蛟竜送り

早瀬史啓

蛟龍送り

 今日、私はシェンメイを天へ還しにゆく。

 昨年、龍となって天へ還ったコウ。その卵から孵ったコウは、龍の巫女である私の大祖母が育てていた。翌年の春に行われる蛟龍こうりゅう送りのためにだ。けれど、卵が還った翌月、大祖母は天寿を全うし、コウよりも先に旅立ってしまった。残されたのは大祖母に育てられていたコウと、空席になってしまった龍の巫女の座。そして、私。蛟竜こうりゅう送りを半年後に控えた村では、龍の巫女を誰にするかで揉めていた。


コウを知り、龍となったコウを天へ還せるのは龍の巫女だけだ!」


 両親を早くに亡くし、大祖母に育てられていた私は、必然的に龍の巫女となった。そして、コウの世話も任された。最初、村長からお役目を託された時は困惑した。同時に少しだけ、わくわくした。

もちろん不安はあったけれど、コウへの興味の方が強かった。

だって、コウなんて近くで見たことが無かったのだから。大祖母は私にも、村の人にもコウに近寄らせなかったから――――だから、シェンメイと逢った時のことを、私は今でも覚えている。


 その日は両手にコウに供える神饌しんせんを抱え、村はずれに広がる平野を歩いていた。大祖母の話によれば、切り立ったラオファンの山々がよく見える湖にコウはいるのだという。すっかりおぼろげになってしまった記憶を頼りに湖までやって来た私は、がっかりした。そこは何の変哲もないただの湖だったから。いかにも龍のいる神秘的な湖の景色を想像していた私は、神饌しんせんを放り出して途方に暮れた。

 長閑な景色だった。山の方から吹いてくる風が冷たくて心地よかった。草々のざわめきが、まるでお喋りをしているように豊かだった。けれど、私の気持ちは沈んだまま。

 

(湖の中を覗けばコウが見えるかもしれない)


 ふと、そんなことを思いついて湖面から覗いてみれば、名前の知らない魚が泳いでいるのが見えた。


「龍は神獣だから、普通の人には見えないし、触れもしない。視えるのは、龍の巫女だけ。もちろん、龍の子のコウも龍の巫女しか視えないし触れないんだよ」


「じゃあ、私も龍の巫女になったら見られるの?」


「もちろん。貴女が大きくなって、龍の巫女になれたらきっと、コウも、コウが龍になるところも視られるだろうねぇ」 


 あれは大層美しい光景だったよと、笑った大祖母の言葉を思い出しながら、湖の中を食い入るように見つめた。漫々と湛えられた水の中に魚が泳ぎ、水草が水流にもまれるように流れてゆく。真っ暗な湖底からは、ぶくぶくと小さな泡が浮いていた。やがてそれは次第に大きくなり、湖底から長い紐のような影が、すーっと浮かんできた。


(ごみ……?)


 じっと、目を凝らす。

 ぶくぶくとした泡の中で、影が揺れていた。それが、私の方に近づいてくる。水面が波打つことも無く、静かに忍び寄るように、すーっと。

 波立つ音もなく浮かんできたのは、額に枝のような角が生えている、小さな水蛇のような生き物だった。

 細くしなやかな体は縄のようで、そこから冗談のように小さな手足が二対、静かに水をかいている。紫色の大きな瞳を見た瞬間、額が雷に打たれたように熱くなった。そして、分かってしまった。


 ”―――――これが、コウ!”


 黒い水蛇のようなそれは、紫色の双眸を私へ向けると、じっと見つめた。そして、暫くしてから湖面に鼻を突き出し、長い尾鰭で水面を叩いた。時折、私が用意した神饌しんせんへ顔を向け、水中でくるりと回ってみせる。


「みゃあ」


 子猫のような鳴き声に、へたり込んでしまった。


「みゃあ。みゃあ」


 想像するよりもずっと愛らしい鳴き声で神饌しんせんの催促をするコウを眺めている内に、なんとなく可笑しくなった。


(神獣の子というからどんな生き物なのかと身構えていたのに)


 これではまるで、人に慣れた動物のよう。

 笑いながら神饌しんせんを与えると、コウは喜ぶように水面を跳ねた。陽光を反射してキラキラ輝く鱗が青白く、また宝石のように美しくてたまらなかった。やがて神饌しんせんを食べ終わると、コウはまた、ほの暗い湖の底へ戻っていってしまった。


 それからだ、コウと私が逢うようになったのは。

 コウは通うたびに体が大きくなっていった。怖くはなかった。懐いてくれるのが嬉しくて、いつしか湖の主にちなんで”美しき青シェンメイ”という名前までつけてしまった。


 そして――――蛟竜こうりゅう送りの日。

 それはみずちが龍となる日。渇水による飢難きなんを除け、作物の豊作を祈る豊穣の儀。


 この日、私は龍の巫女の衣装を纏い、村長と司祭の格好をした村の男達と共に湖のへりに立った。

 湖面は穏やかな風に波打っている。いつものように水鳥はいない。鏡のような水面に、新緑に染まったラオファンの山と、それを背にした私がいる。湖に私の姿が映ると、シェンメイは、いつものように湖面へ近付いてきた。大蛇のように大きくなったシェンメイは、湖の底でとぐろを巻いたまま、私と空を見上げている。

 そして、頭だけを水面から出し、じっと私をみつめた。暴れることなく、ただ、じっと。まるで、これから何が行われるかを知っているかのように。

 私は蛟竜こうりゅう送りの儀に使うタシの草を噛むと、クラクラとする意識の中で歌い始めた。


 ”歌と舞によって導かん。は命ある者全ての慈母。水神の子、蛟竜こうりゅうなり――――”


 高らかに響きわたる声を合図に、村長が湖へ色とりどりの花々を撒く。湖面が鮮やかな花弁で染まった。村の男達が楽を取り、吹き鳴らしはじめる。笛と馬琴が奏でる楽の音を、シェンメイは湖から静かに眺めていた。


 さあ、舞おう。

 晴天に黒雲を呼び寄せ、墨に染まった空の下で。

 楽を鳴らして歌おう。

 シェンメイが無事に天へ還れるように。

 皆で祈ろう。

 シェンメイが龍となり、村へ恵みの雨をもたらしてくれるよう。


 歌が中盤に差し掛かった頃、シェンメイの姿がぼんやりと青くひかりはじめた。村長も村の男達も気づいていない。私だけが湖から首を出し、天を仰ぐシェンメイの異変に気付いていた。

 青白く光っていたシェンメイの体がどんどん白くなり、やがて、すーっと透き通ってゆく。やがて、視た。透き通ったシェンメイが、ゆっくりと天へ登ってゆくのを。

 それは角の生えた水蛇というよりは、龍だった。淡い白の、儚い霧の竜。シェンメイが雷雲を引き連れてきた黒雲へ昇ってゆく。

 

 ふいに、頬に雫が流れた。ほの暖かな、塩味のする雫だった。

 その上から、冷たい滴が流れ落ちる。ぽつり、ぽつりと体に当たる雫は、やがて雨となり私の全身を濡らした。

 天へ昇ってゆくシェンメイの姿は、もう、何処にもなかった。

 どっと沸いた歓声の中、私はひっそりとした喪失を胸に抱きながら、ずっと雨に打たれていた。昏くなるまで、ずっと。


 翌年、五月。

 いつものように湖を訪れた私の前に、一匹の小さな水蛇が水面から顔を出した。シェンメイそっくりの角に、大きな紫色の瞳で、猫のように鳴く生き物。龍になったシェンメイが遺した、小さないのち


「おかえり、私の美しき青シェンメイ


 ―――今年もまた、蛟竜こうりゅう送りが始まる。






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