替り

 「今日は特別暑くなりそうだ。」

 ラジオの放送を聞いてそうぼやいたのはイワオさんです。イワオさんは台所に立っているタケミさんを一瞥いちべつしました。

 「少し、出掛けてくるよ。」


 イワオさんはタケミさんが居る所に居たくありませんでした。イワオさんがラジオを聴き、タケミさんが料理を作る。こんな毎日が繰り返され、イワオさんはれに飽きてしまったのです。イワオさんは非日常を求めて外をふらつきました。


 だ午前五時、夏といえども空気はとしていて、涼風は体に当たっては空気に溶けていきます。そんな風を感じながら、イワオさんは清流せいりゅう川へと向かいました。


 「親父さん、おはよう。」

 川近くの掘建小屋ほったてごやには、黒眼鏡をかけた一人の老人が住んでいました。この老人は皆から『親父さん』と呼ばれ、川に生息する魚のことなら何でも知っていました。

 「おや、イワオさんではないか。別に責めている訳ではないが、こんな早朝にどうしたのだ。」

 「いやね、今日は久々に釣りを楽しもうと思いましてね。この時期何か面白い魚が釣れませんかね。」

 「ふむ。この時期は渓流へ行くと良い。岩魚いわな等が釣れる。道具を貸してやろうか。」

 「いえ、今はだ。ありがとうございます。」


 渓流まで行くのが億劫だったイワオさんは煙草たばこ屋に向かいました。タケミさんと夫婦と成ってからは煙草を嗜む《たしな》ことは無くなりましたが、イワオさんは衝動的に煙草の味が懐かしく思われたので、一箱買いました。煙草に火を付け、そっと吸い込むと、若き日々が脳内に泉のように湧き出てしまい、よりいっそう日常からの逸脱の願望が強くなりました。


 二本目の煙草を吸い終え、煙草が入っている箱を見ますと、イワオさんは目を見張りました。其処そこには握り拳もない程の大きさの人形が立っていたからです。

 「何だれは。人形か。それにしても不気味な人形だ。しかも変な服装だな。」


 イワオさんは好奇心いっぱいの表情のまま手に力を込めました。すると驚いたことに人形は呻き声をあげたのです。


 「止めてくださいよ、旦那。今なら代償少なめでお一つ願いを叶えますから。」

 セールスマンの様な台詞を喋る人形にイワオさんは興味を持ちました。


 「ふむ。願いを叶えるのか。れならば非日常をしばし楽しませてくれ。」

 すると人形は判りましたと言い、イワオさんの手の中で小さな指を回しました。人形の姿は変わり、まるで紳士のような容姿に成りました。


 「私は悪魔です。今は訳有りましてこのような小さな姿ですが、願いは叶えることができます。では非日常をお楽しみ頂くために、ずは岩を持って頂きます。の岩は、わば心臓。れを落とせばお遊びはお終い。非日常は手には入りません。れを落とす前に、別の誰かが私に願い事を言えば、その時から非日常が始まります。」

 「成る程、悪魔にしては随分と代償が軽いな。非日常の内容はどの様な物なのか。」

 「それは旦那が決めて頂いて結構ですよ。大量の金貨も誰からも愛される人柄、全く別の美しい体だって手に入ります。」


 イワオさんはしばらく考え込みました。どれも魅力的ではありましたが、イワオさんには足りなかった様です。そして悪魔の方を向いてこう言いました。「僕の妻と僕の魂を交換することはできるのか。」


 の言葉は悪魔にとって少し驚きをもたらした様です。「勿論できますとも。お安いご用にございます。しかし、の様な願いでよろしいのですか。」


 「生活環境は全く変わることがなく、しかし人生は他人のを歩む。れ程絶望的で楽しい日常的な非日常はないだろう。」

 「ではの様に致します。では、どなたかに声をかけられるまで私は眠っております。岩を持っているか否かは判りますので、頑張ってお持ちして下さいね。」

 悪魔は再び小人のような人形に姿を変えました。


 イワオさんは岩の心臓を持ち上げました。自分一人の命はこんなにも重いのかと驚愕したイワオさんでしたが、落とすわけにもいきませんので、地面を踏み締めて腰を丸めてと抱え込みました。


 誰がいつ来るかも判らずに、空気が熱を帯びてくる中、イワオさんはただじっと自分の心臓を抱えていました。




おしまい

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イワオの願い事~人から人へ~ 亀麦茶 @chart_clock

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