2−2

 湖岸の百メートルほど手前で細田の謎の推進力を切ったボートは、そのまま惰性で進み、無事に陸地へと舳先を付けた。

 船底が泥と腐った雑草を押しつぶし、船尾が弧を描いてゆっくりと止まる。大山は揺れが収まるのを待ち、ぬかるむ岸に板状の防護壁を伸ばして固定した。板はボートと一体化させているので、これなら歩いて渡れるだろう。

 うむ、ますます精度が上がってくるな。便利でいいや。

 陸地に上がると、用の済んだボートと板は、さっさと解除してしまう。

 はてさて、さっきの騒ぎはなんだ?

 大山はすぐにでも移動したかったのだが、とにかく荷物が多い。リュックが二つに、着替えの入った風呂敷包みまである。ひとまずは乾いた草むらまで運んで、隠して置くことにした。

「道があったのか」

 自分は手ぶらの細田が、きょろきょろと辺りを見渡してつぶやく。

 草むらを掻き分けて斜面を登り、木々の間を五メートルも進まないうちに、幅の広い土の道に出たのだ。道は湖の岸に沿って蛇行しており、鬱蒼とした樹木の向こうから物音が近づいて来る。

「おっと……こっちに来るな」

「追う者と追われる者、か……定番だと、旅人と、それを襲う野盗とか?」

「まあ、見てればわかるだろ」

 のんびりと言い合って、道の端にしゃがむ。

 木々は太く、雑草も丈が高い。体の大きな大山でも、楽に身を潜めることが出来た。

「手前のは……ありゃ、馬車か?」

 細田が身を乗り出す上から、大山も目を凝らして見る。

 こちらに接近してくる影はまだ小さいが、屋根の丸い乗り物を二頭の動物に引かせているのがわかる。荷台に布の幌を張った馬車だ。御者は目立つ赤色の服を着ており、何度も鞭を振っていた。動物の蹄が土を巻き上げ、ガラガラと車輪の回る音もはっきりと聞こえてくる。

 その馬車の荷台から後方へ向けて、パッと光が撃ち出された。荷台にも、誰かが乗っているらしい。

 光は真っ直ぐに進み、樹木の一本にぶつかって激しく爆発する。バサバサと枝や葉が舞って、その中から大きな影が躍り出た。

 馬車を引いている動物よりも大きな、四足歩行の動物だ。むしろ、こちらの方が大山の知っている馬に近い。その背には、灰色の衣服を来た人間が乗っている。続いて二頭。先頭の馬は、馬車から二百メートルも離れていない。

 灰色の服、か。宗教関係者だろうか。

 小さかった影は見るみる間に近づき、先に馬車が通り過ぎた。

 慌てて振り返れば、荷台からひとりの女性が身を乗り出している。褐色の長い髪を振り乱して、突き出した手のひらに光る玉を生み出す。

 女性の手から、光の玉が発射された。だがその玉も、追いかけてくる馬上の人物には当たらない。遠く道の先で、光の玉が土煙を上げて爆発する。

「ノーコンだなあ」

 大山の呆れ声に、細田が身を乗り出して目を細める。

「あれ、女か」

「だったと思う」

 続けて、三頭の馬が目の前を駆け抜ける。馬上の人物は、見覚えのある灰色のローブをまとっていた。フードは背中に下ろされており、全員が髭面の男性だ。

「またか……どうするよ、ダダ」

「無視するか」

「ええー」

 わざわざ見に来ておいて? と大山が見下ろすと、細田は意外そうな顔をしてこちらを見上げてきた。

「なに、首突っ込みたいの?」

「目の前で襲われてる人を無視するのは、ちょっと寝覚めが悪いと思うんだけど」

「ふうん。まあ、山ちゃんがやりたいってなら、俺は反対しないよ」

 言って、細田は草の上にあぐらをかいた。完全に傍観の構えだ。

「相手は三人だし、適当にやっつけて来れば? 怪我しないようにな」

「おう。ちょっくら行って来るわ」

「んじゃ、荷物番しとく」

 細田が世界の力を使って身体能力を上げられないことは、すでに何度も練習してわかっていた。どうも、自分が速く走ったり、怪力を発揮する場面が想像できないようなのだ。

 小さくて細っこいまま、大人になったからかね? それとも、運動嫌いの出不精が原因だろうか。

 大山は、道に出ると小石を拾った。左手に四個を掴み、右手に一個だけ握り込む。

 続けて、防護壁を展開。ジェラルミンを想定したライオットシールド型だ。宗教施設の寝室では透明なポリカーボネート風だったが、今度は色も覗き穴以外は真っ黒に塗りつぶした。

 よーい、どん!

 世界の力を全身で吸い込み、最初から全力で走り出す。

 馬車と三頭の馬はとうに見えなくなっていたが、緩やかに蛇行する道を駆けるうちに、最後尾の馬が見えて来た。馬上の人物は、まだこちらに気づいていない。

 大山は急ブレーキをかけると防護壁を解除し、右手の小石を力いっぱいに投げた。

 やや弓なりに飛んで行った小石が、狙い通りに灰色ローブの背中に当たる。男は一瞬だけ仰け反った後、もんどり打って馬から落ちた。

 あちゃー、強すぎたかな。死んでいませんように。

 後ろから二番目の男が振り返ったので、すかさず防護壁を張り直す。どんどん行くよー。

 大山が走り出すと、灰色ローブが慌てたように何度も後ろを振り返る。乗り手の動きに馬の足取りが乱れ、前方の仲間から徐々に引き離されるが、声を上げる様子はない。

 やっぱり喋らないのか。俺には好都合だけど。

 今度は走りながら体を斜めにしてステップを踏み、腕を大きく振りかぶって遠投の要領で投げる。外野から、ホームベースで待つキャッチャーに向けて投げるように……。

 ほい、当たった。

 二番目の灰色ローブも、森の木々に馬ごと突っ込んで転がり落ちたようだ。気にせずに、馬車と馬を追いかけて行く。

 最初に落ちた灰色ローブを通り過ぎ、背中の荷物が無くなって混乱しているらしい馬も通り過ぎる。二番目の事故現場も無視して、ようやく先頭の馬が見えてきた。

 ここまでやると先行していた残りのひとりも、さすがに背後の敵に気づいたようだ。馬上の男が、振り向きざまに手刀を切る。

 防護壁に、なにか鋭い物が当たった。

 音はしないが、防護壁がガクッと押された感触がする。続けて二発。覗き穴から目を凝らせば、男が手刀を切るのに合わせて、空気が歪んでいるように見えた。カマイタチだろうか?

 残念、こっちは刃物や火炎瓶も防ぐ、暴徒鎮圧用の盾だ。殺る気なら、銃弾を持ってきてもらおう。

 いい距離に近づいたので、小石で攻撃する。最初の石は、男の頭の横を通り過ぎた。だが、二投目は脇腹に命中して、男の体が馬からずり落ちる。

 いや、持ち直した。

 下半身で馬体を押さえ込むようにして身を起こす灰色ローブに、大山は思わず舌打ちする。小石を投げる程度ではだめだ。なにか別の、威力の高い攻撃をしないと。

 いや、待てよ?

 再び、カマイタチのような風の刃で攻撃してくる男を追いながら、大山は考える。この世界に転移させられた時、ガヤンは円筒形の防護壁で自分たちを閉じ込めた。会話を漏らさないよう、中の空気がほとんど振動しないようなオマケ付きで。

 いっちょ、やってみるか。

 覗き穴から、男の挙動を冷静に観察する。こちらが攻撃しないので、相手も平静を取り戻したようだ。馬車に追いすがるようにして速度を上げ、道が直線になったところで振り返る。

 いまだ!

 大山は、馬の前方に黒い防護壁を立てた。

 突然に現れた障害物で、驚愕したらしい馬が竿立ちになっていななく。馬上の男も振り回され、馬が盾にぶつかると同時に落下した。

 はい、お先に失礼しますね。

 こちらの姿を見られては面白くないので、馬と灰色ローブの男を丸ごと囲めるよう、防護壁を円筒形に広げる。道幅のほぼいっぱいを使ってしまったが、大山は悠々とその脇を駆け抜けた。

 馬車はすでに、道の先へと走り去っている。

 一瞬だけ迷ったが、馬から落ちた灰色ローブのうち、誰が追って来ないとも限らない。大山は、走る速度を上げて馬車を追うことにした。



「おーい、そこの人! 馬車に乗ってるお姉さん!」

 馬車に追いつくと、大山は防護壁を透明のポリカーボネート風に切り替えた。防御を捨てるわけにはいかないが、姿が見えた方が相手も安心だろう。

「もう、追っ手はいませんよー! 大丈夫ですかー!」

 叫び続けると、馬車の荷台から女性がひょっこりと顔を出す。

「お前は誰だ! 名を名乗れ!」

「んな、名前を言ったって、初対面でしょうが。いいから落ち着いて。お姉さんたちを追っかけていた馬の人は、全員倒しましたから!」

「なにを言って……」

 女性は、大山の頭越しに背後を見やった。目を細めて遠くを眺めた後、ほっとしたように体の力を抜く。

「本当に居ないのか……すまない、礼を言う!」

 こくりと頷くようにして、こちらに向き直る。なんとも単純な女性だ。自分の敵を倒したからと言って、その相手が味方だとは限らないだろうに。

 大山は馬車の真後ろまで近づくと、駆け足のまま説明を始めた。

「いや、倒したは倒したんですけどね。馬から落ちただけで、死んじゃいないと思うんですよ……死んでないといいなあ」

「なに、奴らが先に仕掛けて来たのだ。殺したところで問題にはならん」

「殺伐としてんなあ……とにかく、また追いかけて来るかも知れません。俺の連れが近くに居るんで、良かったら、一緒にそこまで戻りませんか」

「いや、だが……なぜ、そんなことを?」

「お姉さんが、どうしてもこの道を進みたいなら、ここでお別れでも良いんですけどね。追っ手は、あなたたちの行く先を知っているわけで。別の道にでも移動すれば、少しはかく乱になるんじゃないかな、と」

「なるほど……貴殿の言う事が正しいな。私たちは、目的地へ行けるなら道は問わない。おい、ハンダ!」

「へい!」

 前方から、男のだみ声が答えた。

「馬車を止めろ。道を変える」

「へい、ただいま!」

 江戸っ子かな? と思う。こんな喋り方をする人、本当にいるんだ。

 馬車の速度が緩やかに落ちてきて、大山もようやくランニング程度の速さで走れるようになった。荷台の女性は、布の目隠しの向こうに姿を消す。その布も、薄茶色をした厚手の幌も、あちこちが破れてボロボロだった。あの灰色ローブが使う風の刃で攻撃されたのだろうか。良く無事だったものだ。

「奥様、お嬢様。もう大丈夫です。ラガ、奥様たちに水を」

「はい!」

 荷台の中では、女性の声に少年らしき高い声が答える。

 ふむ。茶髪の女性に、御者のおじさん、奥様とお嬢様に少年か。なかなか面白い取り合わせだ。特に、お嬢様というのがいい。女の子は、世界の宝物だからね。こっちに加勢して正解だったかな?

 まあ、早合点はすまい。頭脳の細田が居ない場面では、特に。

 どうどう、と馬を宥める声に応えるようにして、馬車が静かに停車した。馬も疲れ切っているだろうに、二頭が仲良く足並みを揃えている。良く訓練されているようだ。こういう技術って、魔法よりも貴重だよな。

 大山が感心して馬を眺めていると、御者台に座った男性がこちらに気づいて会釈した。

 この世界では初めて見る、腰から体を曲げたお辞儀だ。容姿も相まって、大山は日本の田舎のおじさんと出会ったような錯覚を覚える。

 そう、目の前の男性は、これまで目にした現地の人々よりも肌の色が淡く、黄色人種が日焼けした感じに近いのだ。小柄だが、骨の太いがっしりとした体躯。黒い髪は短く、頭に手ぬぐいのような紺色の布を巻いている。その布を取って、男性がまたお辞儀をした。

「やあ、これはこれは。お前様が、わしらをお助け下すったんですかい?」

「まあ、そうなりますね」

「そいつは、ありがてえこって。紅馬こうばどもも泡を吹いちまうし、わしゃあもう、生きた心地がしませんで、へえ」

「ハンダ。無駄口を叩いている暇があったら、紅馬を世話してやれ。お前も水を飲むのを忘れるなよ」

「へえ、ラダー様」

 その声に振り返れば、先ほどの女性が歩み寄ってくる。大山は改めて正面から見た女性に、ほう、と関心した。

 年の頃は三十代半ばだろうか。きりっとした目元の美人だが、少し面やつれしている。もっとも、大山の興味を引いたのは別の部分だ。

 女性は、この異世界で初めて見る高身長だった。目測で百七十センチはあるだろう。痩せた体に薄汚れたシャツと黒い細身のズボンを履き、立て襟がある厚手の茶色い上着を羽織っている。いや、羽織っているのではなく、片方の紐が解けているのか。

 肌の色も御者の男よりさらに淡く、色白の東洋人に近い。瞳の色が青いので違和感があるものの、顔立ちも彫りが浅いため、見慣れた日本人女性を思い出してしまう。

 ああ、瞼が一重だからか、と気づく。そこまで観察したところで、女性は左肩の下に右手の拳を当て、ゆっくりと体を倒す礼をした。

「お初にお目にかかる。私は、とある家で門客もんかくとして世話になっている、ラダー・ハリバリと申す。あるじの家名は、ここでは伏せさせていただきたい。だが……」

 おっと、姓名を名乗った人も初めてだぞ。どちらが名かはわからないが。今日は初めて尽くしだな、と大山が感動していると、ラダーと名乗った女性は、疲労の滲む厳しい顔に笑みを浮かべた。

「改めて礼を言わせていただこう。先ほどの無礼、ご容赦いただきたい。なにぶん、主の命運がかかっていたのでな」

「いえ、こちらこそ。襲われて逃げている時に、突然、見知らぬ男から声をかけられたら、誰でも不安になりますよ」

「そうか。寛大なお言葉に感謝する」

 ラダーはひとつ頷くと、また嬉しそうに笑う。

 うーん、このお姉さん油断しすぎだな。

 門客って、確か食客しょっかくと同じ意味だろ? 雇われご用人というか。大山は出会って数分で、ラダーをポンコツ剣士と位置づけた。

 そう、ラダーの腰には、真っ直ぐな長剣の鞘が吊るされていたのだ。中身は持っていないようだが、油断は出来ない。

「して、貴殿は……」

「ああ、申し遅れました。俺はヤマと言います。もうひとり、連れが居るんですが……ああ、ちょっと待った! おじさん、馬を外すの待って!」

 大山は、御者の男が馬具を外そうとしているのに気づいて、慌てて声をかけた。

「まだ、あの男たちの生死はわからないんです。話は後にして、まずはこの場から離れましょう」

「へえ、しかし……」

「そうだ。ヤマ殿と申したな。貴殿は先ほど、他の道へ移動する、と言っていたが。私もハンダも、この辺りの地理には疎い。他に、ホウロ山へ向かう街道があるのだろうか?」

 おや。全国版の地図が出回っている国にしては、妙な話だな。

 大山は疑問に思ったものの、顔には出さずラダーに向き直る。

「その辺は、俺の連れがどうにかしますんで。どこか、馬車ごと湖に出られる場所を探しましょう」

「湖に? いったい……」

「まあ、細かいことは後で。あ、馬車の中の人も、そのままでいいですから」

 わざと声を張って言うと、御者台の後ろから顔を出していた少年が、びっくりしたように中へ引っ込んだ。

 まったく、どいつもこいつも。

 まだ十四、五歳くらいの少年だったが、ラダーの言いつけに従っていたのだから、奥様とやらの使用人か下男だろうに。命を狙われた直後にとる行動じゃないぞ。

 大山は早くも、この馬車を助けたことを後悔し始めていた。細田の言う通り、無視するべきだったのだろうか。



「なんと……このような術は初めて見た。ハンダ、お前はどうだ。この国には詳しいのだろう?」

「へえ、わしも仰天しております」

「お前でも、か。それほど珍しい術なのだな」

「いえ、ラダー様。わしゃあ、ドウリャでも田舎者でございまして。高名な道士様方にゃあ、一度もお目にかかったことがございません。田舎の精霊使い様方も、ちょいと火を点けるとか、その程度でございましたので」

「ドウリャの道士に、精霊の呪術士か。なるほど、南方は精霊の力が濃いと聞いてはいたが……この目で見ると、神なき我が身にも、その力が感じられると言うものだ」

 ちょっと、この人たちどうにかして下さい。

 大山は辟易して、背後の会話を聞き流していた。

 あの後、なだらかな浜辺になっている場所を見つけたので、大山は水面に浮くよう防護壁を構築して、ラダーたちを馬車ごと運んでいた。厚みのある発泡ポリスチレンの上に、無垢の松材を重ねるように想像したもので、真四角だがなかなか良い筏になっている。色は真っ黒なので、この工夫が目に見えなくて残念だ。

 問題は、岸でがっちりと固定していたはずの防護壁が、馬車が乗り上げて進むうちに、自分の体から引き剥がされるような感触を覚えたことだろうか。

 湖に着水したとき、ロケット型の防護壁は先端が衝撃で潰れ、後方へと流された。

 先ほどの灰色ローブの攻撃でも、ライオットシールド型の防護壁が若干だが押されてしまった。

 そして、今回だ。

 世界の力を自在に扱えるとは言え、やはり限界もあるのだろう。この力を過信してはいけないと、改めて思う。

 もうひとつ心配なのは距離だ。

 宗教施設から走って逃げている間、寝室に残したはずのライオットシールド型の盾は、気がつけば大山の知覚から綺麗に消えてしまっていた。いまも、最後に倒した灰色ローブと馬を囲んだ防護壁は、存在を感知できない。

 考えることも、細田に相談したいことも山ほどある。

 なのに、お姉さんと御者のおじさんが自重してくれません。

「かような御仁と行き会うとは、我々の命運も尽きてはいないようだな」

「へえ。しかしラダー様。お輿入れまでは、気を抜いちゃあいけませんで」

「わかっている。心配するな、ハンダ。私の命にかけても、奥様とお嬢様は無事にお連れする」

「わしからも、おねげえいたしやす」

 ちょっと、ちょっと! 情報を垂れ流し過ぎですよ、お姉さんたち!

 大山は、一心に筏を進めた。無視だ、無視。お姉さんたちが国外からの旅の途中で、お嬢様をこの国の誰かさんに嫁がせようとしているなんて、俺は全く気づいていませんよー。

 筏の進みは遅い。大山には細田のような推進力が使えないので、適当に折った長い木の枝を水に突っ込んで、渡し船の要領で防護壁を押しているのだ。疲れはしないものの、岸から離れないよう、右に左にと動かねばならず気が抜けない。誰か手伝って欲しい。

 バシャバシャと音がするので振り向けば、すっかり筏に慣れたらしい二頭の馬が、湖に顔を突っ込んで水を飲んでいた。毛の長い、例のロバに似た小柄な馬だ。確か、紅馬とか呼ばれていたっけ。確かに、ちょっと赤みがかった色の体毛をしている。

 いいねえ、和む光景だね。

 お前たちの主人も、同じくらい大人しいといいのにね。

 思わず頬を緩めたところで、大山の感覚に妙な気配が引っかかった。

 この世界の力を扱えるようになってから、大山はたまに、周囲の人間の気配を敏感に察知することがある。世界の力を使っている人物に限定してなのだろうが、宗教施設から逃げ出す時も、階下や廊下の気配がはっきりとわかった。人数までは把握できないので、これも精度を上げるために練習が必要だろう。

 いや、いまは目先のことだ。

「お姉さん……ラダーさん、ハンダさん。お二人とも、お口チャック」

「ヤマ殿? いかがなされた」

 しまった、お口チャックじゃ通じないのか。

「お静かにお願いします。ちょっと、妙な気配がするんで」

 低い声で告げれば、ラダーとハンダは息を呑むようにして押し黙った。この辺りの判断力は、信用していいらしい。

 大山は念のため、湖岸に面した側に立て板状の防護壁を追加した。細かいピクセル模様で描かれたグリーンマーパットの迷彩柄で、筏も馬車も丸ごと隠せる大きさだ。自分の目の高さにだけ、細長く覗き穴を開ける。

 木の枝も筏の上に引き上げて、そっと湖岸を観察する。眼球に力を込めるようにして集中すれば、濃い葉叢の奥に、やや明るい道が見えた。

 背後では、ラダーとハンダが息を殺して緊張している。たとえ四方の一面でも、視界を遮られるのは怖いものだ。それでも静かにしていてくれるのだから、自分は感謝するべきなのだろう。

 俺を信頼しすぎなのは、本当に困るんだけど。

 じっと見ていると、道の先から馬に乗った人影が近づいて来た。馬の歩みはゆったりとして、散歩でもしているかのようだ。馬上の人物は灰色のローブを着ており、フードを下ろした小さな顔を左右に動かしている。

 その人物からやや遅れて、一頭の馬に相乗りした灰色ローブが二人、こちらも慎重に辺りを観察しながら進んで行く。

 やっぱりなあ。殺せるとは思っていなかったよ。

 馬が一頭足りないのは、森に突っ込んで怪我でもしたのか。お馬さん、ごめんなさい。

 三人の灰色ローブは、大山にもはっきりとわかる波動を発している。自分が大暴れをした時の、ガヤンたちに感じたものとそっくりだ。なにか、身体能力を底上げするような術を使っているのだろう。

 それでも、三人はこちらに気づかないまま通り過ぎてくれた。最新のデジタル迷彩柄に感謝だな。馬を操る三つの影が見えなくなっても、大山は集中力を切らさずに気配を追いかけ続けた。

 力の波動が、徐々に遠ざかってゆく。一分、二分と時間が過ぎ、やがて、大山ではこれ以上知覚できない、というところまで気配が薄れたところで、ようやく安堵の息をつく。

「行ったみたいですね。もう、楽にしていいですよ」

 振り返れば、ラダーがそっと右手を下ろすところだった。

 腰に下げている剣の鞘に、手をかけていたのだ。

「なんと……これは、身を隠すための術か? とても不思議な模様だ」

「まあ、そんなもんです。さて、連れはどこかなー?」

 大山は、さっと迷彩柄の防護壁を解除して、再び筏を進める仕事に戻った。

 中身の無い鞘に、手をかけていた。中身が無いのではなく、なにか魔法のような力で剣を取り出せる、とか? もっとも、まだ透明なライオットシールドは解除していないので、背後から攻撃されても問題はない。

 いやはや、剣呑でござるな。剣だけに!



 木々を見透かすようにして筏を進めているうちに、前方から小さな声が聞こえてきた。

「……い。おーい、山ちゃん。こっち」

 見れば、岸に近い樹木を背にして座った細田が、のんびりと手を振っている。

 大山は、全身で長い息をついた。どっと安堵があふれ、足が萎えそうになる。どうやら自分は、かなりの緊張と不安を抱えていたらしい。

 右も左もわからない世界で、単独行動なんてするもんじゃないな。これからは、細田を担いででも離れないようにしよう。

 大山はラダーを振り返り、細田を指差して見せる。

「あれが俺の連れです。皆さんは、ここで少し待っていて下さい」

「ああ、わかった」

 ラダーは頷くと、気楽そうな素振りで馬車に寄りかかった。だが、その目は細田を注意深く観察している。そんな目で細田を見ると、十倍くらいに警戒して返されるんだけどな、と思いつつ、大山は友人に手を振った。

「よう、ダダ。無事だったか。ただいま」

「おかえりー」

 雑草が水に浸っている辺りまで筏を寄せて、ボートの時と同じように板を伸ばす。陸地に上がると、細田が読んでいた本を仕舞うところだった。

 この友人は無事どころか、大山の心配もよそに、ひとりを満喫していたらしい。

「いやあ、ご苦労さん。で、どうだった?」

「うーん。色々とありすぎた」

「三行で頼むわ」

「馬に乗ってた三人は仕留め切れなかった。馬車の人たちも全員無事。さっきすれ違って終了」

「了解。そっちに乗っていいか?」

「いいけど、なんで」

「なんでも」

 言って、乱暴にリュックの片方を突き出される。細田はすでに、自分のリュックを担いでいた。続いて手渡された風呂敷包みも受け取ると、細田に低い声でささやかれる。

「なんで連れてきた」

「ええと……馬に乗ってた男たちが生きてたから? 逃げ切れそうになかったし」

「勘弁してくれよ」

「ごめん」

「いいけど」

 それのどこが、いいって顔なんだよ。ああ俺、またやっちゃったかな。

「で、どうすんだ」

「道を変えたほうが追っ手のかく乱になる、って言ったら、素直に乗って来たんだよ。本当にごめん」

「おいおい……まあ、いい勉強にはなるか」

 細田は筏に乗り込むと、しげしげと馬車を観察した。すぐ横にラダーが居るのに、まったく頓着する様子がない。

 そのまま、ラダーを無視して筏の前に行こうとするので、大山は友人の肩を叩いて引き止める。

「ああ、ダダ。この人がラダーさん。どっかの家の門客だって。ラダーさん、こいつが俺の連れです」

「どうも、ダダです。連れが世話をしたようで」

「おーい」

 やる気のない突っ込みに、細田がニヤリと笑って返す。その表情に大山は、おや、と思った。

 ラダーは、細田にも右手の拳を左肩に当てる礼をした。さっと彼の全身に視線を流して、気さくな笑顔を見せる。

「いや、確かに世話になったのだ。ダダ殿と申されたか。私は、ラダー・ハリバリと申す。これは、御者のハンダ。馬車の中にも連れが居るのだが、長旅で疲れている。挨拶も出来ないのは心苦しいが、このまま休ませておいても良いだろうか」

「ええ、お構いなく。それで? ラダーさんたちは、この後どこへ向かわれる予定ですか」

「私たちは、ホウロ山にあるシキの里を目指していた。山深い里で、この街道以外に道は無いと聞いていたのだが……」

 あっさりと話が進むのに困惑してか、ラダーが横目で問いかけるような視線を投げてくる。大山は、無言で肩をすくめて返した。

「ヤマ殿が申されるには、襲撃して来た者共を惑わせるためにも、別の道をとった方が良いだろうと。恥ずかしながら、私たちはドウリャに不慣れでな。ヤマ殿の提案に甘えさせてもらったのだ。貴殿は、この辺りの地理に明るいのだろうか」

「ああ、シキの里ですか」

 得心げに頷く細田に、大山は不安を感じつつもだんまりを決め込む。頼んだぞ、相棒。勝手に話を進めちゃったことは、後で土下座して謝るから。

「では、飛龍をお使いになるんですね。行き先はカルバイですか? それとも、タズルトかな。ああ、おっしゃらずとも結構です」

 一瞬、目を細めたラダーに、細田が片手を上げて笑いかける。

「シキの里は、ホウロ山の北西にあるヤータヴァイ郷の外れだ。北からいらっしゃったなら、確かにこの道を教えられるでしょうね。この街道から外れなければ、間違いなくヤータヴァイに着きますから。ただしそれは、あなた方を襲っていた人物も承知なわけだ」

 くるりとこちらを向いた細田が、顎をひょいと持ち上げる。

「山ちゃん。今日のところは、どっかで野宿だね。もう日が暮れるし」

「ああ、そうか……」

 促されて振り向いた大山は、夕焼けに染まる空に目を見張った。頭上はまだ灰色の残る雲が、徐々に紫色へと変化して、西の稜線はオレンジ色に染まっている。周囲を森に囲まれているので、日没も早いのだ。

「急がないと、すぐに真っ暗だな」

「それは、あの三人も同じだよ。この先の里って遠いからさ、馬でも日暮れまでに着くかどうかだと思うんだよね。それから聞き込みをして、ラダーさんたちが里に居ないと知ったところで、夜中に引き返しちゃ来ないでしょ」

「まあ、そうかもな……」

「明るいうちに、もうひと頑張りしてくれると助かるんだけど。明日は、朝から対岸に向かえばいいから」

「対岸? そちらにも、道があるのだろうか」

 ラダーの問いかけには答えず、細田は筏の先頭に歩いて行く。まだ大人しく繋がれたままの紅馬を見て、彼は、へえ、と声を上げた。

「可愛いな。お前たち、山ちゃんに感謝しろよ。おじさん……ハンダさん、でしたっけ。この馬たちの食べる物は、なにかあるんですかね?」

「飼葉は積んでやすが、もうあまり残っちゃおりませんで。この先で、いくらか買い込むつもりだったもんですから、へえ」

「じゃあ、行き先はユイダに変更だな。ちょっと引き返すことにはなりますけど、開けた良い里です。ハタ街道沿いだから、馬の世話もしてもらえると思いますよ。ま、詳しい話は後にして……ほら、山ちゃん。なにしてんだよ」

「え、なにが」

 首を傾げて返すと、細田は筏の後方を指差してくる。

「話を聞いてなかったのか? こんな鬱蒼とした所じゃなくてさ、もっと野宿に便利そうな場所を探したいんだけど。お前しか、この筏は動かせないんだから」

「ああー……わかった。じゃあ、適当な所で声かけてくれ」

「りょーかい」

 ふらふらとした足取りで筏の先頭に行き、紅馬の隣で座り込んでしまった細田に、大山はそっと嘆息した。

 細田の様子がおかしい。俺の勝手な行動には、もう怒っていないようだが……いったい、なにを警戒しているんだ?

 放り出したままの木の枝を拾ったところで、ラダーが細田の背中をじっと見つめている事に気づく。大山は、陸地に繋げた板を解除してから、女性剣士に手を振った。

「ラダーさん。あんなですけど、ダダは頼れる奴ですから」

「ああ、すまない。そうではないんだ……あのような背嚢は、初めて見たのでな。ヤマ殿も使っておられるし、それはドウリャで手に入る物なのだろうか」

「ああ、リュック……いえ、これは俺たちのパーソナル・シングスです。オンリー・ワンならぬ、オンリー・ツーなんです。他では手に入りませんよ」

「やーまちゃーん。しゅっぱつしろー」

「わかったよ、うるさいな」

 まだ興味深げにリュックサックを観察するラダーを放って、大山は筏を進めることにした。

 理由はわからないが、細田は例の推進力を使うつもりがないらしい。ペラペラと調子の良い事を言っていた割に、ラダーたちの目的や、馬車の中の人物にも興味を示さなかった。二頭の紅馬のほうが、よほど彼の関心を引いたくらいだ。あの一瞬の顔だけは、本物の細田だった。

 こんなに短い期間で、まさか二度もの細田を目にするとは。

 つい、昨日の事なのが嘘のようだが、細田はガヤンの前でも同じような態度になった。口調が柔らかくなり、表情が穏やかになる。これは細田が、警戒心という名のシャッターを下ろした時に顕著な反応だ。

 最初に宣言した通り、彼はガヤンたちを頭から疑っていたのだから、昨日の客間での振る舞いは納得できる。

 だが、ラダーやハンダにも同じ態度で接する理由がわからない。彼女たちは、自分たちの敵対している宗教関係者に襲われていた被害者なのに。

 細田にだけわかる、なにかがあるのだろうか。

 大山は無言で手を動かしながら、その後もつらつらと考え続けていた。

 ひょっとしたら、彼女たちを助けたのは面倒なことではなく……とんでもない失敗だったのかも知れない、と。

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