心の創傷

 石見下理都子いわみしたりつこ、彼女とは北部医科大学で6年間共に、大学生活を送っていた仲だった。当時俺は彼女の姉『石見下まゆみ』と付き合っていた。



 理都子とは同期だったが、まゆみは俺らより5歳上。少し年の離れた恋人だった。

 だが、彼女からは、そんな年の差を感じさせる雰囲気は、何も感じさせなかった。


 優しくそして明るく、誰とでも分け隔てなく、話をする気さくな性格。

 おまけに学内上位クラスの美人才女だった。


 もちろん学内での人気は高く、教授からも一目置かれていた存在であるのは、言うまでもない。

 そしてその姉を追うかのように、理都子もまた学内においては成績上位の才女だった。


 だが彼女は姉とは違い、あまり人とは関わらないタイプの女性だった。


 そう理都子は常に姉の後を追い、いつか姉のまゆみを超す事が目標であり。……はっきりとは感じていたわけではないが、何かしら、姉のまゆみに対し、敵意? とでもいうのだろうか。そんな感情を垣間見ることもったのは事実だ。


「意外といい所に住んでいたのね」


「意外は余計じゃないのか。ただ広いだけで、なにもない部屋だ」


「それでも男所帯にしては片付いているわよ。変だなぁ。やっぱり女囲んでいるんでしょう!」

「だといいんだけどな」

 苦笑いをしながら。

「ただ帰っていないだけだ。散らかりようがないだろう」


 そんな事を言いながらふと理都子の顔を見ると、学生時代の頃を思い出してしまった。


 思わず。


「そう言えば、学生の頃よく俺のアパートにも来ていたよな」


「そうそう、あのおんぼろアパート。エアコンも無くて、窓開けると蚊が入ってきて大変だった。良くあんなところに住んでいられたわよね」


 理都子は懐かしそうに言う。


「何もそこまで言わなくてもいいだろ。あの頃は寝泊りが出来れば、それでよかったんだからな。……ビールでいいだろ」


「ええ、ありがとう」


 彼女にビールを渡し、プルタブを開け、ごくりとビールをのどに流し込む。

 やはりその様は、おやじ化している。


 さて、この後の会話が頭に浮かんで来ない。


 理都子は城環越の事を知りたいといい、この俺の部屋に来た。

 このまま、今の会話を流していれば、必ずまゆみの事に触れなければいけなくなる。


 出来れば俺はまゆみの話題から逃れたい。

 このまま昔の話はしたくはない……。だがそれは避けられない事なのかもしれない。


 無理にでも話題を変えたかった。


「あの硬膜下血腫の子、助かって良かったな」


 理都子はふと顔を上げ。


「まだ予断は許さないわよ。意識が戻らなければ、それは植物状態を意味しているわ。例え意識が戻ったにせよ、あの子にはこれから重度の障害が一生のしかかる」


 彼女は曇った表情で言う。


「もう野球をする事は……出来ないわ」

「……そうか」


 しばらくの間二人は黙り込んだ。ガランとした空間を包み込む空気。

 理都子をここに連れて来たのは、失敗だったのか……。


 そんな重い空気を破ったのは、理都子からだった。


「どうしてあなたは城環越に移籍したの?」

 理都子がその空気を切り裂く様に言う。


 俺が北部医科大学病院から、城環越医科大学病院に移籍した理由。

 それは……。

 やはり、彼女からまゆみを離す事は出来ない様だ。


 俺が城環越に移籍した理由。


 それは、まゆみを失ったからだ。

 理由はただそれだけだ。


 俺にとってまゆみの存在は、俺の鏡のような存在。そして俺にないものを求られた存在だった。


 総合外科医の道を歩むと決めたその時、まゆみが俺に向かって一言言った。


「貴方は外科医には向かない。まして救命なんて尚の他。優しすぎる貴方の心では絶対に、この孤独感とプレッシャーには勝てない」と。


 外科医は常に、その結果が患者の人生を変貌させてしまう。


 たとえ助かる命であっても、そのタイミングや状況下において大きく変わってしまう。

 俺は今までその生きるチャンスを逃した人々を、この眼の前で見送ってきた。


 俺のこの手の中で、その命の炎が燃え尽きるのを見て、この手で感じ、体験してきた。

 そのたびに思う。


 何故、救えなかったのかと……。


 フェロー時代は、どんなオペにも率先して加わった。一つでも多くの症例を実体験し、この俺の手に沁み込めせ、経験をつぎ込んだ。


 そしていつも俺の前には、まゆみのその姿があった。


 「消さなければいけない命なんてどこにもない」

 まゆみの口癖。


 彼女はいつも俺に向かって言う。


 「どんな状況下にあっても、その命を消すわけにはいかない。例え絶望の淵にあっても、私はその命の炎をまた燃え上がらせたい」


 『いいえそれが私の想い』


 彼女のメスさばき、術技は華麗としか言いようがなかった。

 何度となくまゆみとオペを行った。少しでも近づきたい。それがその時の俺の本音だった。


 むろん理都子も同じ思いでいたはずだ。彼女もまた姉のまゆみの術技を見て、実践してその手に体に叩き込んでいた。


 例え専攻する診療科目が違っていたにせよ、いく先は同じ外科医であるのだから……。


 だがそのまゆみ自身の心と体が、実は崩壊しつつあるのを。……この俺は気が付いてやる事させ出来なかったのだ。


 俺は正直に俺が城環越に移籍した想いを言った。


「俺は、北部にいた頃、まゆみのあの姿にあこがれていた。医師として外科医としてのあのまゆみの姿に。でも、俺は恋人でもある、まゆみの本当の姿を見ることが出来ていなかった。愛する人の本当の姿を俺は見えていなかったんだ」


 それに気が付いたのは、……まゆみの葬式が済んで。もうまゆみはこの俺にほほ笑んでくれることは’ない’ということを、自覚しながらも、受け入れるのを拒絶していたころだ。


 理都子は下を俯きながら俺の話しを訊いていた、両手をしっかりと抑えながら……。


 俺はまゆみの葬式が済んでから、俺の中の何かが崩れていた。

 今まで目標としていたまゆみの姿は、もうこの病院にいはない。


 いや、もうこの世には存在しない。ただの思い出と言う心の中の残像だけが、いつも俺の心中をさまよっていた。


 「そうね、あの時のあなたは、もうすべてを失ったかのように、ただその存在だけが浮遊しているような状態だったもの」


 理都子が静かに言う。


 「そんな時だった。救急搬送されてきた女性、交通事故だった。大動脈破裂、開胸したとたん、体内から血があふれ出て来た」


 それまでの俺は、まゆみを失う前の俺には自信があった。

 どんな症例もこなしてやれる。


 いや、やれると言う自信に満ちていた。


 まゆみに「あなたは外科医には向いていない」と言われたあの言葉を。頭の中からそぎ取るように。


そのぎらついた野心だけが、俺を支えていたのかもしれない。あの時は。

 

 搬送された女性の側胸部を開き、出血した血液を吸引し、出血部を特定したのち側近の血管をクランプ。

 だが出血は止まらなかった。


 俺のほか指導医も、その時立ち会っていた。

 急激に血圧は低下し、心拍は微弱になっていった。

 

 俺はすぐさま心臓に手を添え、心臓マッサージをした。

 その間、指導医は出血部を探そうとしたが。


 ……手を止めた。


 ――――そして。

 

「田辺、もういい」と一言だけ言って、術台から離れて行った。


「どうしてですか? まだ可能性があるじゃないですか。戻ってきてください」


 心マを続けながら俺は、指導医に怒鳴り込んだ。だが、その指導医から帰って来た言葉は、たった一言の言葉は。


「もう無駄だ、無駄な事はしなくてもいい」

 それっきり術衣を脱ぎ処置室を出た。


 もう、俺の手も止まっていた。


 まだ温かい血液にまみれた心臓から、俺は手を離した。


 その時、もし、まゆみがいたら、まゆみだったら助けられたかもしれない。いや、まゆみは諦めなかっただろう。

 まゆみだったら……。


 そんな言葉だけが、その時俺の頭の中を駆け巡っていた。


 そして、その時初めて、もうここには。……まゆみはいないんだと知った。


 目の前に寝ている、その女性を目にしたとき。救えなかった自分に憤りを覚えながら、まゆみが搬送されてきた時の情景がよみがえってきた。



 あの時緊急搬送された。


 赤い血にまみれた……。まゆみの姿を……。


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