第5話 宿る蝶

今日の夕飯は、レバニラ炒めのようで、キッチンに続いているリビングまで、ニラとにんにくの臭いが広がっていた。沙希はここの所、あの日のことを忘れたかのように、表情が明るくなっていた。青菜に塩のようにクタっとして俯きがちだった顔も、今は真っ直ぐあげ、背筋が伸びたような覇気を感じた。沙希の心境にどんな変化があったのか聞きたい俺と、回復を始めた心に水を差すようなことはしたくない気持ちで葛藤していた。

『蓮次、ご飯できるよ』

「レバニラ?」

『そう、元気にならなきゃ』

湯気をあげた料理がテーブルに並んでいた。

『あのね、この前市村さんと会っちゃった』

「えっ?だってスーパーやめちゃったんだろ」

『この前蓮次が中西さんと飲みに行った日なんだけどさ』

飲みには行ったが、すぐに喧嘩になったことは話していない

『友達とイオンの前のファミレスにいったら来ちゃったんだよね』

にんにくの効いたレバニラを口に放り込む。

『誰と来たと思う?店長だよ。あの2人とっくの昔から付き合ってたんだって』

口に入れすぎたご飯を噴出しそうになった。

「はっ?どういうこと?」

『だから、店長が私を贔屓にしたとか、市村さんに厳しいとは全部カモフラで他の人たちにばれないようにしてたんだって』

「本人たちと話したの?」

『うん、向こうから寄ってきて、何か誤解させちゃってごめんなさいって謝ってきたの。友達が居たから、向こうの席に移って話を聞いたんだけどね。なんかスーパーの時と違って2人とも凄く穏やかでさ。結局友達も一緒に4人でご飯食べたの』

「じゃあ、市村が依頼したってことはない?」

『うん、多分・・・ううん、絶対ないと思った。何かあんな人だったら、逆に仲良くしとけば良かったってちょっと後悔したもん』

「そうか」

それじゃ容疑者は1人消えたなと言いたかったが、他の候補がいないのに、じゃあ誰だろうと一緒に悩むことは、沙希の気持ちを振り出しに戻す気がして、薄めの味噌汁と飲み込んだ。


 俺は、沙希が風呂に入るとPCを立ち上げ、『キョウチョウ様』と検索した。300件もヒットしたことに驚いた。そこには、公園であったクシャクシャ頭が言っていたことや、実行班の猿に対する御礼。今度は誰を依頼しようか相談しているやりとり。その手口を攻略紛いに綴った解説文など様々だった。だが犯人を特定できるような書き込みはなかった。

『珍しいじゃん、PC見るなんて』

濡れた髪をバスタオルで拭きながら沙希が来た。俺は予め開いてあった会社のエクセルをクリック。

「明日提出しなきゃいけないのがあってね」

「ふ~ん」

沙希は昔から仕事の話は興味を持たない。案の上踵を返して冷蔵庫に向かった。

『ねえ、蓮次』

「何?」

濃い味のレバニラで喉が渇いた俺は、沙希の飲んでいるお茶を横取りに立った。

『まだ、分かんないけど、来ないんだよね』

冷たいカップを沙希から受け取る。

「何が?」

喉に冷たさが広がる。

『生理』

喉が一気に熱くなる。

「生理が来ないってこと?」

脳天からが出た声の高さだった。

『赤ちゃん出来たみたい』

「だ!」

誰の?と言いかけたが、咄嗟に飲み込んだ。

『今、誰のって言おうとしたでしょ!』

「言わないよ」

『私もちゃんと計算したんだから、先月の排卵の日が25日だから、うんちょうど』

25日・・・あの事件は26日、俺は思い出した。確かに、あの事件の前夜そういうことをした。

そうだ、給料日だからって2人で飲みに行って、帰ってきてからも缶チューハイで乾杯して、その後。

「そっそうか」

俺は引き攣った笑みを浮かべた。

『嬉しくなさそ・・・・仕方ないけどね』

沙希は、すっと陰った目をして、また髪を拭きながらドライヤーに行こうとした。

「嬉しいよ。やっとできたか!」

正直俺は演技が下手だった。沙希はそのまま髪を乾かしに行った。

妊娠したなんて報告、本来なら手と手を取り合って喜び、抱擁を交わし「大事にしような」なんて言って、そりゃあ幸せな記念日だと夢みていた俺。だが、あの事件を挟んでの報告は、裁判での逆転敗訴のような、しかも死刑判決のような、残酷な宣言だった。それでも沙希は、子作りに向け、しっかり基礎体温を記していたし、俺に打ち明けたのは自信があったからに違いない。ここのところ沙希から覇気を感じるようになったのも、母親になる覚悟からだったのか。今はそれを信じて心底喜ぶべきなのか、果たして自然にそうできるのか。鼓動が早い、渇いた喉。背を向けた沙希、ドライヤーの騒音、知らない場所に迷い込んだ感覚だった。


  『赤ちゃんできたみたい』  呪いの呪文のようだった。


 結婚して4年、俺は34歳、沙希は30歳。沙希は子供ができることを心底望んでいた。兄弟姉妹がいないこと、早くに母親を亡くしたことで、1人でも多く「家族」が増えることを願っていた。2人でホテルに泊まった結婚式の夜も、

「蓮次、子供は最低3人だからね」

なんて言っていた。だが実際は4年もの間授からず、更に自分が30歳を迎えることを沙希は嘆いていた。

沙希には内緒で、精子に問題がないか診てもらったこともあっだが、正常だと判定された。何もなければ本当に嬉しい、待望の妊娠だった。あんな事さえなければ・・・

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る