第5話 闇の中で

 ディルは外を、市ではなく船の方へ歩いていた。

 ウサギが来る。

 キイスがそんなひねくれた言い方をしたのは、きっとネリアを怯えさせないためなのだろう。

 わざわざペンダントを渡して伝言をしたのも、傍にいた仲間に聞かれないため。決して怪しまれることのないように。

 そうして、自分にだけ伝えようとしてきた。一刻も早く。

 ――ウサギ。赤い目の、ウサギ。それは盗賊集団、赤目の狼を示しているに違いない。

 よくもまあウサギなどと、可愛らしいものに変換してくれたものだと思う。ラレルからの手紙で聞いていなければサッパリ分からなかったかもしれない。まあ、分からなければ分からないで聞きに行くのだが。

 桟橋に着いて船を見上げる。そのまま彼女は、何をするでもなくそこに突っ立っていた。

 ほどなくして、キイスの姿が船の縁に現れた。ディルを見ると軽く手を振り、どうしたんですかと問いかける。

「ちょっと来い」

 不機嫌にディルは応じた。船長側からの呼び出しであれば他の船員たちから余計な詮索を受けることもないので、これはそのためのやりとりだ。

 やけに慎重になっているなと感じるが、話が赤目の狼に関することなら理解できる。

 キイスは船上の仲間たちと幾つか言葉を交わしてから、はしごを下りてきた。

「遅い」

 ぶっきらぼうなディルの言葉に、桟橋に降りた彼は生真面目に応じる。

「申し訳ありません」

「……それで?」

 言いながら、ディルはもう歩き始めている。

「分かりましたか? 伝言の意味」

「ラレルから手紙が来たばかりだ。どうやら奴らに動きがありそうだと」

「ああ、さっきの鳥はそれでか。さすがあの人は、情報が早いですね」

「確かに早いが、あまりアテにはならん。内陸の友人の受け売りだからな」

 人の多い港を、二人はゆっくりと歩いていく。まるで散策でもするかのように。

 そのままさりげなく港の隅の、倉庫の建ち並ぶ一角まで来た。商船の積み荷には遅すぎる今の時間帯は、ここにはあまり人が立ち寄らない。

「赤目の狼は今、キリナ山中にいます。今日中にでも中央街道の終点まで来るとのことです。こちらへ来るか王都方面へ向かうかは分かりませんが」

 人の気配が十分に遠のくと、キイスは唐突に核心に触れた。ディルは足を止め、鋭い眼差しで彼を見返す。

「ここに来るとしたら、いつ頃だ?」

「明日の昼頃と予測されています」

 キイスの声音があくまで静かなのは、そこに僅かな緊張を内包している証拠だ。

 このサヌマ街が赤目の狼に襲われたのは、十数年ほど前のこと。だから二度目はないだろうと思うのは、浅はかだ。奴らの襲撃パターンには予測不可能な部分があり、一度襲った街を十年ほど空けて再び襲う例も報告されている。

 ディルは港の方に視線を滑らせた。警告すべきなのだろうか、という思考が脳裏に浮かぶ。船員たちに、街の皆に、このことを。

「皆に知らせますか?」

 考えを読んだのか、キイスがそう尋ねてくる。ディルは束の間考え、否を告げた。

「どうせ自警団あたりには知らせが行ってるだろう。無用なパニックを避ける為にも、確実にここへ来ると分かるまでは黙っておく方が賢明だ」

 いつ分かるのかと問うと、明日の朝には知らせが来るだろうという答えが返ってきた。遅いな、とディルは眉をひそめたが、仕方ない。

 取り敢えずキイスの情報には信用がおける。何しろそれは、王宮から各地に配属された正規の情報員たちが集めた情報なのだから。キイスは昔一年間だけだが情報員をしていたことがあり、また内陸地方出身者ということで、特に内陸方面の情報員には知り合いが多かったりするのだ。

「念のため、武器の準備をしておけ。さりげなくな」

「……はい」

 曖昧に頷いたキイスに、ディルはくすりと笑う。

「どうした? 気が進まなさそうだな」

「進むはずないでしょう。これから戦争が起こるかもしれないんですから」

 苦笑するような表情を浮かべて答え、彼は踵を返した。

「では、私は船の方に戻りますね」

「ああ」

 武器は船の倉庫の中に入れてある。万が一の場合に備え、すぐに取り出せるようにしておかなければならない。

 彼が戻っていくのを見送りながら、ディルは小さく呟いた。

「戦争……か」


        *         *


 暗い、闇がその場所を包んでいた。

 硬い石造りの床。自分がその上に横になっていることを知る。

 つめたい。

 体のなかから温度が、吸われていくようだった。指の先からじわじわと痺れて、闇の中に溶けていく。

(ここは……?)

 こつ、こつ、と、微かな音が聞こえる。

 硬く、微かな音。静寂のなかに反響する。

 身動きしないまま、耳を澄ませる。胸の奥がざわりとした。冷たいものがひたひたと、押し寄せてくる。

(だれ?)

 この、靴音は。

 ――気をつけなさい。

 誰かの声がする。

 優しく透きとおった声が、子守歌のように、けれどひどく悲しく切なく……。

 ――決して、動いてはなりません。眠っていなさい。たとえ起きていても、眠っているふりをしなさい。

 絶対に、奴らの目にとまってはいけない。声はそう告げる。どんな形でも、奴らの注意を引いてはならないと。

 そうでなければ。

 ――殺されるかも、しれないから。

 悲しい声は静かにそう諭す。

(ころされる……?)

 銃声が響く。

 あたりの景色が変わる。木々に覆われた場所。深い、深い森の中。

 赤い髪の人々がいる。やせ細り、影のように動いている。こちらに数人、あちらにも数人。無言のままで動いている。

 また、銃声。

 ひとり、撃ち抜かれて、倒れる。まるで木の葉が翻るように、かんたんに。赤い血飛沫がちって、若草を染める。

 撃っているのは、二人の兵士。ルルーク族。にやにやと笑いながら。

 動きが遅れたり、手を止めようとした囚人を、見つけては。気紛れに選んで、撃ち殺している。

 ――だから、絶対に……。

 祈るような、かすかな声。

(……だれ?)

 ふと、そう思って。振り返る。

 そこに、赤い髪の女性が立っていた。波打つ豊かな髪、優しい茶色い瞳のひと。

 知っている。

 懐かしい、面影。優しい微笑みの。

(おかあ……)

 呼ぼうとして。唇を動かした……けれど。

 言葉になる前に。

 ふわりと、女性の瞳が閉じた。痩せ細った身体が傾ぐ。膝がくずおれて、赤い髪が宙を泳いだ。

(……え?)

 石造りの、冷たい床の上。

 赤い髪の女性が倒れていた。硬く瞼を閉ざして、眠るように静かに、けれど……。

 そっと、手を伸ばした。肌に触れた。

 つめた、い。

「……あ……」

 闇が、いつのまにかまた、押し寄せてきていた。深い淵のなかに閉ざすように。

 赤い髪の女性は動かない。

 真っ暗な、なかで。ずっと瞳を閉ざしている。

 足音が響いてくる。

 かすかな、足音……あれはルルーク族の兵士。深夜の見回り。息を殺せ。音を立てるな。決して、注意を引いてはならない。

 気紛れに殺されたくないのなら。

 いつのまにか、あたりは完全に闇に閉ざされていた。漆黒の闇。それ以外は、何もない。

 靴音だけが響く。

 規則正しく、響いて。近づく。ゆっくりと、そして……とまる。

「ネリア=エルス=フェリア」

 名が、呼ばれた。



 ネリアはゆっくりと目を開けた。

 暗い、部屋の中。それでもそこは完全な闇ではなく、目を凝らさずともそこに置かれている、彼女の為にディルが用意してくれた机や椅子の輪郭が見て取れた。

「ゆめ……」

 小さな声でそう呟く。

 夢を、見ていた。暗くて冷たい牢獄の、母の死んだ場所の夢。

 そして、死を覚悟したあの時の夢を。

『ネリア=エルス=フェリア』

 蘇る、真夜中に兵士が自分の名を呼んだ瞬間。

 敵の声は冷たく、容赦なく響いた。死ぬんだと思った。恐怖よりももっと冷たいものに支配されて、抗うことも出来ずに鉄の扉をくぐった。

 殺される為に。

(……ちがう……)

 夢の残像を振り払うように、ネリアはかぶりを振る。

 違ったのだと、今の自分は知っている。兵士は自分の兄だった。殺す為ではなく、ただ、助けてくれた。

 大陸へと渡り、自由になる為に。

 ネリアはベットの上に身を起こした。薄いカーテン越しの外は幾分明るくなっている。おそらく日の出が近い時刻だろう。

 ここへ来てから、十日と一日目。

 目を覚ますたびにそうやって数える癖がついていた。そうやって、確実に過ぎていく時を、あの島では気にも留めなかったそれを自分のなかに確かめていた。

 そうしないと、いつの間にかまたあの場所に戻っているような気がして。

 ネリアは手早く服を着替え、肩までの髪を邪魔にならないようにピンで留めた。綺麗な青いガラス石と、それから貝殻のペンダントも、首にかける。

 自室を出ると、兄の部屋に向かう。

 兄はいつも早起きだった。このくらいの時間にはもう起きているだろう。

 案の定、部屋の扉を叩くと中からはすぐに返事があった。

「どうしたんだ? こんなに早く」

 夜明け前の突然の訪問に、ルージアは少し驚いた様子だった。ネリアは普段、日の出と同時くらいに起きている。

 目が覚めちゃったから、とネリアは答えた。

「ねえ、外に行ってきてもいい?」

「外?」

「街、見てみたいの。今ならあんまり人はいっぱいいないし……」

 実は一昨日、二人はディルに連れられて街の中心、正確には市に行っていた。しかしそのあまりの人の多さにネリアはびっくりして、ろくに見もしないで帰ってきていたのだった。

「いいんじゃないか。行ってこいよ」

「……うん」

 ネリアは小さく頷いた。

 扉の前を離れ、玄関へ向かう。数歩で足を止めて、一度だけ振り返った。

「行ってくるね」

「気をつけて」

 いつものように兄の声が、淡々と答えた。



 外は仄暗く、淡い紫色に沈んでいた。

 海に面した道を、何人かの男たちが歩いていた。そろいの制服を着た彼らは船乗りで、おそらく日の出とともにこの港を出ていくのだろう。

 早起きの鳥の声と、居並ぶ船の白い帆。

 ネリアは道を歩きだした。明けかけた空の下、異国の街のなかへと。

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