第6話

 空洞の底に、毒を服んで死んだ小さな遺骸が、横たわっていた。ダールに別れを告げ、そのままの位置で。土気色の肌に紫色の斑紋が浮かんでいる。

 ダールは無言で、じっとそれを眺める。そして天を見つめ、飛翔して行った老師の魂に向かって祈った。床に転がるのは、邪悪な魂や精霊を呼び寄せる肉体だけだった。

 部屋の隅を、紅い水鳥の精霊がゆっくりと歩き回っているのが見える。師匠が死に、代々受け継がれてきた力を、今自分は手にしたのだと知った。精霊は忘我し、ただ舞っている。ふらふらと。

 師匠の体に、死の力が宿り始めている。ゆらゆらと陽炎となって、黒い染みが空中から湧きいで、遺体にべったりと垂れ落ちていく。ダールは床においてある香に火を点け、煙で結界を張っていく。ぐるぐると死体を何周かすると、その体に封印の呪文と紋様を小刀で刻み付ける。骸の額からくたびれた飾り紐を取り、火を点けて、死体の胸のうえで燃した。それは紙切れ同様にたやすく燃え上がり、消し炭になった。

 死体は古木のように堅く硬直していたが、無理やり折り曲げ、丸くひざを抱え込む形に屈身させた。手足を服の切れ端できつくくくりつけ、ダールは背に負う。

 死んだ肉体は、もはや師匠のものではなく、死霊のものだった。ダールの師匠に対する尊敬は、天の精霊の世界に去っていった魂に寄せられていた。

 不浄のものをいつまでも神殿に置いてはおけない。紅衣を脱いだダールは、裏口に回り、そこから出ると、宮殿の裏手にある沼に死体を投げ捨てた。緑藻に濁る沼底には、何十もの遺体が沈んでいる。浮き葉が、一瞬ウジになり、じわじわと水面に密生し、静かに人知れず蝕んでいる。死体はしばらく浮いていたが、不可視の沼の死霊に引きずり込まれ、じんわりと水下に見えなくなった。

 薄暗い蒼光が死霊を喜ばせている。冷えた氷の月が、周囲を青白く萎縮させていく。生気を吸い取られた作りものに見せかけている。こんな月下に人さえも、石でできた彫像になって見えるだろう。

 暗く底のない銅鏡のような沼の表面が、ゆらゆらとざわめき、嚥下していくものに不満を漏らしている。ぷくぷくとげっぷをすると、不機嫌そうに眉をしかめた。

 しかし、それさえもダールには分かってしまう。月光が小さな羽根だけの精霊であるこさえも。梢に揺らぐ蜘蛛の糸のような風の精霊も。暗闇を見通し、彼には分かってしまう。

 自分に降りて来た紅鳥の精霊が、沼の向こう側にひっそりとたたずんでいる。ダールはぼんやりと見つめる。彼女の紅衣が、凪いだ風にゆらゆらと揺らめいている。闇に溶けた深紅の髪が、陽炎となって背景と同化していく。位置を全く異にして置き換えられた、もう一人の自分。その女精霊自身が、まるで自分自身のように、同じく自分を見返し、見返される自分をも見つめている。

 音楽の音のように、水鳥の心の中が伝わってくる。

 ダールがシャマンの跡を継いだ時点で、すでに精霊と心が、魂がつながっていたのか。それとも魂の一部を精霊に預けてしまったのか。

 符号そのものの言葉が、するすると頭の中を出入りする。しかし、理解するにいたらなかった。理解するには、精霊

と交合しなければならない。

 精霊は銀河のような渦を巻くと、いきなり消え去った。

 ダールは無意識に額へ手を伸ばし、紐を探る。

 不安が胸をよぎる。精霊の言葉は感情になって心に残っていた。どんな種類の不安なのか、ダールにはさっぱり分からなかったが。

 沼の水面を転がる光の羽虫たちにたずねることもできず、久しぶりに晴れ渡る夜空を見上げる。惑星がチカチカと話しかけてくるが、知る必要もない戯言だった。

 水鳥の精霊以外に共鳴するものがない。多分、一度呼び寄せれば、可能だろう。

 隔絶され、今までひとつであったものから、はみ出てしまった鈍い孤独感だけが、胸の内を独占している。

 ダールは、ふと横に目をやった。

 水鳥の女がそこにたたずみ、ダールと同じように立っていた。水鳥のサンゴの粒に似た瞳が、彼の心の奥を見透かし、じっと覗いている。彼は息を飲み、見つめあう。神霊の声が、うんかとなってざわざわと耳元でうなっている。ささやかな彼女の願いが、細い針穴の心の透き間をくぐって、彼の心臓を突き刺した。

 ダールは老師の語らなかった最後の儀式を知った。

 彼女は老シャマンから去り、ダールの元に来た。これからは彼と共にいる。彼女は彼と契りを結び、彼が死んでしまうまで側に置いておくことを強要していた。彼が断れば、水鳥の精霊は、今後決して彼の呼びかけには答えないだろうし、彼自身のシャマンの魔力も消えてしまうだろうと、彼にははっきりと予想できた。

 ダールはあや紐を触っていた。あや紐は力の源ではなかった。

 力はあや紐からほとばしっているのではなかった。

 断る理由もなく、ダールは女を見つめる。彼女は満足げな笑みを浮かべると、消え去った。

 しかし、依然あや紐は自信の根源であり、そして、先程までの孤独感は探すことが難しいくらいに消失していた。なぜ、そんなものを感じていたのかということさえも、分からなくなっていた。

 周囲を見渡すと、宮殿の外壁の上に、紅衣の女がうずくまっている。これから先、ダールが老いて次のシャマンに力を譲るまで、彼女は自分の側にいることだろう。

 事もなく夜が明けた。いつもと変わりなく。

 いや、朝の政務に出たモアズールの横には、人形のようにシアンがたたずんでいる。いつにないことである。

 女性に執政治権はない。その代わりに家内の権利を持っている。家内の取り決めは、豆の一粒までも女のものだ。明日になれば、夫の仕事を覚えた彼女は、もう二度と表に出て来ない。他の女と同様に、家の奥に引っ込んでしまう。そして、表の世界と背中あわせの、裏の世界を取り仕切るのだ。

 途中、シアンが出ていっても、存在感のなかった彼女に気遣う者はいなかった。

 政務の内容もたいしたことはなかった。戦の始まる気配も、ここ何十年と見ない。モアズールの父親が幼いころに経験したきり、モアズールなどはただの一度もなかった。村間の小競り合いが関の山で、そんなものは治領の地主が治めていた。収穫の予測や、水害による影響や、治水工事の進み具合を、各々の領主が報告した。それさえも顔触れが違うだけで、彼が王子であったころから、一寸の変わりもない。

 しかし、それでも、それらに対して指示できる立場にあるというのは、新鮮な感動であった。たとえ、父親と同じことを答えたとしても、今は父ではなく、自分の意志がそう答えているのだ。

 モアズールはこの仕事が終わった後、遅い朝食を取り、趣味であり、ただ一つの暇つぶしでもある狩りに出掛けるつもりであった。弓銃を使うような狩りではなく、小さな四つ足を追うたわいもない遊びをするつもりだった。毛並みのいいウサギのような獣が取れれば、その毛皮を妻にやってもよい。遠出をせず、城から離れぬ所で、犬を二匹くらい連れて出掛けるつもりであった。

 この国で狩りの対象になるのは、四つ足の獣だけである。二つの翼で飛ぶものは、どんなものであろうと殺生してはならない。もしも禁を犯せば、生きていることすらおぞましく思えてくる最悪の処罰が与えられるのだ。

 数少ない領主の報告もすみ、モアズールは勢いよく立ち上がり、壇上の後ろの垂れ幕に隠れた扉から出ようとした。ふと確かめるように振り向く。皆は出室の王に対して依然ひざまずき、拝したままであった。彼は満足し、侍従に狩りの準備を言い付け、自室へ戻った。

 部屋に入り、マントをはずしていすにかけたとき、背後に紅衣の何者かが立っているような気がして、あわてて振り返った。そこには、赤いタペストリーが掛けてあるだけであった。何となくホッとし、侍従を呼ぶ。狩衣をもってこさせ、着衣させる。ふと、赤い色のことで頭を何かがよぎったが、知らぬままに放っておいた。確信を得るほどに具体的に思い出したくなかったせいもある。

 モアズールは、王子のときからの狩り仲間である臣下の名を侍従に言い付け、彼らに用意するように言い渡すよう、命じた。侍従は出ていき、彼は扉を見つめたままいすに腰掛ける。間もおかず、扉が軽くたたかれた。

「来たか」

 しかし、答えたのは彼の妻であった。静かに扉を開き、なよやかな彼女が入って来た。頭に深いベールを被り、顔は分からない。薄い黄緑の長衣を身にまとっている。シアンが赤いタペストリーの前に立ち、それについて何か言おうとしている。モアズールはその言葉に耳を傾けはするが、その前に立つ彼女の姿に目を見張る。遠くかすんだデジャヴと重なった気がした。彼は、それが彼女の服の色と関係があるような気がし、心をかすめたその感覚を、例えば、彼女の服の色は黄緑よりも赤が似合う、という風に解した。

「このタペストリーはわたくしが織ったものなのでございますわ」

「赤い服を着てみないか」

 シアンはタペストリーから目を離し、モアズールを見つめた。

「はい?」

「赤い服だ」

「この服は似合ってはおりませんか?」

 モアズールはあごに手を当てた。似合わくもない。百合や水仙めいてほっそりとしたシアンにはよく似合っていると思う。しかし、背後の赤いタペストリーが、脅迫的に目前に迫ってくる。

「そんなことはないが……」

 夫の困惑する顔を見て、シアンは即座に答える。

「すぐに着替えますわ」

 従順な妻は会釈すると、部屋を出て行った。おそらく、夕餉の席までには、シアンはモアズールの望むような紅衣の姿で現れることだろう。今から目に浮かぶようであった。

 目前のタペストリーが、壁に不安の傷口のような血ノリを目に飛び散らす。うっとうしく感じたが、取り外させる程もないと思い直す。しかし、明らかに今朝からの弾んだ気持ちは、消沈してしまっていた。赤い色が瞳に映ると、光彩がピリピリと引き攣った。

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