アクアク 結末

「前置きとして、君が間違っていたとか、君が悪いとかそういうわけではない。君に責任はないし誰も君を責めないが、言葉を選ぶならば。そう。結城くんは、急ぎすぎた」


 閉じられた本、終章付近で挟んだとみられる栞に結ばれたリボンが風に揺れるのをじっと見て、八田は言った。

 少々言い回しが回りくどい気もするが、しかし、そういう言い方しかできないだろうと俺も思う。俺自身、今回自らを省みて悔いるような部分はなかったけれど、反省するべき点があるとするなら、そこだろう。

 急ぎすぎた。解決までの道筋を、短絡的に考えてしまったということ。


「正常な人間は『1』。掛詞を掛けられて異常な数値になってしまったなら、その掛詞の逆を掛けてやる、つまり割ってやることで、正常に戻せる。算数的な考え方で紐解ける。前回、そう八田さんに言われたから、俺はその通り実行しようとしました」

「『悪』の反対は、『善』。善い心をもって、優しく接してやれば、彼女の悪を打ち消せる。そう考えたわけだね」

「はい。二ノ瀬の時、『呪』を『祝』で打ち消したように」

「結果として、今回、私のアドバイスというか、教えは、全く役に立たなかったな」


 彼女の嘘や隠し事がなんであれ、彼女の掛詞の呪いが悪夢であれ悪意であれ、それが『悪』である以上、『善』をぶつける事が最も効果的である。それが俺の考えだった。

 結果として、それは全くの逆効果。終盤に至っては、俺自身が悪に染められてしまう寸前だったのだから、格好悪いことこの上ない。


「そうですね。急ぎすぎたんだと思います。悪の逆数、対義語は、善であると信じて疑わなかった」

「準くんの時は、『鈍い』と『呪い』が掛けられていたが、悩みの本質は『呪い』の方にあったからな。それの逆数である『祝福』を与えてやるだけでよかったのだが。

 今回、間くんの場合は、掛けられていた『悪』も『』も、どちらも打ち消す言葉をぶつけてやらなければいけなかったわけだ」


 夢見は、幼少期から続く育児放棄と虐待で、ずっと、心の中の満たされない空隙に悩んでいた。

 だから、おびただしい、おぞましい欲を理性で抑え込んでいる大人の男に――悪を振りまき、悪事を起こさせ、自らも開き直って露悪的になってしまったのだろう。


「日本語というのは難しいな」

「……この場合、難しいのは日本語ではなく、道徳ではないでしょうか」

「どうだろうか。道徳以前に、彼女を取り巻く環境が、周りの大人が、ほんの少しでも常識を、理性を持ち合わせていたならこうはならなかったろう」

「道徳以前に、ですか。俺は、道徳ってのは、常識よりも先に来るものだと思いますけど」

「それも間違いではないよ。物事の善悪を判断する時に、常識的な観点から判断するか、道徳的な観点から判断するか。どちらを優先するのかなんてことは、その人次第だ。どちらを先にするのか、どちらが優先されるべきかなんてのは、論じるだけ無駄なことなのだろう」


 夢見は、人の悪感情をコントロールする力……彼女の言う、『悪魔様』を身につけたのは、かなり最近のことだと言っていた。

 ならば、それよりも前に、夢見と関係を持った男たちは、自らの『悪』を、道徳よりも常識よりも、或いは常識よりも道徳よりも、優先させたということになる。

 夢見の両親だって、どんなに愚かでも、虐待が悪いことだということくらいは知っていただろう。それでも彼らは、道徳と常識をすり抜けて、それをしてしまった。

 いや、してしまった、だなんて。まるでそれが過失であるかのような言い草だ。彼らは虐待という立派な犯罪を、自分たちの娘の心を殺す行為をした。

 一度でもそうやって理性のフィルターを突き抜けてしまうと、二回目以降、悪を成すハードルはどんどん下がる。

 最後に、夢見は彼女の周りを悪に染めていったが、間違いなく、彼女を最初の悪に走らせ、彼女を悪の色に染めていったのは……彼女を取り巻く環境だったのだ。


「まぁでも、だからか――」


 八田は、納得したようにひとつ頷いた。


「今回、準くんの『正義』が、彼女の『アク』を解いたのは」


 それを聞いて、俺は自嘲すると同時に、自分の彼女を誇らしく思う。

 俺が偽物の『善』に囚われている間も、彼女はずっと、夢見と接する接しないに関係なく、生まれてから今まで、揺るぎない本物の『正義』を持ち続けてきたのだ。

 彼女に安い同情をして、悪が徐々に善に変わっていくのを期待していた俺と違い、二ノ瀬は、夢見の行き過ぎた悪を真っ向から否定し、叱った。


 夢見に本当に必要だったのは、悪を悪だと叱ってくれる、正義だった。


 二ノ瀬は正義を示すことで、彼女の『悪』を打ち消すばかりでなく、彼女がいつも心に抱いていた心の『空き』すらも満たしてみせた。


「『正義の反対は、また別の正義である』……誰が最初に発したのかは知らないが、こんな言葉があったな。要は、悪の反対も、また別の悪なのだろう」

「…………」

「もちろん、君が悪だと言っているわけではない。ただ、間くんからすれば、善意で掛詞を解呪しようとする君たちは、甘美な現状を破壊する『悪』に他ならなかったろう。その点で言えば、筋の通った準くんの正義ですら、正義とは言えなくなる。

 ようは、視点の違いだ。絶対的な善も、絶対的な悪も、絶対的な正義もこの世には存在しない。重要なのは、自分の価値観にどれだけ誠実であるか。それに尽きるのではないだろうか」


 人の心なんてものは、難しいという尺度で測りきれないほどに、永遠に読みとけやしないんだろう。

 道徳は、それ以上に。

 ただひとつ確かなこととして……夢見の『悪』の対義語は、『善』ではなく、『正義』だったのだ。


「答え合わせも終わったことだ。暗くなってきた、君も早く帰りたまえ」

「はい。ありがとうございました、八田さん」


 相変わらずこれ以上の重ね着もこれ以下の着崩しもする気配のない、ワインレッドのジャケットをはためかせて、八田は鳥居をくぐって帰っていく。

 俺も帰るかとカバンを自転車のカゴに乗せ、サドルに跨ったところで、鳥居の真下で立ち止まった八田が声を飛ばしてきた。


「一度目に言ったのとは意味合いが違うが」

「はい?」

「もし、またこの町に彼女が戻ってきたら、君と準くんとで、交流を深めてやってほしい」

「……はい。言われなくても」


 二度とアクに支配されないように、出来る限りのことをするつもりだ。

 廃神社の奥へと姿を消す八田の背中を見送って、俺はペダルを踏んだ。



「私のお父さんの友達に、弁護士の人がいてね。9月から、話を進めてくれていたんだけれど」


 俺が買ったたこせんをパリ、と上品に小さく齧って咀嚼し、ゆっくりと飲み込むまでの時間を待って、二ノ瀬は次の言葉を紡ぐ。


「もう大体の目処は立ったから、あとは自分たち大人に任せてくれって言ってくれたわ。スムーズに事が進めば今月中には、夢見ちゃんは他の親族か施設に引き取られるって」


 俺が買った缶ジュース、俺が買ったたこ焼き。連鎖するように二ノ瀬は一口ずつ、次から次へと口に運ぶ。

 文化祭初日。ピロティに設置された美術部オブジェ展示スペース兼休憩スペースにて、2人、とりどりの屋台メシが並べられた丸い机に相対して座る。

 焼きそば、チョコバナナ、イカ焼き、エトセトラエトセトラ……。そのどれもが俺の財布の小銭が転生したものであるが、そのどれもが俺のものではない。

 俺の本日唯一の昼飯、片手で持てるちゃちなクレープをむしり食いながら、自分の彼女が美味そうに祭の美食を楽しむ景色を眺める。


「詳しいことはよく分からないけれど、きっと夢見ちゃんは、これから、普通の中学生として真っ当な暮らしを送れるはずよ。いつか必ず、嘘も悪もない、満たされた笑顔を見せてくれるわ」

「太るぞ」


 机から身を乗り出して、顔面を垂直に殴られた。何の形容も注釈もつける余地のない、純粋な暴力だった。


「あーあ、危ないわよ結城。あまり図に乗ったことを言うと、いつどこからこれが飛んでくるか分からないわよ」

「いつはともかく、どこからかってのは間違いなくお前の腕からだろ。あと普通ビンタとかじゃないの、こういう時の暴力って」

「あなた、この文化祭が『みそぎ』だっていうこと、ちゃんと理解出来てる?」


 禊、というのはまぁ、こないだの夢見とのアレのことだろう。あれは不可抗力みたいなもんだろうと抗議したいところだが、実際二ノ瀬は掛詞に操られなかったので、何も言えない。

 夢見のアクの掛詞を解呪するのに成功した俺たちは、その後、途端に気を失ってしまった2人の男から逃げる形ですぐにその場を去った。

 串原南中学の教師をはじめ、彼女のアクによって操られていた人間がその間のことを覚えていなかったことは、幸いと言っていいのだろうか。

 俺自身はそれきり会っていないのだが、その夜、夢見は二ノ瀬の家に泊まって、これからの事を話したらしい。


「夢見ちゃん、学校の先生になりたいんだって。自分みたいな、親に恵まれない子供の力になりたいって」


 それを聞いて、俺は言葉を返せなかった。

 その夢はとても立派で、尊いものだが、その夢を形作ったのが何なのかということを考えると、胸の奥に、吐き出せないような濁った雫が溜まっていくのを感じてしまう。


「……頑張ってほしいな」

「そうね」


 そんな俺の気持ちを、どこまで読み取ったか、二ノ瀬はひとつ頷いてジュースを啜る。


「夢見ちゃんは、あの時、アクの掛詞で操ることができなかった人間なんて、これまで1人も……って言っていたけれど。確実に、私の他にもう1人いたじゃない?」

「夢見の友達の……あの子か」


 名前も知らない、夢見の友達を名乗ったあの少女は、今どうしているのだろう。

 アクから解放されて涙を流しながら、夢見は「謝らなきゃ」と何度も繰り返していた。この町を本格的に離れてしまう前に、夢見は、彼女に謝ることができるだろうか。

 今、夢見は、町の児童相談所で一時保護を受けているらしい。他の親族に引き取られる場合も、施設に行く場合も、いずれにせよこの町からだいぶ離れてしまうはずだ。それまでに、もう一度会えればいいのだが。


「自分のことを心配して、夜の町で、高校生を相手にあんなにキッパリと自分の意見を主張できる、正義感の強い友達がいるんだもの。両親は最低最悪だったかもしれないけど、これから先、どんな道に進んでも、きっと彼女は周りの人に恵まれて、幸せに日々を過ごせるはずよ」

「……そうだな」

「ええ。そうでしょう?」


 念を押すように、二ノ瀬は何度も頷いた。

 今日の六灯高校は、ただ祭りだからというわけではない、ただならぬ熱を帯びている。

 境遇から、性格から、あまり熱心に携わることができなかった俺たちは、自業自得だということは分かりつつも爪弾きにされたような気分で、そんな校舎を眺めていた。


「さて。そろそろ2つ目の禊を始めない?」

「え?」


 顔を青く染め、急いで財布の中身を確認しようとする俺に、二ノ瀬は薄く笑う。


「さすがにもう今日はこれ以上買い食いする気はないわよ」


 空になったジュースの缶が、風に煽られて、机の端から落ちそうになる。それをすんでのところでキャッチして、二ノ瀬は缶がわずかに変形するくらいの力を込めて握りしめる。


「……これは、私の禊でもあるわね」

「お前の?」

「結城が、夢見ちゃんのアクに操られた時。信じているはずなのに、これは掛詞の能力で操られているだけだと頭では分かっているのに――不安になってしまった。あなたを信じきれなかった、私の禊」

「それは仕方ないだろう。不可抗力とはいえ、操られてしまった俺がいちばん悪いし、逆の立場だったとしても……」


 逆の立場だったとしても、の、その先を言おうとして、言えなかった。

 お前を信じられなかったかもしれない、という言葉を、口に出してしまうと、いざ本当に今回と似た状況が訪れた時に、本当に信じられなくなってしまうのではないか。そんな臆病が、口を閉じさせた。

 二ノ瀬が、まっすぐ俺を見る。


「私たちは、お互い、まだ知らないことが多すぎる」

「…………」


「単刀直入に言うわね。そろそろ、あなたの『ヨル』の掛詞について、話して欲しい」


 まっすぐ、2秒。二ノ瀬の瞳と正面から向き合って見つめ合い、耐えきれなくなって、逃げるように天を仰ぐ。

 お祭り日和の晴天。うららかな日差しは、その瞬間だけ、目を刺し貫いて脳髄を焦がすように、鋭利な輝きを見せた。

 そのまま、考えて、考えて……たっぷり1分間はそのまま。俺は、黙って待ってくれている二ノ瀬に、最も誠実な答えを返すための思考を終えた。


「今夜、暇か?」

「できたら、今話して欲しい」

「……本当に、嫌な話なんだ。こんなに楽しい、彼女と回る祭の時間には、絶対に話したくない」

「分かった。今夜、必ずね」


 これが最後の先延ばしだ。

 話すと約束もしたし、いつか隠し通せなくなる日が来ることは分かっていたけれど、その隠し事のせいで不安をかけているのなら、話さないわけにはいかない。

 高い空を飛ぶ飛行機が、大きな影を落とす。


「たこ焼き、食べる?」


 素敵な彼女に感謝して、俺は、たこ焼きの刺さった爪楊枝を受け取った。


「ありがとう」

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掛詞《カケコトバ》シリーズ OOP(場違い) @bachigai

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