はじまりは、あの笑顔から。

「サンゼロ・ポリプロピレン」

「クーパー」

 まずは出血部の、血管結紮けっさつは終わった。


 血圧戻りました。

 バイタル安定しています。


「ようしわかった、それじゃすぐにオペ室に移動だ」

 交通事故で搬送されてきた、患者の応急処置を施し。オペ室にて本格的に治療にあたる。

 救命での処置は、あくまでも一時しのぎだ。


 例え別の疾患がその時発見されたとしても、緊急を要さなければ深追いはしない。


 事故に遭い、搬送されてくるまでの時間。その状況は刻一刻と変化する。

 命をつなぎ止めるには、その素早い処置がものをいう。

 現場での処置、そして搬送されてきてからの処置。その後、損傷部の修復オペを行う。


 患者にとって2度3度と、オペを行うことは体への負担が大きいことは、言うまでもない。

 しかし、今、つなぎとめることのできることを、最優先に行うのが救命医師としての務めだ。


 だが、そのつなぎとめられる命を助けることが出来ないことも、多々あることも確かなことだ。

 どんなに迅速に、そして的確に処置をしても、助からない命。

 そこでその人生を、終えなければならない人の命。


 もう10分、いや、もう5分早ければ、助かったかもしれない命も、その運命には逆らえない。その分岐点を示すのは、神という存在だけが知るのかもしれない。




 いつものフロアで、熱いコーヒをソファーに、体を沈め飲む。

 城環越に来てから、俺の日課のようになっている。

 ガラス張りの、フロアにガラスのドア。

 ここからは外に映し出される、街並みの情景が良く見える。


 陽が傾き始め、空が淡いオレンジ色を放ち始め、街並みの光がともしびを点けようとする時刻。

 医師としての勤務時間は不規則だ。一応シフト言うものはあるが、まずほとんどそのシフト通りにいくわけはない。

 延べ200時間を超える勤務時間。それにプラス残業と呼べるのかどうかもわからない勤務……。月にすれば300時間は、仕事に従事しているようなものだ。


 患者が搬送されれば、神経を極限まで集中させ、処置にあたる。

 体力的にも、そして精神的にも、過酷な労働……。それが勤務医として与えられた世界だ。


 俺はもう、この過酷ともいえる世界にもうすでに、15年以上もいる。

 そしてそれが、今の俺にとっては、普通であり日常である。

 くれゆく街並みを眺めながら、コーヒーを口に含み、一時の休息感を味わう。


 その時、後ろのガラス戸が開き。


「やっぱりここに居た。た・な・べ先生」


 その声に振り向けば、白衣姿の秋島まどかの姿があった。


「おや、秋島先生はまだ、お仕事なさっておられるんですか?」

「んもう、嫌みの様に言わないでよ。フェローはまだまだ、仕事が山済みなんですからね。どっかのお偉い先生たちとは違いますので」


「フェローねぇ……。まどかちゃんもれっきとした、医師としての道を歩む一歩を、踏み出しているんだと感じるよ。その言葉から……」

「あら、嫌み臭いけど、誉め言葉として受けさせていただきますわ。た・な・べ総合外科部長様」


「やめろよ、そんなお偉い肩書じゃないんだから。それよりまどかちゃんの方は、どうなんだい」

「私の方は、ほら精神内科だから、来る患者さんはほとんどがお年寄りばかり。毎日世間話して終わっちゃってる。若いイケメンの患者さんでも、来てくれないかなって狙ってるけどほんと。ほんと! 来ないわよね」


「まどかちゃん……。いや秋島先生は、ハードルが高いからなぁ」

「そ、物凄くハードルが高いの。だって田辺光一っていう、素敵な人に昔、恋をしてしまいましたからね」


「それはそれは、大変ですね。でもその田辺光一って偶然ですね。同姓同名だね」

 少し、はにかみながら返す。

「全くです。ほんと同姓同名なのに、どうしてこんな人に恋をしてしまったんでしょうね」


「まどかちゃん。なんか変だよ」


「はいはい、私はどうせ変ですよ。それより奥様の方は順調ですか? もう時期ですよね」

「ああ、おかげさまでね。母子ともに健康そのもの順調だよ」


「でも双子とは恐れ入ったわ。私なんかとても持ちそうにもないわ、最もりっちゃんなら、どんとこいっていう感じでしょうけどね」

「女性ってすごいよね。母親になるってわかってから、あのか弱そうな理都子がもう今じゃどこからからどう見ても、母親だって、どっしりと構えているんだからね」


「そうよ、女はね男より強いの。そして母親はもっと強くならないといけないの。自分が生む、我が子を育てなければいけないから」

「我が子ねぇ……」

「何よ!」


「いや、俺のおふくろもそうだったのかなぁってさ。俺を生まなきゃ、もしかしたらもっと別な人生を歩んで、幸せな人生で長生き出来ていたのかもしれない。最近そんなことを思う時があるんだよ」


「しっかりしろ、田辺光一! 貴方は二人の子の親になるんでしょ。そしてどんなに外見は強そうにしていても、あなたが傍にいてくれるから、りっちゃんも安心して母親になれるのよ。貴方のお母さんは、一人であなたを育てた。でも、それはあなたがいたから生きてこられたんだと思う。もし、貴方がいなかったら、貴方のお母さんは、もっと悲しい思いをした人生を送っていたかもしれないのよ」


『だからあなたに最後……。持てる限りの、笑顔を残したんだと思う』


「それがあなたのお母さんからの、その時出来る最大の恩返しだったかもしれない……。それに今、貴方がそんなに不安になってどうするの?」


「さすがだね。心理を鋭く突いてるよ。確かにそうなのかもしれない。子供が出来て生まれるのは本当にうれしい。そしてものすごく待ち遠しい。でも……なんだろう、正直不安という言葉が、適切なのかはわからないが。ほんとうに大丈夫なのだろうか、これから先ほんとうに、やっていけるのだろうか。子供たちに幸せな人生を歩ませてあげれるのか……。自分が片親だったせいかもしれないが」


 秋島まどかは、そっと俺の後ろ肩から手をまわし。


「わかるよ。あの時、私が心臓移植を受ける前の私。あの頃の不安は、私は忘れない。いいえ、忘れようにも、この体に染みついている。そして新たに鼓動する、この心臓の音を聞くと『生きているんだ』って実感するの。私が不安になっていると、この心臓の意味がなくなっちゃうんだと思うようになった。だから不安でも、私は前に進まんきゃ行けないの。諦めんな! っていうのとは、ちょっと違うんだけどね。不安だって言えばその言葉だらけよ。でも前に進まなきゃ……ね」


 彼女は俺の頬に、軽くキスをして

「それじゃ」と言いこのルームを後にした。


 励まされてしまったな……。

 だんだんとまどかちゃん……まゆみに似てきたな。


 苦笑いをして、最後カップに残ったコーヒーを飲み干した。


 あれから5年……。おふくろの墓石の前で理都子に、本当の気持ちを告げてからもう5年になる。

 翌年、俺たちは常見教授に仲人をお願いし、結婚した。


 俺たち二人……。いや、正確には理都子とまゆみ、そして俺の3人の結婚式だった。

 まゆみの存在は、俺と理都子の心の中にそっとしまい。理都子と共にお互いに、まゆみの想いを、そして願いを叶えようと思っている。


 青いノートの最後に書かれていた。


「光一に最高の笑顔を届けられるように……」


 まゆみの願い。そしてまゆみの約束。


 もう一度俺が笑える日が来ることを願い。そして自分がなしえなかった、二人の想いの命が、再びこの世で羽ばたけるよう。

 新たな命を再び、この世にそして命をつなぐ。


 俺は外科医には向いていない。


 救命医など、一番不向きな職業かもしれない。

 されど、俺には人を思いやる心がある。


 まゆみはそう言っていた。


 優しすぎることは罪ではないだけど、外科医としては不向きだ。

 それでも、あなたは立派な外科医になれる。


 もしかしたら、まゆみという存在は、もともといなかったのかもしれない。

 俺がもし生まれてこなければと思ったように……。


 まゆみはお袋が残してくれた、あの最高の笑顔が呼び起こさせた。俺の幻だったのかもしれない。

 もし、そうなら……。今はそれでもいい。


 石見下まゆみ。


 彼女は俺が作りあげた幻想の女性……。


 されど、実際に彼女は存在し、この俺を愛してくれた。

 才能あふれた。最高の外科女医。


 俺は心の底から、彼女を愛し尊敬をしている。


 そう……。


 彼女との出会いは。


 一つの『笑顔』から始まったのだから。

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