Enchant RED——章前——

せてぃ

Enchant RED——章前——

 アスカ・ニノ・グラシャスは怒っていた。

 手が震え、眼が熱を帯びるほどの激しい怒りだった。しかし、外見には、そう見えなかっただろう。それは彼女が貴族であり、武門の家系であり、王国の一大騎士団を預かる身であるからだ。

 グラシャス家には男児がなく、家督をアスカが継いだ。シーランス王国史に前例がないことではなかったが、それはシーランスの武門を預かるグラシャス家にとって、アスカの父にとって、そしてなにより、アスカ本人にとって、並々ならぬ努力を強いる事だった。女である、というだけで起こる偏見を、結果を伴った実力で黙らせる。そうした姿勢に必要だったのは、常に誰よりも冷静で、時に冷酷ですらあることだった。

 幼いうちから男たちに交じって武芸に励み、その全てを自らの実力で討ち果たし、グラシャス家当主に相応しい実力を持つものとしての結果を示し続けた。結果、グラシャス家は彼女に代替わりしたいま、家歴の中で最も繁栄し、シーランス王国十三の大騎士団のうち、実に三つを預かる大貴族へと成長していた。

 この躍進の背景には、三年前に勃発した大国間の戦乱がある。シーランスとカリスト、大陸を二分する大国に、それぞれの小国同盟が入り乱れる、大陸全土を巻き込んだ戦乱。アスカは常にその戦いの最前線にあり、その身を晒して戦い、騎士団を指揮した。敵国からは『氷界の魔女』と怖れられる冷静、冷徹な戦いぶりは、味方からは『救世主』と崇められた。祭り上げられている不快感はあったが、しかし、アスカは止まることも、逃げることもしなかった。そうして戦い、民を守ること。それがシーランスの貴族に、武門の家系に生まれ落ちた者の務め、定めと位置付けて、常に冷静に、冷酷ですらある決断を下し続けて来た。


 にもかかわらず。


 それが、アスカの怒りの原因だった。鎧を鳴らし、騎士団詰め所に使われている館の石床を強く踏みしめ、怒涛の勢いで歩く原因だった。長く艶のある黒髪が帯を引いて舞い上がり、切れ長な目が周囲を威圧する。騎士たちが退いて道を開け、アスカはその間を、ある一室を目掛けて進んだ。

『付与魔法師団』と名の掲げられた扉をくぐり、アスカはさらに進む。

『魔法師団』は、世界を構成する元素とも言われ、空気のように至る所に満ちる力、『魔力』を研究し、それらに干渉し、『魔法』と呼ばれる超常の力を得る、魔法使いたちで編成された、シーランス騎士団に編成された部隊の中でも、異色の部隊だったが、中でもこの付与魔法師団は、特にそうした異端の色の濃い部隊だった。

 魔法の力は、戦争、戦闘にあっては、破壊の方向へ使われるのが常だ。大きな爆発を生む炎や、敵兵を吹き飛ばす大風、豪雨を呼び、川を氾濫させ、敵騎士団を押し流す水、など、魔法の力は戦況を一変させる恐るべき力を秘めている。しかし、この付与魔法師団が操る付与魔法は、そうした、ある意味では華やかである、戦争の主力たる魔法とは異なる。超常の力であることには違いないのだが……


「あ、アスカ様!?」


 突き当りの扉の前で、目を丸くして声を上げた少女がいた。肩までの短い髪に、丸い鼻が特徴的な、まだあどけない少女。確かミリアと言ったか。


「グレンは? 中か?」

「あー、いやあ、その、ちょっとですね……」


 煮え切らないミリアの言葉を皆まで聞かず、アスカは扉を開いた。

 中は、他の士官クラスの部屋と変わらない調度品が並べられた部屋で、最奥に大人二人分が横になったほどの、大きな机が置かれている。部屋の端から端までを占めるその机の向こうに、椅子の背もたれに、だらしなく身を預けたこの部屋の主がいた。

 気でも触れたかのような、派手な赤い衣服に身を包み、今時、貴族の女でも被らない、大きな白い羽飾りをつけた、つば広の帽子を被っている。羽の白さが際立つその帽子の色も、やはり赤だ。

 帽子のつばが大きすぎて、椅子にもたれた人物の顔が見えない。が、どうやら寝ているようだった。腹の上に組んだ手に、酒のボトルが握られているのを見て、アスカは確信した。


「あー、えーっと、これはですね…… た、たいちょー、アスカ様がいらしてますよー、と」


 怯え声のミリアが話すが、椅子にもたれた赤い人物はぴくりとも動かない。いや、動いている。寝息に合わせて、肩が、胸が、腹が、大きく上下している。


「あ、アスカ様、いやあ、ちょっと、隊長、あれですね、あの……」

「よい。ミリア。下がれ」


 付与魔法師団の一員であるミリアを一喝して下がらせ、扉を閉めさせたアスカは、徐に腰に佩いたレイピアを抜いた。


「グレン」

「……ん? アスカちゃんか?」


 その言葉がきっかけだった。アスカは一瞬で机までの距離を詰めると、迷いなくレイピアを突き出した。

 目にも映らぬ、と言われ、怖れられるアスカの突きは、しかし、椅子にもたれた赤い人物を突き刺すことはなかった。うわあ、という悲鳴とも、欠伸ともつかない声が上がり、アスカのレイピアの先端が触れる直前、赤い人物は椅子から転げ落ちていた。レイピアが椅子の背もたれを突き刺し、粉砕した。


「ちょっ、なんだよ、寝てたのに」


 赤い人物が何か言ったが、アスカは気にも止めなかった。レイピアを構えなおすと、一閃、再び高速の突きを放った。

 うわあ、と今度は明らかな悲鳴を上げ、赤い人物……グレン・ナブリスは飛び退ってアスカの突きを躱した。が、机の奥には限られた空間しかない。アスカは突き出したレイピアを横薙ぎに振るう。切っ先で相手の喉笛を掻き切ることを狙った剣閃を、グレンが頭を下げて躱す。そのまま器用に床を滑ると、机をくぐって、アスカの背後に立った。


「昨日飲み過ぎて、まだ寝足りないんだよ。娼館のカレンちゃんも昨日は放してくれなくて……」


 そんなことを耳元で言う。アスカはその声を発した口に向かって、振り返りざま、得物を振るった。


「ちょっと、ちょっと、ちょっと!」


 巧みに身体をしならせ、グレンはアスカの剣を体捌きだけで躱していく。顔、手、胸、腰、高さも速さも、突きも薙ぎも織り交ぜて、高速の剣技を見舞うが、そのどれもグレンには一太刀も当たらない。

 そうなのだ。アスカはこの男に、一太刀も浴びせられたことがない。

 グレンとは年齢も近く、士官学校でも何度となく剣を交わした。しかし、一度として、はっきりと勝ったことがないのだった。負けたことはないが、勝ったことがない。幼いうちから男たちに交じって武芸に励み、その全てを自らの実力で討ち果たして来たアスカにとっては唯一の、一度も勝敗がついていない相手。それがこのグレン・ナブリスなのだ。


「何なの、これ、何なの!? 理由があるでしょう、理由が」

「……自分の胸に聴け」


 何度目かの突きを一歩退いて躱された。その切っ先を振り上げ一閃した攻撃さえも避けられた。が、アスカはここで策を打った。レイピアを振り上げた勢いのまま、背に担ぐと、そこでグリップを握った右手を放した。剣は一瞬宙を舞い、アスカは自分の腰に回した左手で、剣のグリップを掴んだ。すべては一瞬で、しかもグレンからは死角になる、アスカの背の後ろで行われた持ち替えの技。悟られる暇を与えず、アスカは左手で必殺の突きを撃ち込んだ。

 これにはグレンも対応できなかった。つば広帽の下の表情が、一瞬、驚愕に歪んだ。それが見えても、アスカは突きの勢いを緩めるつもりはなかった。貴族として、騎士として、その実力がありながら、結果を出そうとしない男など、戦いに出るべきではない。この場で命を絶たないまでも、戦闘不能にすることはできる。そう思ってここへ来たのだ。

 アスカのレイピアがグレンの姿を捕らえた。

 しかし、手ごたえはなかった。


「理由は……ありすぎてわからんのよ」


 自分が貫いたのは残像だ、とわかったのは、背後から聞こえたその声を聞いてからだった。慌てて振り返ったが、グレンは戦う意思などまるでない、とでも言うように、執務机の上に腰かけ、手にした酒のボトルを煽っていた。


「……呪文の詠唱も、刻印も、魔法陣もなく、『加速ヘイスト』だと……!?」


 本来、魔法を使うには、いずれかの方法、もしくは複数を合わせた方法が必要になる。世界を構成する元素に干渉するための、言わば元素にとしての定型の呪文詠唱、もしくはこれから干渉することを空中に特定の文様を刻む刻印の儀。さらに大きな力を使おうと思えば、足元に魔法の力を文字と文様で描いた陣を描き、呪文と刻印の力すべてを発揮して魔法の力を行使する。

 しかし、グレンはそれらすべての、一連の必要とされる行為を無視して、魔法を使ったのだ。『加速ヘイスト』という魔法を。

加速ヘイスト』は付与魔法の中では、比較的一般的なものだ。魔法の力を人体に宿し、文字通り、常人を遥かに上回る俊敏さを手にする。付与魔法とは、そうした人の身体に付け与え、常人以上の力を引き出す魔法なのだ。

 グレン・ナブリスは付与魔法の名手であり、さらに一流の剣士でもあった。ナブリス家はグラシャス家とは違い、決して大きな家柄ではなかったが、彼には傑出した才能があった。士官学校も上位の成績を残し卒業。付与魔法師団に入隊後は騎士として、貴族として、大いに戦い、戦果を残した。付与魔法という魔法の性質上、戦果を上げにくい、とされてきたそれまでの常識を覆し、撤退戦の殿さえ勤め上げたことがある。それは世の中にも広く、『パルパティネの奇跡』として知られている。彼ら付与魔法師団の活躍によって、アスカの率いる大騎士団本体は、大きな損害を出すことなく済んだのだ。グレンはそれ以後、国内外で英雄の一人として見られている。

 だが、その『パルパティネの奇跡』の後、グレンは変わってしまった。

 付与魔法師団の師団長となったグレンは、付与魔法師団を戦闘に介入させず、撤退ばかりを繰り返していた。

 つい先日の戦場でも、アスカの指揮に反して、グレンは付与魔法師団を動かさず、適当な援護だけを行って、撤退していた。アスカの怒りは、そうした経緯からのものだった。


「それだけの力がありながら……」


 常に冷静で、冷酷ですらあるアスカのうちで、感情が爆発した。露わになった怒りを押しとどめることなく、アスカは机に腰かけるグレンに歩み寄ると、レイピアを投げ捨て、赤い衣服の胸倉を掴み上げた。


「それだけの実力がありながら、なぜ貴様は戦わない! 貴様とてシーランスの騎士だろう! かつての貴様は……」

「アスカちゃん、もうやめようや、そういうのは」


 胸倉を掴まれたまま、へらへらとグレンは笑う。暇さえあれば酒と女に興じていると言われる最近のグレンを象徴するように、鼻からすかした吐息は、強い酒の匂いがした。


「……なに?」

「もうやめようや、て。貴族だから、騎士だから、ってのはさ。おれたちがそんなんじゃあ、この世から戦いはなくならないのよ」

「どういうことだ」

「もしおれたち貴族の存在理由が、民を導くことだとしたら、守るため、守るため、って武器を手にする以外の道を示さなけりゃならんのじゃないか、ってえ話よ」

「そんなことは……」


 わかっている。それは確かにアスカもわかっていることだ。だが、それができないのもわかっている。世界すべてが、同時に武器を捨てられない以上、蹂躙されるのを黙ってみているわけにはいかない。誰かが戦わなければ、この国の民は一方的にすべてを奪われるのだ。


「わかっているなら、そういう方向へ進もうや、なあ、アスカちゃん」


 苛立ちが胸をざわつかせた。アスカは捨てるようにグレンから手を離すと、背を向け、投げ捨てたレイピアを拾い上げた。

 かつてのグレン・ナブリスは、こんなへらへらとした話し方をする男ではなかった。世の流れに反する正論を振りかざすところもなければ、酒や女に溺れるなどもってのほかだった。誠実に、騎士として、貴族としての役割を果たそうとする、自分と同じ、シーランスの騎士の見本とされる男だった。そのはずだった。アスカが知る限り、この英雄は、そういう男であったはずだった。


「……なにが……」


 アスカはレイピアを腰に戻した。肩越しにグレンの姿を見たが、アスカに押し投げられたグレンは、その反動を殺すことができず、机の上から転落し、床に転がったまさにその瞬間だった。


「あのパルパティネで……貴様は何を見たのだ……」


 盛大な音を立てて転がったグレンの姿を皆までは見ず、アスカはグレンの部屋を後にした。





「……地獄さ。おれが見たのは」


 グレンは天上を仰ぎ見ながらそう言った。アスカが自室を出ていく気配があり、首の皮一枚繋がった自分の命を確かにした。


「たいちょー、アスカ様、行っちゃいましたよ。『貴様が言うことが正しくとも、それが酒と女に溺れることには繋がらん』って伝えてくれって言われました。いやあ、まったくその通りですよね。さすが『氷界の魔女』かっこよかったですー。あの冷たい眼差し! 冷酷な表情! レイピアの名手で、しかも氷の刻印魔法の名手でもあるんですから、イメージピッタリですよね! ああ、あんな素敵な方と隊長が士官学校で同期だなんて、何度言われても信じられませんよー。こんなゴミみたいな人間に、わざわざ足運んで下さるなんて、本当に人間のできた方ですよね……って、聞いてます?」


 地獄。

 敵を殺し、その死体をまた殺し、その死体を踏みつけて、血まみれの野に立ち、さらに足を進めて敵を殺す。そういう地獄を、グレンは見た。あの国境、パルパティネの街で、グレンは、地獄とは、この世にこそあるのだと知った。

 そして、それを作り出している一員である自分を知った。


「ミリア」

「はい」

「酒」

「ありませんよ」

「なんで」

「全部飲んじゃったじゃないですか」

「じゃあ買ってきて」

「嫌ですよ」

「なんで」

「なんで、って言いました? いま、なんでって言いました? 言ったように聞こえちゃったなあ。本気なのかなあ、この人。あいや、このゴミくず」

「……やれやれ」


 グレンはゆっくりと立ち上がった。したたかに打ち付けた背中と腰が痛む。そして、肩に薄くできた切り傷も。

加速ヘイスト』が一瞬遅れていれば、あのレイピアは確実にグレンの右肩を貫き、グレンの腕を一生使い物にならないようにしていただろう。それほど、アスカの想いは本物だった。冷静で冷酷に見せ、その実、胸の内に強烈な炎を宿した正義の騎士。あいつは間違いなく英雄だ。グレンはそう思っている。

 だが、それではあの地獄はなくならないのだ。

 そこから一歩、踏み出さねば。


「しょうがないから、カレンちゃんところに行って来るかなあ」

「また娼館ですか? 不潔ですねえ、このゴミは」

「ミリア」

「なんです?」

「そろそろ士官卒のエリートが来るはずだよな」

「ええ、今年はひとり来る予定ですよ。それが何か?」


 グレンはつば広帽子を被り直し、身支度を整えた。


「いいや」


 その士官卒に、何を教えてやるか。

 グレンは少し考えながら、そこから一歩、歩み出した。

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