第3話 空の向こう

 白い日射しがあたりを染め上げている。

 木々を渡る風の音は、あの場所で強く馴染んだそれ。注意を払った事もない筈なのに感覚のどこかが鮮明に覚えている。

『なあ、やってみようぜ』

 言いだしたのは誰だっただろう。

 緑に覆われた島の、葉の大きな背の高い木の下。ここは自分たちの、同時期に兵士となった友人たちのお決まりの遊び場所だった。

 木陰には紅のレトリア草が、鮮やかな大輪の花を咲かせている。とすると、あれは夏の日のことだったか。

『へえ、いいじゃん』

『オレたちもうイチニンマエだもんな!』

『ええー? どうなっても僕知らないよ?』

 口々に騒ぐ、友人たちの声。木にもたれたり、座り込んだりとてんでバラバラな姿勢で、そのうちのひとりが手にしたものをのぞき込んでいる。

 少し離れた場所で自分はそれを眺めていた。

 頭上の木の枝がざわざわと鳴り、白い日射しが視界のなかでちらちらと踊る。時折遠くで響く銃声と、友人たちの声と。それでもそこがひどく静かな場所に思えるのは、熱を帯びた風がもたらすある種の麻痺状態なのかもしれない。

 ふと、友人たちの一人がこちらを振り返った。明るい金茶の髪と青い瞳。ナイフ格闘が得意で、服に邪魔になるくらいたくさんのナイフを吊している。

 おそらくはいちばん仲の良かった少年。

『おまえはどうする?』

 何気ない調子でそう尋ねてきて。

 見つかったら怒られるんじゃないかな、とちらりと思った。彼らの計画していたイタズラは、いつにもまして突拍子のないものだったから。

『なあ、やろうぜ』

 別の少年が言った。どこかせがむような口調だった。

 周囲から距離を置きがちな自分が、そのせいでかえって集団の最終決定権のようなものを持ってしまっている事を思い出した。皆、必ず自分の意思を尋ねてくる。否やを言えば計画は自然消滅してしまうことが多かった。どういうわけか。

 そんな事を考えて、少しおかしくなる。まあいいか、と思った。

『――やるよ。面白そうだし』

 やりぃ、と金茶の髪の少年が笑った。楽しげに。



 波の音が聞こえている。

 暗い部屋の中で、ルージアは横になったままじっと目を開いていた。

 部屋のどこかに時計があるのか、カチコチと音がしている。一定の速度で、一定の音を繰り返す。

 ただ、繰り返す。

 身じろぎひとつせず、ルージアは闇を見つめていた。目を閉じるでも起きあがるでもなく、ただ、ずっと。

 白い光が見える。

 カーテンの裏側から忍び込む淡い光が、既に夜明けの近い事を告げていた。窓の外に遠く、海鳥の甲高い声。

 波の音が聞こえている。

 静かに響くその音は、故郷の島の葉擦れにどこか似ていた。


       *        *


 ここ数日、空は申し分のない青さを見せている。

 そのせいなのかどうかは分からないが、港はやけに活気づいていた。窓を閉めていてさえもその喧噪は洩れ聞こえてくるほどで、ガラス越しの景色のなかでは大勢の人々が忙しそうに動き回っている。

 けれど今まさにサロワ海域で凪が発生しているせいか、出航する船は比較的少ないようだった。いくつもの船が錨を降ろし、のんびりと海の上に停泊している。

 航海日誌から顔を上げ、自室の窓越しにディルはその光景を眺めていた。

「ディルさん!」

 ふいに明るい声が、ディルのことを呼んだ。

 見るとネリアが、彼女が抱えていると妙に大きく見える洗濯籠を運んで、てくてくと歩いてくるところだった。うっかりすると転びそうに見えて、少々危なっかしい。

「おい、大丈夫か?」

「うん! お洗濯もの、ここのお部屋でいい?」

「ああ。ありがとう」

 そう言うと、ネリアは嬉しそうに笑う。

 港で見つけた兄妹を、ディルはしばらくの間、自分の家に置くことにしていた。どうせ凪のせいで航海は延期になったのだし、まあ乗りかかった船というか、殺風景な救護所にいきなり彼らをぶち込むのも可哀想な気がしたのだ。この家はディルの一人暮らしだから、居候が二人増えたところでどうということもない。

 最初は弱っていた彼らだが、幸いすぐに回復し、家の中を動きまわるようになった。ネリアはディルのこなすさまざまな家事に興味を示し、こうして自主的にやってくれたりする。相変わらずスープを出すと怖がるが、それ以外は、好奇心旺盛でかわいらしい。

 本当に……最初の怯え方が嘘のようだ。けれど、これが年齢相応の態度なのだろう。彼女はまだ十歳になったばかりだというのだから。

 ちなみに、その兄であるところのルージアは十四歳だそうだ。

「あ、ねえお兄ちゃん!」

 籠をおいて廊下へ出たネリアが、兄の姿を見つけてとてとてと駆けよっていく。

 この二人は本当に仲がいいが、その背景にあるだろう事情は、かなり複雑だ。思い出し、ディルは眉を寄せる。

 父の日誌によれば。

 探検家が『未知の島』とおぼしき場所で目にしたのは、銃を手に襲ってくる人々の姿。逗留していた農場の主人の話によると、島ではふたつの民族が遙か昔から対立し、戦争を続けているという。

 残念ながらあまり詳細な記述はなく、民族の名も特定は出来なかったのだが。

(もしそうなら、この二人は……?)

 ネリアを追って部屋を出ながら、ディルは考える。

 ディルには、民族対立というのは馴染みがない。戦争も、大きなものは、このあたりでは二十年以上前に終わったきりだ。

 だから想像するしかないのだが、二つの血を引く彼らは、おそらくどちらの民からも受け入れられない存在だったのではないだろうか。迫害され、命からがら逃げ出してきたのかもしれない。

 問いただしたことはない。いずれ聞ければと思っているが、さすがに気軽に尋ねられる内容ではなかった。

 今は懐いてくれたネリアが、無邪気に笑ってくれるから、尚更だ。

「ディルさーん! ちょっと外に遊びに行ってもいい?」

 廊下の先から、ネリアの呼ぶ声がする。

「いいけど。どこ行くんだ?」

「船見てくるー!」

「……また?」

 思わずそうつぶやく。

 船を見ることはネリアのお気に入りだ。昨日初めて近くまで連れて行ってから、しょっ中こうして船を見に行くようになった。一日に何度でも。

 しかも、彼女はそのたびに兄を連れ回している。ルージアは特に迷惑そうではないが、自分だったらかなり鬱陶しいだろうなあと思わずディルは考えた。

「いってきまーす!」

 元気な声とともに、ネリアが外へ出ていく。

「きゃあっ!」

 直後に悲鳴が上がったので、ディルはいささか慌てた。

「どうした!?」

「誰か来た」

 答えたのはルージアで、ネリアは彼の背後に隠れてしまっている。

 まもなく入口に姿を現したのは、間抜けな部下ことルビンだった。

「船長ー! いますかー!?」

「ここにいるだろうが! 目に入ってないのかテメエは!」

 入ってくるなり呼ばわるルビンを、ディルは容赦なく怒鳴り飛ばす。

「あっ! すみません船長、気づかなくて」

「……何か用か?」

 がっくりと脱力感を覚えながらディルは問いかけた。

 この部下も海に出れば優秀な船乗りなのだが、普段はやはり間抜けだ。

「はい。船にトラブルが起きたので、来ていただきたいのですが」

「何? トラブルって、人間か船か」

「船です。どうも帆の調子が悪いようで」

「そうか」

 この前の航海のせいでどこか傷んだだろうか。考えながら、ディルは外に出る。

 まだ兄の背後に隠れたままのネリアと、あからさまでない程度の警戒をルビンに向けているルージアに声をかけた。

「じゃ、みんなで船を見に行こうか?」

 ルージアは無反応だったが、ネリアはこくりと頷いてくれた。



 船の修理は三十分程度で終了した。

「ったく、こんな簡単な故障くらいなんで自力で直せないんだ?」

「はは、すみません」

 修理担当の部下、キイスは軽い笑い声をあげる。彼女の口調が本気の怒りではないと分かっているからこそである。

 ディルは帆を直すのに使った布とロープをくるりとまとめ、それらを箱のなかに納めた。入れ物が小さすぎるのか、あふれ出そうとするのをむりやり押さえつけて蓋を閉める。

「コツさえ掴めばこんなものはあっという間に直せる。覚えておけよ」

「はい」

 キイスが軽く頷いた。必要以上にかしこまらない、聡明な彼をディルは気に入っている。年齢が五歳差と近いせいもあるかもしれない。

「あの子たちが、例の?」

 ふと舳先に目を向けて、キイスが尋ねてきた。

 そこにいるのはルージアとネリアだった。ネリアはさっきまで大はしゃぎしていたのだが――なにしろ、船の上にあがるのはこれが初めてだった――今は兄とおとなしく海を眺めている。

 ちなみに、彼女の過度の人見知り癖を考えて、ディルはキイス以外の船員をみな船から追い出してしまっていた。ネリアが好きに船のあちこちを見て回れるように、と。

 我ながら何だかあの子には甘いな。そう考えて苦笑した。

「ああ、拾ったんだよ。ルビンから聞いたのか?」

「はい」

 修理に使った道具を片づけ始めながら、キイスが頷く。

「お名前はなんと仰るんですか?」

「ん? あっちがネリアでそっちがルージア。兄妹なんだと」

「ご兄妹」

 キイスは少し驚いたようだった。

「似てないよな。別の人種みたいで」

「いえ、それもありますけど」

 キイスは片づけの手を止め、再び異郷の兄妹に視線を向ける。

「ご兄妹というには……よそよそしいですね」

「……なぜ、そう思う?」

「いえ、何となくですが。そうですね、お兄さんの方が少し、妹さんから距離を置きたがっているように見えます」

 ディルは正直感心した。たった三十分で、しかもずっとその行動を見ていたわけでもないだろうに、ここまで見抜くとは。

 彼女は肩をすくめ、自分の意見を話した。

「確かにな。あの二人はやたらと仲は良いんだが、近づいていくのも話しかけるのも、いつもネリアからなんだ。それにネリアと話している時のルージアは、何となく様子がおかしい」

「おかしい、というと?」

「分からない。だから何となくなんだ」

 少し苛立ったような口調のディル。

 キイスは何も答えず、再び片づけの続きをはじめた。道具をひとまとめにして袋にしまう。

 ふと、軽い笑みを含んだ声で言った。

「ずいぶん、あの子たちを気に入っているんですね。船長」

「……まあな」

ディルは苦笑した。

それからかがんで、道具の片づけを手伝い始めた。



「あのね、お兄ちゃん」

 果てのない海。

 吸い込まれるような青はずっと彼方まで広がり、キラキラと白い光を跳ね返している。

 風が静かに、彼女の赤い髪を揺らした。

「私……、鳥になりたかったの」

 ルージアは言葉を返さない。ただ、青い海の先を見つめていた。

「ずっと捕まっていたあの場所から、外に出たかった。空を飛んで、……自由に、どこまでも飛んでいきたかった」

 ネリアは静かに目を閉じる。

 微かに響く、波の音。鳥の声。あたたかい日射し。

 頬を撫でていく自由な風。

 ずっと……あこがれていたもの。

「叶ったのかな?」

 目を開けると、再び真っ青な世界が広がる。

 鮮やかで、まぶしくて、限りなくどこまでも続く海。

「死ぬんだと思った」

 ルージアが呟いた。

「ボートの上で……。意識を失ったとき、最後に、そう思った。大陸になんて着けない、父さんの言っていたことは全て夢物語だったんだって」

 ネリアは黙って、兄の横顔を見上げる。

 海を見つめる兄はどこか遠い人のように思えた。

「目が覚めて、大陸だって聞いて驚いた。信じられなかった。だけど」

 静かな口調で、彼は続けた。僅かに目を細めて、遠い、今はもう遠いあの島の影を見つめているかのように。

「夢物語が叶ったんだって……そう思った」

「――うん」

 海面を黒い影が滑っていく。見上げると白い翼の鳥が一羽、空を舞っていた。

 どこまでも、自由に。

 ネリアは目を細める。あの場所でずっと憧れ続けていた空が、今は手の届く距離に広がっている気がした。

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