秋島まどか EP1 閉ざされた病室の中で。

 拡張型心筋症かくちょうがたしんきんしょう(DCM)


 心臓は人間の身体の中で、重要な役割を果たしている臓器。

 いや、人の身体の中でいらない。必要とされていない臓器は一つもない。


 全てにおいて、その役割と意味があり。生涯という時を形成するために必要だ。

 その中でも心臓は、体内に血液を送り出す臓器。言わばポンプとしての役割をしている。


 構造は至ってシンプルだ。

 いや、シンプルという表現は、使うべきではないだろう。


 構造は単純であるが、その単純な構造こそが、人体に於いては完結された機能と形であるからだ。


 基本は4つの部屋からなる。

 全身から流れる血液は静脈を通り、右心房へ入り左心室へ送り込まれる。

 その右心房と、左心室の境界にあるのが三尖弁さんせんべんという弁。


 そして血液は、肺動脈を通り肺に送られる。

 その後、肺静脈から血液は再び、心臓へと戻される。


 戻された血液は左心室に入り、左心房から大動脈を通り、全身へと循環する。

 左心室と、左心房の弁になるのが、僧帽弁そうぼうべんという弁だ。これらの弁により、血液は逆流されず、心臓の収縮に伴い血液が循環される。


 拡張型心筋症は、主に左心房の心筋に多くみられる。

 原因は、何らかの要因により心筋が肥大化し、心筋が伸び収縮力が低下することにより起こる症状。




 三尖弁閉鎖不全症さんせんべんへいさふぜんしょう


 三尖弁は、右心房と右心室の境界の弁。この弁が正常に閉じなくなると、右心房と右心室の血液が逆流をし、十分に肺へ血液を送り出す事ができなくなる。


 軽度のものであれば、要観察などの経過観察をするが、この逆流が重度である場合は、弁の修復術や人工弁への変換と言った、術式を行わなければならない。


 秋島まどかは生まれながら、この三尖弁に異常があった。

 彼女の症状が悪化したのは、中学一年の時。


 定期検査の時に不整脈が重度化した波形で現れた。その時点ですでに、彼女の心臓は限界を超えていた。


 負担をしいられた心臓は、三尖弁閉鎖不全症のまま、拡張型心筋症へと併発した。


 それ以後彼女、秋島まどかはずっとこの病院から。いやこの病室から出ることは、無くなった。


 彼女を初めて見た時。

 俺はふと、お袋が病室のベッドで過ごしていたあの頃の姿を思い出した。


 死を迎え入れた顔。

 彼女を見た時、感じた事だ。お袋も同じ顔をしていた。


 すでに自分はもう助からない。自分は死を待つだけ……。

 それを理解し、自分自身その事を受け入れた表情。

 秋島まどかは、そんな印象を俺にぶつけて来た。


「ようやく来た」

 彼女はその澄み切った迷いのない瞳で、俺を見つめながら言った。


「ようやくって?」

「田辺先生、この病院に来てもう3週間目。ま、私の担当じゃないから、この病室に来ることもないけど。気になって、そのドア開けてのぞきに来ないかなぁって、待ってたの」


「のぞきにって……さ。さすがに俺は、いや、僕はそんな事……」

 しないと、言いたかったが実際、佐々木さんに言われるまで、気にも留める暇もなかったと言うのが本当の理由。しかし、少なからずも、気に留めておくべきだったのかもしれない。


「はははは」

「思った通り、やっぱり田辺先生って、からかうと面白そうていうの当たってたわ」


「まどかちゃん、もうそれくらいにしてあげなさい」

 一緒にいる三浦医師が、彼女を少したしなめた。


「はぁーい」


 ため息にも、感じられるような返事。

 それでも彼女の瞳は、ずっと俺の姿を映し出している。


「これから田辺先にも、まどかちゃんの担当になってもらうから、まどかちゃんもちゃんと、田辺先生の言うことを聞いてくださいね」


 三浦医師が、秋島まどかに俺を紹介する。

 しかし、彼女はうなずきもぜず、黙って俺を見つめている。


「これからよろしくお願いします」

 俺は彼女にそう言って、この部屋を出ようとした。


「ねぇ、田辺先生」


「ん、なんですか?」

「田辺先生ってもう結婚してるの?」


「いや、独身ですけど」

「そっかぁ、じゃぁ恋人とかいるの?」


「………恋人、ですか………??」

 隣にいた三浦医師が、少し怪訝そうな顔をしたが。


「僕の恋人は………亡くなりました。事故で……」

「………そう」

 彼女は小さくつぶやく。


「なんだか田辺先生って、私と同じような感じが少ししたから、変なこと聞いてごめんなさい」

「いや、いいんですよ。事実ですから……」


 三浦医師もこの会話を聞いて、まずいと感じたのだろうか「それじゃ、また来ますから」と言って、この特別室の病室のドアを開け出た。俺もそのあとについて行く。


 廊下で三浦医師が。


「すみません田辺先生。お話は私もうかがっていましたので、お辛いことを思い起こされてしまいまして」

「いや、大丈夫ですよ」


 確かに少し胸に何かが刺さるような、重い感じがしたのは確かだったが、軽く流すように答えた。

 医局に戻り、三浦医師はソファに座り、俺にもその向かいに座るように勧めた。

 そして、一冊のファイルをテーブルに静かにおく。


「これが秋島まどかのカルテです」

 目を沈み込ませながら、静かに告げる。

「見させていただいても、よろしいですか?」


「ええ、もちろん」

 そのカルテを開き、中を見渡す。


 そのカルテの厚さは、一般の患者のカルテよりもはるかに分厚い。

 先天性の三尖弁閉鎖不全症さんせんべんへいさふぜんしょうそして拡張型心筋症かくちょうがたしんきんしょうの記載……。


「こ、これは、本当ですか?」

「ええ、事実です。彼女の心臓はもう限界を迎えている。いや、もうすでに限界を超えている状態です」

 カルテには三回にわたる心臓カテーテルの術式の記載があった。


「どうしてこんな状態なのに、もっと設備の整ったところで治療をされないんですか」覆わず口に出してしまった。


「確かに大学病院にいたあなたなら、すぐにそう感じるでしょう。でも、たとえ最新最高準の設備のある大学病院にいたとしても、彼女の病状は変わらない。今、彼女が助かる唯一の方法は」


「……心臓移植」


 三浦医師は深く息を吸い「それしか方法がないんです」と答えた。


「それにしても、現状この病院にいるよりも、大学病院に転院された方がまだ、安心はできるんのではないでしょうか?」


 三浦医師は「んっ」と漏らし。

「実は、彼女秋島まどかは私の姪にあたるんです。そしてこの病院の病院長松村の実の娘なんです。苗字が秋島なのは彼女が、母方の姓を名乗っているからです」


 それ以上のことは、立ち入るべきではないと思い口をつぐんだ。


「彼女は自分の病状のことは」

「ええ、知っています。それにこの病院にいることを望んだのは、彼女自身なんですよ」


 自分の病気の状態を知り、もう自分に残された時間も、あとわずかしかないことをすべて受け入れて、なおも自分の父親がいるこの病院にいることを望んだ。

 つまり彼女は、何もかも全てを自分で背負い、その使命を自ら受け止めているというのか。


「まどかの今の移植ネットワークドナーの順位は、3位の位置。たとえ今、移植ネットワークにドナー提供があったにせよ、すぐにまどかに心臓が来るわけでもない。まして……、たとえ運よく心臓が提供されたとしても、その時まどかの状態が悪ければ移植は不可能になる。あと、まどかに残された時間は1年あるかないか……。こればかりは、たとえどんなに優れた設備があり、優れた外科医が存在していてもどうにもならないんです」


 どんなに優れた外科医がいても。………どうにもならない。


 あの時、まゆみが搬送された状態が脳裏をかすめる。そして、まゆみの心臓から感じるストーン反射の感覚。


 あの感覚はこの手に今も刻まれている。


「田辺先生って、私と同じ感じがしたから……」


 病室で、秋島まどかが言った言葉。

 そして俺が彼女の姿を見て感じた「お袋が病室にいた時のあの表情」



 ふと、いやな悪い予感が俺の体をすり抜けるように。



 ………通り抜けた。





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