第7話

 扉がたたかれる。

「ご用意、整いましてございます」

 モアズールはタペストリーの呪縛から逃れるために、急いで部屋から出て行った。

 廊下の空気はすがすがしかった。息苦しい緊張から解放されて、モアズールはホッとした。すぐにその感情は、たっぷりとした衣の下に埋もれ、彼はすっかり忘れてしまう。彼の関心は、楽しむべき狩りへと向けられていた。

 表回廊に出ると、臣下であり学友でもある貴族達が数人待っていた。モアズールを目にすると、すぐにひざまずき、拝する。モアズールは仕草で彼らの頭を上げさせ、侍従に犬を連れてこさせる。表の庭に二匹のポイント柄のある小さな犬がやって来て、庭に出たモアズールの足元に伏せた。

 「今日は大ネズミかウサギでも狩ろう。気の利いた柄の獣でも取れれば、妻にいい土産ができる」

 貴族達は薄く笑いさざめく。大声で笑うのは戸外に出てからだ。彼らは唖人のように、ぞろぞろと宮殿の外へ出た。

 水滴を含んだもやが、足元に落ちている。早朝のような湿った空気が、辺りに漂っている。それでも見晴らしはまずまずだった。犬は鼻をてらてらと輝かし、鼻息を荒げて、興奮している。短く切られた尾を、振りちぎれんばかりに動かし、期待に輝く瞳で主人を見上げる。

 モアズールは、犬など見ていなかった。犬が喜んでいるのは承知していたし、定められた仕事をそつなくこなすように仕込んであるので、いちいち犬を御さなくともよいと思っていた。彼が命じなければ、犬たちは永遠に我慢し続けるだろう。心地よい支配感である。彼は今それを味わっている。犬は、自分が最初に感じた支配の対象物だった。今では、それは最下位の支配物でもある。

 犬は自信に満ちた表情で、襲うべき獲物に鼻先を向けている。

 モアズールが一声叫んだ。

 犬は弾け飛ぶように疾走し、瞬く間に視界から消え去った。

 モアズールは笑った。

 犬はすぐに吠え立てた。気が狂わんばかりに泣き叫んでいる。 モアズールは侍従から弓を受け取り、矢をつがえ、そちらへ走った。犬が上半身を湿った土の中に埋めている。潜り込んだまま、吠えている。もう一匹が他の穴を探す。獲物を待ち伏せるために。

 小さな物音さえも聞き逃さぬように、モアズールたちは耳を澄ます。視界が遮られているために、音だけが頼りの綱だった。獲物は犬たちを逃れ、地表に顔を出した。彼は空気の振動さえも逃さず、ふいにそちらへ矢を放つ。犬は我

先にとばかりに争って、そちらに向かい、間もなく口に丸々と太ったウサギをくわえて戻って来た。

 ウサギはブルブルと脚を痙攣させている。獲物をもって来た犬は、うれしそうに舌を出してにやけている。モアズールは、腰に下げたポーチから干し肉を出して、褒美を与える。ウサギをすぐに屠るつもりがなかったから。

 縄で耳をくくられ、半死半生のまま、ウサギは勲章のようにモアズールの腰に下げられた。獲物の重さが、狩りをする人間の得意げな誇った感情をくすぐる。

 モアズールは上唇をなめ、次の獲物を狙うために矢をつがえる。霧は足元を覆い、ひざの辺りまで侵食していた。水音がし、彼は振り返り、反射的に獲物に向かって矢を放とうとした。

「王様!」

 家臣の一人が焦った叫び声を上げ、モアズールの腕をはたいた。しかし、その前にモアズールの理性が、矢羽を放そうとする右手をねじっていた。

 矢は空高く舞い上がり、ゆっくりと雲霞の彼方へ消えた。

 激しい水しぶきと騒音が辺りを取り巻き、羽ばたきと泣き声を残して散っていった。空が一瞬紅色に染まり、元に戻る。

 モアズールは信じられぬといった体で、右手で顔を覆う。瞼のうえから眼球を押さえた。安堵に近いため息を漏らし、

「一匹も傷つけなかったな?」と、不安げに自分の腕をはたいた勇気ある家臣にたずねた。

「はいっ……」

 家臣も青ざめ、詰まったような声音で返事をする。

 今の出来事で、一瞬のうちにモアズールの気持ちは冷めてしまった。

 危ないところだった。もう少しで神の使いを殺すところだったのだ。国王と言えど、ただではすまないところであった。モアズールは臣下の返事を聞き、また、自分の見たままを理解し、自分が無事であることを悟った。そうだ、自分が無事であったことに、何よりも安堵したのだ。口に出さないのだから。その場にいた者はだれ一人として、彼のその感情に気付くこともなかった。

 しかし、彼自身もよく分かっていない。彼は自分の感じることについて、深く検討したことすらない。肉体は鍛えているが、彼の精神は強い加重に耐えられない。彼はその感情を、この狩り場にあっさり置き去りにしてしまった。そして、これでもうおしまい。そのことについて、心を一喜一憂させるのは。

 しかし、気分が悪くなってしまったのは確かだ。気分を害してしまった。もう狩りは楽しめない。モアズールはごく簡単に「帰る」と一言命じる。それに、すべての者が従った。犬さえも。

 城に戻ると、すぐに侍従にウサギを屠らせ、皮をなめしておくように言った。肉は今晩の皿に出せとも付け加えた。

 彼の気分は容易には立ち直らなかった。むっつりと眉をしかめたまま、自室に戻る。

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