな」

「ありがとう、ミヤさん! じゃ、またね!」

 少年は表通りに駆けて行き、女性が改めて大山と細田に向き直る。

「ようこそ、青シャワル亭へ。お客さんたち、荷物はそれだけかい?」

「はい、そうです」

 大山が、片手の風呂敷包みを持ち上げてみせると、女性は満足そうに頷いた。

「ちょうど、二階の隅の部屋が空いているよ。夕飯は要らないって? 今日はアド鳥の丸焼きを仕込んだんだけどね」

「それは残念です。ただ、これから知人と食事の約束があるもので」

「まあ、いいさ。ほら、入ったはいった。先に言っておくけど、うちは二食付きでひとり四銅なんだ。夕飯とお湯を抜いても、三銅二半はもらうよ」

「いえ、四銅で構いません。その代わり、少し相談があるんですが」

 廊下の側に飛び出した玄関に上がり、暖かい屋内に肩の力を抜く。大山は、木板と漆喰で内装された壁と、腰高のカウンターに飾られた花瓶を見て、思わず頬を緩めた。

「おかみさんのお知り合いで、雑貨や、旅の道具なんかを売っているお店を教えて欲しいんです。ちょっと足りない物があるんですが、この里は初めてなもので」

「へえ。まあ、確かにお客さんたちは、北からの人らしいね。そういう事なら、明日にでもうちの子に案内させるよ。いい店があるんだ」

 おかみさん……ミヤさんは、カウンターの内側に入ると、金属の鍵を出して微笑んだ。

「今日はもう、五の鐘が鳴るからね。じゃあ、二人で八銅だ。鍵はこれ。先に部屋を案内するよ。七の鐘には閉めるから、食べに出るなら、それまでに戻っておくれ」

「わかりました。八銅ですね」

 大山は自分の巾着袋から、大きい方の銅貨を八枚出してカウンターに置いた。これでいいんだよな?

 ミヤは特に不審がる様子も見せずに、八枚の銅貨を受け取る。

「まいど。明日の朝は、甘マルームを焼くからね。寝坊したら後悔するよ」

「それは楽しみです」

 大山も精一杯の虚勢で笑顔を作り、二階に案内してくれるミヤに続く。何事も慣れだ。自分は、仕事で何度も海外へ行っている。異世界くらい、なんぼのもんじゃい。

 その後、六畳間ほどの客室に入ったところまでは覚えている。大切なリュックサックは、鍵のかかる戸棚に仕舞った。

 ところが大山は、気がつけば仰向けに横たわっていたのだ。目やにで粘つくまぶたを擦ると、板張りの簡素な天井がぼんやりと見える。指先の感触は鈍く、体全体が重たい疲れに浸っていた。

 ええと? ここは、知らない天井がどうとか言っておくべき場面かな?

「やあ、お目覚めだな!」

 その時、すぐ横から陽気な声がした。

 ぎょっとして振り向くと、初めて見る顔がある。口髭と、それより短い無精髭を生やした年配の男だ。肌は青白く、明るい茶色の髪が肩まで伸びている。

 え、誰?

「そこの君、体が動くようなら、俺の縄を解いてくれないかな。このままじゃ、床に漏らしそうなんだよ。ラガ君は、俺の言うこと聞いてくれないからさあ。頼むよ」

 男は、人懐こそうな顔で笑っている。視線はやや高いが、少し身を乗り出して見ると、彼が床に脚を投げ出して座っているとわかった。自分は、どうやらベッドに寝ていたようだ。

 大山は言葉も無く、男をじっと見つめる。男も、大山をニコニコしながら見返してくる。

 いやいや、本当に誰?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る